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第二十四話 神崎美月③

※暴力描写が強めの回です


※虐待・自殺・事故などの描写を含みます

 ガタリ、という微かな音さえ、雨音が消してくれる。

 パジャマの上にパーカーを羽織り、裸足のままサンダルを突っ込むと、彼女は窓枠に足をかけた。

 

 ザアアアアア……!

 

 一歩外に出た瞬間、強烈な冷気と水飛沫が全身を襲った。

 二階の窓から伸びる雨樋あまどいに必死にしがみつく。

 錆びた鉄の冷たさが掌に食い込み、濡れたパイプは酷く滑った。

 

「っ……く……!」

 

 足が滑り、膝を外壁に擦りむく。鋭い痛みが走るが、構っていられなかった。

 ミツキは泥だらけになりながら、這うようにして庭の芝生へと着地した。

 綺麗に手入れされた庭の泥が、サンダルの隙間から素足に絡みつく。

 母さんが見たら卒倒するだろう。

 でも、今のミツキにとって、この泥の感触こそが、操り人形ではない「自分の意志」で動いている証だった。

 

 ミツキは走り出した。

 傘はない。

 バケツをひっくり返したような豪雨が、視界を白く染め上げる。

 濡れたパーカーが重く肌に張り付き、体温を容赦なく奪っていく。

 

 パシャッ、バシャッ!

 

 水たまりを蹴り飛ばし、誰もいない住宅街を疾走する。

 息が上がる。肺が焼けるように熱い。

 心臓が早鐘を打っているのは、運動のせいか、それとも焦燥のせいか。

 

(ヒナタ、待ってて……! 今行くから……!)

 

 あんな酷いメールを送られて、彼女がどれほど傷ついたか。

 いつも明るく振る舞っているけれど、ヒナタは本当は繊細で、誰よりも寂しがり屋だ。

 誤解だと伝えなければ。あなたは私の、一番大切な友達なのだと。

 角を曲がり、大通りに出る。

 昼間は車で溢れている交差点も、この悪天候の中では死んだように静まり返っていた。

 信号機の赤い光だけが、雨に滲んで不気味に揺らめいている。

 

「……はぁ、はぁ、はぁ……ッ」

 

 呼吸を整えようと膝に手をついた、その時だった。

 

「――え?」

 

 通りの向こう側。

 点滅する歩行者用信号の下に、安っぽいビニール傘を差して佇む人影があった。

 骨が一本折れているのか、少し歪んだ傘。その下で、ミツキの家の方向をじっと見つめている少女。

 見間違えるはずがない。

 

「……ヒナタ?」

 

 ミツキの声は雨音にかき消された。

 けれど、何かに導かれるように、ビニール傘の縁が上がり、少女の顔が覗いた。

 

 雨に打たれ、肩口は濡れていた。

 きっと、メールを見て居ても立っても居られず、こんな時間まで傘を握りしめて待っていたのだろう。

 その瞳が、闇の中にミツキの姿を捉える。

 

 一瞬の驚愕。

 

 そして、花が咲くような、安堵の笑み。

 

「――ミツキ!?」

 

 ヒナタの唇が動き、その声が微かに届いた。

 拒絶されたと思っていた親友が、自分を探して走ってきてくれた。その事実が、彼女の顔を輝かせていた。

 

「よかった……! もう、会えないかと思って……!」

 

 ヒナタが大きく手を振る。

 早く側に行きたい。早く言葉を交わしたい。

 そんな純粋な想いが、彼女の足を一歩、車道へと踏み出させた。

 その瞬間。

 

 ゴオオオオオオオ……。

 

 地響きのような重低音が、雨音の隙間から聞こえた。

 ミツキの視界の端、交差点のカーブから、二つの強烈な光の束が飛び込んできた。

 

「――――ッ!?」

 

 深夜の配送を急ぐ大型トラック。

 雨のカーテンで視界を奪われたドライバーは、赤信号に気づくのが遅れ、ブレーキを踏むことさえ忘れて突っ込んでくる。

 世界が、スローモーションになった。

 眩しいヘッドライトが、ヒナタの持つ透明なビニール傘を、そして彼女の小さな身体を真っ白に照らし出す。

 ヒナタが眩しそうに顔を向け、その笑顔が驚愕に凍りつき――。

 

「待って……ヒナタ、きちゃだめぇぇぇぇッ!!」

 

 ミツキの絶叫は、轟音にかき消された。

 

 ドォォォォォォォンッ!!

