第二十七話 帰還
ドサッ。
ミツキが崩れ落ちた後、神殿には再び静寂が戻った。
だが、それは平和な静けさではない。
嵐が過ぎ去った後の、破壊の爪痕だけが残された、重苦しい沈黙だった。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
ルークは、震える手で剣を支えにしながら、どうにか身体を起こした。
乱れた髪の隙間から、泥のように眠るミツキの姿を見つめる。
その周囲に広がるのは、弾け飛んだ神官兵の肉片、枯れ木のようになったミイラ、そして灰の山と化したウリエルの残骸。
「……何が起きたんだ……」
ルークの口から、乾いた言葉が漏れる。
助かった。それは間違いない。
だが、感謝よりも先に湧き上がってきたのは、骨の髄まで凍りつくような「恐怖」だった。
ミツキは、僕たちまで殺そうとした。
壊れた玩具を直すような顔で、僕たちを「灰」にしようとしたのだ。
「ミツキ……さん……」
セレスティアがへたり込んだまま、呆然と彼女を見つめる。
駆け寄ることさえできない。
彼女の中にある「ミツキ」という少女の像が、目の前の「怪物」と重なり、脳が混乱を起こしている。
その時だった。
ドォォォォォンッ!!
神殿の天井が砕け散り、巨大な影が隕石のように降り立った。
舞い上がる粉塵。
圧倒的な神気が、ピリピリと肌を刺す。
「……なんという事だ」
煙の中から現れたのは、褐色の肌に孔雀の羽飾りを纏った青年――ムルガンだった。
彼は迷宮での異変――突如として膨れ上がった膨大な「穢れ」と「死」の気配を察知し、急行してきたのだ。
「ム、ムルガン様……!」
ロクサーナが安堵の声を上げる。
ムルガンは鋭い眼光で周囲を一瞥した。
惨殺された兵士たち。そして、足元に積もる金色の灰。
「……ウリエルが死んだか」
驚愕というよりは、納得に近い響きだった。
そして彼の視線は、中心で倒れているミツキへと注がれる。
彼女の全身から立ち上る、残り香のような禍々しい瘴気。ムルガンは眉を顰めた。
「狂気の権能を使ったのだな。よもや、人の身でこれほどの深淵を開くとは」
ムルガンはミツキの元へ歩み寄ると、躊躇なくその身体を抱き上げた。
まるで、疲れて眠ってしまった幼子を抱くように。
「ムルガン殿、ミツキは……!」
ルークが何かを言いかけるが、言葉に詰まる。
何と言えばいい? 味方を殺そうとした? 狂っている?
ムルガンは静かにルークを見据えた。
「何も言うな。……今は、ここを離れるのが先決だ」
彼はミツキを左腕に抱え、右手で仲間たちへ脱出を促す。
「神殿の結界は消滅した。じきに、アダムス派の残党か、あるいは別の勢力が嗅ぎつけてくるだろう。……立てるか?」
「……あ、ああ。なんとかな」
ルークはロクサーナの肩を借り、セレスティアがエリシェヴァを起こす。
セレスティアは、ムルガンの腕の中で眠るミツキを一瞬だけ不安そうに見つめた後、無言で頷いた。
「よし。……トッサカンの迷宮へ戻るぞ」
ムルガンが床を強く踏みしめる。
転移の光が、一行を包み込んだ。
崩壊した神殿には、彼岸花の幻影と、主を失った灰だけが残された。
視界を染めていた転移の光が収束すると、そこは薄暗い石造りの回廊だった。
トッサカンの迷宮――
あの神殿の、血と灰と死臭にまみれた空気とは違う、湿っているがどこか落ち着いた静寂がそこにはあった。
「はぁ、はぁ……急ぐぞ。すぐに処置をせねばならん」
転移するなり、ムルガンが焦燥を露わにして叫んだ。
いつもの冷静な姿ではない。額には脂汗が滲み、腕の中で泥のように眠るミツキを、壊れ物を扱うように慎重に抱えている。
『狂気の権能』――神さえも蝕む禁断の力を行使した反動で、彼女の精神は今、擦り切れる寸前なのだ。
「お、おい! 君たち! 無事だったか!」
その時、通路の奥からヴィクラムが駆け寄ってきた。
彼は留守番を命じられていたため、神殿での地獄を知らない。
だからこそ、満面の笑みを浮かべて仲間たちを出迎えた。
