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第二十三話 神崎美月②

※暴力描写が強めの回です


※虐待・自殺・事故などの描写を含みます

 玄関のドアを開けた瞬間、背筋が凍るような冷気が肌を刺した。

 外の蒸し暑さとは違う、人工的で無機質な冷房の風。

 ミツキは無意識に息を止め、音を立てないように靴を脱ぐ。

 

(……まだ帰ってないかも。今のうちに部屋に――)

 

「――お帰りなさい」

 

 リビングの奥から、平坦な声が響いた。

 ミツキの足が強張る。

 恐る恐る顔を向けると、ダイニングテーブルに母親が座っていた。

 

 手元には紅茶。そして、その横には――ミツキが自室に置いていったはずの「予備のスマートフォン」が置かれている。

 

「あ……」

 

「15分の遅刻ね。塾にも行っていない」

 

 母親は紅茶のカップをソーサーに戻すと、ゆっくりとミツキの方を向いた。

 怒っているようには見えない。ただ、汚れた皿を見るような目で、娘を見つめている。

 

「ご、ごめんなさい。あの、ちょっと友達と……」

 

「星野陽向さん、でしょう?」

 

 心臓が跳ね上がる。なぜ、名前を。

 ミツキの動揺を見透かしたように、母親はテーブルの上のスマホを指先でトントンと叩いた。

 

「GPSを見たわ。駅前のファストフード店。……言ったはずよね? ああいう育ちの悪そうな子とは関わるなと」

 

「ち、違うの! ヒナタは悪い子じゃない! ただ、ちょっと話してただけで……」

 

「口答えをしないで」

 

 鋭い声が飛ぶ。ミツキは肩を震わせて口を閉ざした。

 母親は大きなため息をつくと、立ち上がってミツキに近づいてくる。

 

「あなたはまだ子供で、判断能力が未熟なの。だから、お母さんが代わりに『整理』しておいてあげたわ」

 

「……え?」

 

 整理。その言葉の響きに、嫌な予感が駆け巡る。

 

「星野さんの親御さんと、学校に連絡を入れたの。『うちの娘にしつこく付きまとわれて迷惑している』『金輪際、関わらないよう指導してほしい』とね」

 

「な……ッ!?」

 

 頭が真っ白になった。

 付きまとう? 迷惑? 違う、誘ったのは私だ。私の方が、ヒナタと一緒にいたかったのに。

 

「なんで……そんな嘘……!」

 

「嘘じゃないわ。あなたのためよ。……ああ、それから」

 

 母親はミツキの手から、今持っている方のスマートフォンをひったくるように取り上げた。

 そして、画面を操作し、メッセージアプリの送信履歴をミツキの目の前に突きつける。

 

『ごめん、もう話しかけないで。正直、迷惑だから』

 

 送信先は、ヒナタ。

 送信時刻は、つい数分前。

 

「あ……あ、あ……」

 

「本人にも伝えておいたから、これで安心ね。もうあの子があなたに近づくことはないわ」

 

 母親は満足げに微笑むと、ミツキのスマホを自分のポケットにしまった。

 

「さあ、夕食にしましょう。今日はあなたの好きなハンバーグよ」

 

 ミツキは床に崩れ落ちた。

 母親の背中を見つめる視界が、涙で歪む。

 絶望と、恥辱と、どうしようもない喪失感。

 あんなに楽しかった夕焼けの記憶が、黒いインクで塗りつぶされていく。

 

(ヒナタ……違うの、違うの……っ!)

 

 声にならない叫びが、喉の奥で詰まっていた。

 その時ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。

 

「ただいまー」

 

 聞き慣れた、少し疲れたような低い声。父親が帰ってきたのだ。

 ミツキは涙で濡れた顔を上げ、すがるような思いで廊下の方を向いた。

 

「あら、お帰りなさい。ちょうどご飯ができたところよ」

 

 母親は何事もなかったかのように微笑み、ミツキの前を通り過ぎて廊下へと向かう。

 その隙に、リビングに入ってきた父親の姿が見えた。

 よれっとしたスーツに、緩めたネクタイ。彼は、床に座り込み、目を赤く腫らした娘の姿を見て、一瞬だけ足を止めた。

 

「……お父さん」

 

 ミツキは震える声で呼びかけた。

 助けて。お母さんがおかしいの。ヒナタとの関係を勝手に壊されたの。

 

 言葉にならないSOSを瞳に込めて、父を見上げる。

 父親と、目が合った。

 彼は状況を理解したはずだ。娘が泣いていて、妻が異様に上機嫌であるという、この家の歪んだ空気を。

 けれど。

 

「……あー、腹減ったな。今日はハンバーグか?」

 

 父親は、ふいっとミツキから視線を逸らした。

 何事も見ていないフリをして、何事も聞こえないフリをして。

 

 彼は逃げるようにダイニングテーブルへと向かい、母親が用意した椅子に重い腰を下ろした。

 

「そうよ。ビールでいいかしら?」

 

「ああ、頼む」

 

 プシュッ、と缶ビールが開く音が響く。

 ミツキの心の中で、最後の細い糸がプツリと切れた音がした。

 

 この家には、味方はいない。

 