 

 肉と骨が、鉄の塊と衝突する、生々しく重たい音。

 人形のように吹き飛ばされたヒナタの身体が、濡れたアスファルトの上を何度もバウンドし、ボロ雑巾のように転がっていく。

 

 カラン、カラン……。

 

 主を失ったビニール傘だけが、独楽のように虚しく宙を舞い、ミツキの足元へと転がってきた。

 

 キキキキキキィィィィッ!!

 

 遅すぎる急ブレーキの音が、耳をつんざく。

 降り注ぐ雨に、赤い飛沫が混じり、ミツキの頬に生温かい液体となってへばりついた。

 世界から、音が消えたようだった。

 トラックの急ブレーキ音も、運転手の怒号も、降り注ぐ雨の音さえも、遠い別の次元の出来事のように感じる。

 ミツキの視界にあるのは、道路の真ん中に転がっている「それ」だけだった。

 

「……あ、あ……」

 

 足がもつれ、水たまりに膝をつく。

 這うようにして、「それ」に近づく。

 数秒前まで、笑っていた。

 数秒前まで、名前を呼んでくれていた。

 ヒナタだったもの。

 

「ヒナ……タ……?」

 

 返事はない。

 あるはずがない。

 ヒナタの体は、布切れを絞ったようにねじれていた。

 左足の膝から下はあさっての方向を向き、破れたストッキングからは、白い骨が鋭角に突き出している。

 スカートはめくれ上がり、腹部はトラックのバンパーに押し潰されたのか、どす黒く陥没していた。

 そして、何より。

 

「う……そ……」

 

 地面に投げ出された頭部からは、大量の赤黒い液体がアスファルトの亀裂を伝って広がっていた。

 潰れた果実のように変形した頭蓋。

 虚ろに開かれた左目だけが、雨空を――いや、何も映さずに虚空を見つめている。

 

 即死だった。

 

 医者でなくとも分かる。これは、もう「人間」の形をした肉塊だ。

 

「いや……いやぁぁぁぁッ!!」

 

 ミツキは血まみれの遺体を抱きしめようとして、その感触の冷たさと、ぬるりとした血液の感触に絶叫した。

 

 戻ってよ。嘘だと言ってよ。

 私のせいだ。私が呼んだから。私が、私なんかのせいで!

 

「おい! お嬢ちゃん! 触るな!」

 

 トラックから降りてきた運転手が、青ざめた顔で叫びながらミツキの肩を掴み、無理やり引き剥がす。

 

「あの子が! あの子が急に飛び出してきたんだ! 俺は悪くねぇ! 俺は悪くねぇぞ!!」

 

 男の自己保身の叫び声が、ミツキの耳元でワンワンと反響する。

 ミツキの手には、ヒナタの温かい血だけがべっとりと残っていた。

 

 ――――――

 

 それからのことは、断片的な記憶しかなかった。

 赤色の回転灯。サイレンの音。

 救急隊員の「DOA(到着時死亡)」という短い宣告。

 野次馬たちの好奇の視線と、スマホのシャッター音。

 ミツキは警察署の質素な長椅子に座らされ、毛布にくるまっていた。

 身体の震えが止まらない。

 事情聴取を行おうとする婦人警官の声も、右から左へと流れていく。

 

(死んだ。ヒナタが死んだ。私のせいで)

 

 頭の中で、その言葉だけが壊れたレコードのように繰り返される。

 

 コツ、コツ、コツ。

 

 静まり返った廊下に、ヒールの音が響いた。

 ミツキがビクリと肩を震わせて顔を上げる。

 自動ドアが開き、完璧なメイクをした母親が入ってきた。

 彼女は警官に軽く会釈をすると、まっすぐにミツキのもとへと歩み寄ってくる。

 

「……お母さん」

 

 助けて。怖い。辛い。

 ミツキは縋るように手を伸ばしかけた。

 どんなに冷たい親でも、こんな時くらいは抱きしめてくれるのではないか。そう期待して。

 けれど。

 母親はミツキの目の前で立ち止まると、娘の血で汚れた手を一瞥し、ふぅと息を吐き出した。

 

「よかったわね、あなたが轢かれなくて」

 

 その声は、夕食の時と同じ、平坦で感情のないものだった。

 

「え……?」

 

「警察の方には、きちんと説明しなさい。あなたは悪くない。あの子が勝手に飛び出したのよ」

 

 母親はミツキの肩に手を置く。その手は強く、痛いほど食い込んだ。

 娘の心を心配しているのではない。

 「自分の娘が事故の原因を作った」という汚点がつくのを恐れているのだ。

 

「証言は慎重にしなさい。私たちに責任が及ばないように。……分かったわね?」

 

 耳元で囁かれた悪魔の言葉。

 ミツキは口を開けてパクパクと空気を求め、そして絶望的な現実に打ちのめされて俯いた。

 ヒナタは死んだ。

 そして私も、今この瞬間に死んだのだ。


 