「心配したんだ! ウリエルはどうなった? 追い払えたのか?」
「……」
ヴィクラムの明るい問いかけに、即答できる者は誰もいなかった。
ルークは悔しそうに唇を噛み締め、ロクサーナは悲痛な面持ちで俯いている。
セレスティアは、涙ぐみながらミツキの寝顔を見つめていた。
「え……? おい、どうしたんだ皆。そんな、お通夜みたいな顔して……」
ヴィクラムが困惑して足を止める。
そこでようやく、彼はムルガンの腕の中でぐったりとしているミツキに気づいた。
「ミツキ君!? 怪我をしてるのか!?」
血まみれのドレス。蝋人形のように青白くなった顔。
ヴィクラムは血相を変えて駆け寄り、その様子を確かめようと手を伸ばす。
「おい、ミツキ君! しっかりしろ!」
「――待て、ヴィクラム。今はそっとしておいてやってくれ」
低く、抑えた声が響いた。
ルークだった。彼女はヴィクラムの手を制するように前に出た。
その瞳に宿っているのは、ミツキへの拒絶ではない。あまりにも変わり果ててしまった仲間を直視することへの「動揺」と、深い「憂慮」だった。
「ルーク……?」
「……酷く、消耗しているんだ。今は、安易に触れて刺激しないほうがいい」
ルークは握り拳を作り、悔しそうに震える声で続けた。
「僕たちが……僕たちが不甲斐ないばかりに、あいつに『禁忌』を使わせてしまった……」
「禁忌……?」
「話は後だ。今は彼女を救うことが最優先だ!」
ムルガンが鋭い声で遮り、ヴィクラムの横を駆け抜ける。
「彼女の精神は今、深い深淵に沈んでいる。一刻も早く楔を打ち込み、繋ぎ止めねば、二度と目覚めなくなるぞ!」
「なっ……!?」
ムルガンは仲間たちの返事を待たず、ミツキを抱えたまま回廊の奥にある治療室へと疾走した。
取り残されたヴィクラムは、訳がわからず、立ち尽くしているルークたちの方を振り返る。
――彼とて、手をこまねいていたわけではない。
神殿の結界は綻んでいたが、そこに『翁の息子』であり『地主神』でもある彼が無理やり侵入すれば、天上神の防衛機構が過剰反応し、街ごと消滅させる「神々の戦争」が勃発してしまう恐れがあった。
故に、彼は動けなかった。結界が消えるか、決着がつくのを、歯痒い思いで待つしかなかったのだ。
その結果が、少女の犠牲だというのなら――神として、これほど悔しいことはない。
「……一体何があったんだ。ミツキ君は、そんなに危険な技を使ったのか?」
その問いに、ロクサーナが自身の腕を抱きしめながら、震える声で答えた。
「……あの子は、ウリエルを……灰にしたの。指を鳴らしただけで……」
「え……?」
「あんな力、人の身で扱っていいものじゃない……。ミツキちゃんの心が、人ではない『何か』に塗りつぶされていくようだったわ……」
ロクサーナの瞳には、恐怖よりも、友人が遠くへ行ってしまうような悲しみが滲んでいた。
「嘘、だろ……?」
ヴィクラムの視線が、ムルガンが走り去った通路の奥へと向く。
先ほど一瞬だけ見えた、泥のように眠るその顔は、あどけなく、とても安らかに見えた。
だが、その命の灯火が今にも消え入りそうになっていることを、全員が肌で感じていた。
重苦しい沈黙が、迷宮の通路を支配する。
強大な敵を倒したというのに、勝利の余韻など微塵もなかった。
――――
……甘い、香りがする。
鼻を突く腐敗臭でも、鉄錆の臭いでもない。
胸いっぱいに吸い込みたくなるような、懐かしく、切ない花の香り。
ミツキは、ゆっくりと目を開けた。
「……ここは」
視界に広がっていたのは、燃えるような紅蓮。
地平線の彼方まで続く、一面の彼岸花畑だった。
空を見上げれば、沢山の泡が淡い光を放ち、永遠に明けない夜空が世界を優しく包み込んでいる。
(……手じゃない。ちゃんと、花だ)
ミツキは恐る恐る、足元の赤い花に触れた。
ぬるりとした肉の感触はない。繊細な花弁の感触が指先に伝わる。
そこは「火葬場」ではなく、彼女がよく知る「揺り籠」としての精神世界だった。
「まったく……。少し目を離せばこれだ」