 支配する「王」と、それに従う「下僕」、そして「囚人」である自分しかいないのだ。

 

「ミツキ、あなたも座りなさい。冷めてしまうわよ」

 

 母親の命令に、ミツキは糸の切れた人形のように立ち上がり、席についた。

 カチャ、カチャ、と食器がぶつかる音だけが響く食卓。

 テレビからはバラエティ番組の笑い声が流れているが、誰も笑っていない。

 

 父親はテレビ画面だけを凝視し、黙々とハンバーグを口に運んでいる。

 目の前には、湯気を立てるハンバーグ。大好物だったはずのそれは、今はただの茶色い肉塊にしか見えない。

 

「……っ、ぐすっ……」

 

 抑えようとしても、嗚咽が漏れる。涙がポタポタとランチョンマットに染みを作る。

 すると、カチャリ、とフォークを置く音がした。

 

「……ミツキ」

 

 母親の声。怒声ではない。

 ぞっとするほど優しく、甘い声だった。

 すっ、と伸びてきた母親の冷たい手が、ミツキの濡れた頬に触れる。

 

 まるで、愛しい人形を愛でるように。

 

「どうして泣くの? お母さんはね、あなたの周りから『悪い虫』を追い払ってあげたのよ? これであなたは、道を踏み外さずに済んだの」

 

 母親の指先が、ミツキの涙を拭う。その感触は氷のように冷たかった。

 

「お父さんもいて、美味しいご飯を食べて、悪いお友達もいなくなった。……最高の環境じゃない。幸せでしょう?」

 

 ミツキはガタガタと震えながら、横目で父親を見る。

 父親は、テレビのバラエティ番組を見ながらビールを煽り、娘の窮状に気づかないフリを決め込んでいる。

 

「ねぇ、ミツキ。……『幸せ』って言いなさい」

 

 母親の指に力がこもる。

 頬に爪が食い込む痛み。逃げようとするミツキの顔を、母親は無理やり自分の方へ向けさせた。

 その目は笑っていた。唇も弧を描いていた。けれど、瞳の奥だけが、爬虫類のように無機質に光っている。

 

「ほら。お母さんに感謝して? 笑って?」

 

「あ……ぅ……」

 

 逆らえない。

 逆らえば、もっと壊される。ヒナタに何をしたか分からないこの人は、私に対しても何をするか分からない。

 ミツキは恐怖に支配され、ひきつった口元を無理やり持ち上げた。

 

「あ……ありが、とう……お母、さん……」

 

「うんうん」

 

「わたし……しあわせ……です……」

 

 魂を削り取るような言葉を吐き出すと、母親はようやく満足そうに手を離した。

 

「ええ、いい子ね。自慢の娘よ」

 

 母親は上機嫌でナイフとフォークを手に取り、食事を再開する。

 隣の父親も、ただ黙々と肉を咀嚼している。

 カチャ、カチャ、という金属音だけが響く食卓。

 ミツキは俯いたまま、膝の上で拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込み、血が滲むほど強く。

 

(……逃げなきゃ)

 

 ここにいたら、殺される。肉体ではなく、心が殺されて、お母さんの操り人形にされてしまう。

 

 誤解を解かなきゃ。ヒナタに謝らなきゃ。

 このまま終わらせてなんてやるものか。

 窓の外では、いつの間にかポツリ、ポツリと雨が降り始めていた。

 

 

 ――――


 

 深夜一時。

 世界は雨の音に支配されていた。

 ミツキは自室のカーテンを少しだけ開け、叩きつけるような豪雨が窓ガラスを濡らすのをじっと見つめていた。

 

(……行かなきゃ)

 

 両親の寝室からは、規則正しい寝息が聞こえている。

 彼らは今頃、心地よい夢を見ているのだろう。「悪い虫」を排除し、娘を正しい道に戻したという満足感に浸りながら。

 

 ――『あの家は、片親でしょう?』

 

 ふと、以前母親が吐き捨てた言葉が脳裏に蘇る。

 それは、ヒナタの家に初めて遊びに行こうとした時のことだった。

 

 ヒナタの家は、古びた団地の一室だ。

 父親はおらず、母親が朝から晩までパートを掛け持ちして、女手一つでヒナタを育てていた。

 裕福ではなかった。けれど、ヒナタのお母さんはいつだって笑顔で、「ミツキちゃん、よく来たね」と温かい麦茶と特売のお菓子を出してくれた。

 

 狭いけれど、そこにはミツキの家にはない「体温」があった。

 けれど、ミツキの母親にとって、それは「不潔」でしか名なかった。

 

『貧すれば鈍する、という言葉を知っている? お金や親が欠けている家庭の子はね、心まで欠けているものよ』

 

『そんな子と一緒にいたら、あなたまで底辺に引きずり込まれる。教育にも悪影響だわ』

 

 偏見。差別。根拠のない選民意識。

 母はヒナタの人柄など見ていなかった。ただ「スペック」というラベルだけで、彼女を汚物のように切り捨てたのだ。

 

(違う……ヒナタは、そんな子じゃない……ッ!)

 

 ミツキは唇を噛み締め、窓のロックを外した。

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