 ――――


 

 数日後。

 空は、あの日と同じように泣いていた。

 街外れにある、古びた斎場。

 予算を切り詰めたような小さな祭壇の真ん中で、遺影の中のヒナタだけが、屈託のない笑顔を浮かべている。

 棺の中の彼女は、損傷が激しすぎるため、顔を見ることは叶わなかった。

 お線香の匂いと、湿ったカビの匂いが混じり合う独特の空気。

 その中で、悲痛な泣き声だけが響き渡っていた。

 

「うぅ……ヒナタ……ヒナタぁ……ッ!」

 

 喪服姿のヒナタの母親が、棺に縋り付いて泣き崩れている。

 

 女手一つで育ててきた、たった一人の娘。その喪失の重さは、計り知れない。

 ミツキは、少し離れた場所で、ただ呆然とその光景を眺めていた。

 

 涙は枯れていた。心臓が動いているのかさえ分からないほど、身体が冷たい。

 私は人殺しだ。私が彼女を殺した。

 そんな罪悪感が、鉛のように胃の底に沈殿している。

 その時だった。

 

「……ご愁傷様です」

 

 ミツキの隣に立っていた母親が、おもむろにヒナタの母親へと歩み寄った。

 

 完璧な喪服の着こなし。悲しげに伏せられた目。

 だが、その足取りには一点の躊躇いもなかった。

 

「あ……神崎さんの、お母様……」

 

 ヒナタの母が、腫れ上がった目を向ける。

 すると、ミツキの母は懐から分厚い茶封筒を取り出し、ヒナタの母の手元に押し付けた。

 

「え……これは……?」

 

「お香典、というには少し多すぎますが……どうぞ、受け取ってください」

 

 母親は、周囲の参列者に聞こえないような小声で、しかしはっきりと告げた。

 

「今回の事故、警察の方からも『娘さんの飛び出しが原因』と結論が出ていますよね? トラックの運転手の方も、うちの娘も、言ってみれば被害者です」

 

「ッ……」

 

 ヒナタの母が息を飲む。

 事実かもしれない。けれど、娘を亡くしたばかりの親に言う言葉ではなかった。

 

「ですが、亡くなられたのは事実。うちとしても、娘が関わっていた手前、これだけの誠意おかねは包ませていただきました」

 

 母親は分厚い封筒を強く握らせると、氷のような微笑みを浮かべた。

 

「ですので――これ以上、騒ぎ立てないでくださいね? うちの娘の将来けいれきに、傷がつくと困りますから」

 

 それは、「金はやるから黙っていろ」という通告だった。

 ヒナタの母は、屈辱と悲しみで顔を歪め、封筒を握りしめたまま震えている。言い返す気力さえ、奪われているようだった。

 

「……行きましょう、ミツキ」

 

 母親は用件は済んだとばかりに踵を返し、ミツキの背中を押して出口へと向かう。

 父親は、何も見なかったように傘を開き、先に外へと出て行った。

 斎場の外は、冷たい雨が降り注いでいた。

 ミツキは足がすくみ、立ち止まる。

 背後からは、まだヒナタの母の嗚咽が聞こえている。

 

「……お母さん、どうして……あんな……」

 

 震える唇で問いかける。

 すると、母親はミツキの耳元に顔を寄せた。

 誰にも聞かれないように。

 まるで、内緒話を楽しむ少女のように。

 

「あら、感謝して欲しいくらいよ」

 

 母親は、くすりと笑った。

 

「清々したわね。あの子、貧乏で片親で、将来ろくな大人にならなかったわよ。神様が早めに『処分』してくれたのね」

 

「――――ッ」

 

 ミツキの中で、何かが完全に砕け散った。

 この人は、人間じゃない。

 そして、こんな人間がのうのうと生きていて、優しかったヒナタが死ぬ。

 

 そんな理不尽を許しているこの世界そのものが――狂っている。

 

「さあ、帰りましょう。明日からは塾も再開するわよ。遅れた分を取り戻さないとね」

 

 母親がミツキの腕を掴む。

 その感触が、蛇が巻き付いているように思えて、ミツキは反射的にその手を振り払った。

 

「……?」

 

 母親が怪訝な顔をする。

 ミツキは後ずさった。

 雨に濡れることも厭わず、ただ、この「化け物」から離れたかった。

 

 もう、無理だ。

 

 これ以上、一秒だって生きていたくない。

 こんな腐った世界で、息を吸いたくない。

 

 ミツキは踵を返すと、両親の制止も聞かず、雨の煙る街へと走り出した。

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