呆れたような、けれど温かみのある男の声が背後から響いた。
ミツキは弾かれたように振り返る。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
健康的な褐色の肌に、艶やかな長い黒髪。
月光を宿したような黄金の瞳が、静かにミツキを見下ろしている。
泥も、灰も、返り血もついていない。
その凛とした佇まいは、神々しくさえあった。
「……おき、な……?」
ミツキの声が震える。
先ほどの悪夢――狂気に満ちた瞳で、死体の肉片を愛おしげに継ぎ接ぎしていた彼の姿が脳裏をよぎる。
あれが本性なのか。それとも、これが幻なのか。
ミツキが後ずさろうとした、その時。
デコピン。
パチンッ! と小気味よい音がして、ミツキの額に鋭い痛みが走った。
「あ痛っ!?」
ミツキは涙目で額を押さえ、うずくまる。
地味に痛い。容赦がない。
「……夢や幻なら、痛みは感じんよ。馬鹿者め」
翁はフンと鼻を鳴らし、腕組みをしてミツキを見下ろした。
「あれほど言ったであろう。『狂気の権能』は諸刃の剣だと。お主の精神が未熟なまま使えば、深淵に飲まれ、二度と戻れなくなると警告したはずだ」
「う……ごめんなさい……」
ミツキは小さくなって謝る。
その説教臭い口調。乱暴だけど愛情のある態度。
間違いなく、彼女の知る「師匠」だった。
「でも……そうするしかなかったの。ウリエルが強すぎて、みんなが殺されそうで……」
「だからといって、お主が壊れてどうする。……あのまま私が止めなければ、お主は仲間ごと自分自身を『処理』していたぞ」
翁の言葉に、ミツキの顔色が青ざめる。
記憶がフラッシュバックする。
傷ついたルークたちを「壊れた人形」と認識し、死の手を向けた自分。
あの時の狂った高揚感と、無邪気な殺意。
「ああ……私……なんてことを……」
ミツキは自分の手を見つめ、ガタガタと震え出した。
「私は……やっぱり化け物なんだ……。あんな残酷なことをして、笑ってた。……お母さんの言った通り、私の本性は汚れてるんだ……」
「たわけ」
再び、翁のデコピンが飛んできた。
「痛っ!?」
「勝手に卑下するな。……あの狂気は、お主の本性ではない。この世界の『穢れ』そのものだ」
翁はため息をつき、ミツキの隣にドカッと腰を下ろした。
そして、乱暴に、しかし優しくミツキの頭を撫でる。
「お主が見た悪夢――死体と灰の世界。あれは、かつて私が味わった『絶望の記憶』だ。権能を使ったことで、お主と私のパスが繋がり、私のトラウマがお主に流れ込んでしまったのだ」
「翁の……記憶……?」
「ああ。……だから、あれはお主の罪ではない。――私の罪だ」
翁は申し訳無さそうにミツキに話すと、寂しげに目を細め、広大な花畑を眺めた。
「お主は守ろうとした。そのために禁忌に手を染め、狂気に身を浸してでも、理不尽な暴力に抗った。……その結果がどうあれ、お主の根底にあったのは『想い』だ」
大きな手が、ミツキの背中をポンと叩く。
「胸を張れ、ミツキ。お主は化け物ではない。……私の自慢の、ただ一人の『巫女』だ」
「翁……」
ミツキの瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
それは、絶望の涙ではなく、許された安堵の涙だった。
「さて……。長居は無用だ。向こうでは、お主の仲間たちが泣きそうな顔で待っているぞ」
翁が立ち上がり、出口の方角を指差す。
「帰りなさい。……お主にはまだ、やるべきことがあるはずだ」
「……うん!」
ミツキは涙を拭い、力強く頷いた。
立ち上がり、一歩踏み出す。
背中から、温かい風が吹いた気がした。
「行ってきます、翁!」
ミツキの姿が光に包まれ、彼岸花の世界から消えていく。
一人残された翁は、やれやれと肩をすくめ、どこか嬉しそうに呟いた。
「……フン。調子の良いやつめ」
その口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。




