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第二十二話 神崎美月

白い。

 まぶたの裏を刺すような、暴力的な光ではない。

 それは、どこか懐かしく、春の陽だまりのように優しい白さだった。

 

「……ん……」

 

 遠くで、スズメの鳴き声が聞こえる。

 アスファルトを走る車の走行音。近所の誰かが布団を叩く音。

 

 鼻をくすぐるのは、血と硝煙の混じった鉄臭さではなく、洗い立てのシーツと柔軟剤の匂い。

 ミツキは――いや、少女は、重たいまぶたをゆっくりと押し上げた。

 

「……あれ……私……」

 

 視界に映ったのは、見慣れた白い天井と、丸い蛍光灯。

 勉強机には読みかけの雑誌と参考書が積み上げられ、カーテンの隙間からは穏やかな朝の光が差し込んでいる。

 そこは、石造りの冷たい神殿でも、魔物が跋扈する異世界でもなかった。

 

 彼女はぼんやりとした頭のまま、ベッドから上半身を起こす。

 夢を見ていたような気がする。とても長く、辛く、そして悲しい夢を。

 でも、どんな内容だったのか思い出そうとすると、指の隙間から砂がこぼれ落ちるように記憶が霞んでしまう。

 

「……学校、行かなきゃ」

 

 無意識に口をついて出た言葉。

 少女はベッドを降りると、机の横に放り出されていた通学用のスクールバッグに視線を落とした。

 使い込まれて少し擦り切れた紺色のナイロンバッグ。

 その持ち手部分に付けられたネームホルダーには、見慣れた文字が記されていた。

 

『2年A組 神崎 美月』

 

 それが、彼女の本当の名前だった。

 ミツキは鞄を持ち上げると、制服のスカートのシワを軽く伸ばし、部屋を出た。

 階段を降りると、リビングからはテレビのニュース音声と、コーヒーの香ばしい匂いが漂ってくる。

 

「……おはよう」

 

 リビングに入り、なるべく感情を殺した声で挨拶をする。

 ダイニングテーブルには、完璧なメイクとオフィスカジュアルに身を包んだ母親が座っていた。

 彼女は手元のスマートフォンから視線を外さず、娘の方を見ようともしない。

 

「あら、遅かったじゃない。パン、焼いてあるわよ」

 

「……ううん、いらない。お腹空いてないから」

 

「そう。まあ、別にいいけれど」

 

 母親は興味なさげにそう言うと、ようやくスマートフォンを置いてミツキの方を見た。

 その視線は、娘の体調を気遣うものではなく、品定めするような冷ややかなものだった。

 

「……あなた、またそんな暗い顔をして。前髪も長いわよ」

 

「あ……ごめんなさい、後で切るから」

 

「はぁ……。ちゃんとして頂戴ね。だらしない娘がいると、私が『教育のなっていない親』だと思われて恥をかくんだから」

 

 母親は不満げに溜息をつくと、再びスマートフォンに視線を戻した。

 

「……行ってきます」

 

 ミツキは背中に投げかけられた言葉に何も返さず、慣れた手つきでローファーを履く。

 そして、逃げるように重い玄関の扉を開け、外の世界へと踏み出した。

 重たい玄関の扉を閉めると、むっとするような湿った熱気が全身にまとわりついてきた。

 まだ朝の七時過ぎだというのに、頭上の太陽は容赦なく白いコンクリートを焼き、視界の奥で陽炎が揺らめいている。

 

 ミン、ミン、ミン、ミン……。

 

 街路樹の方から、耳鳴りのような蝉時雨が降り注いでいた。

 

 ミツキはスクールバッグを持ち直し、じっとりと滲む汗を不快に感じながら歩き出す。

 整備された歩道には、頭上を覆う電線の影が黒々と落ちている。

 

 その横を、ワイシャツ姿のサラリーマンや、半袖の制服を着た学生たちが、タオルで顔を拭いながら足早に通り過ぎていく。

 

 交差点の信号が赤に変わり、アイドリングを始めた大型トラックの排気ガスが、夏の熱気と混ざり合って鼻をつく。

 道端の自動販売機が、ウィーンと低い駆動音を立てながら、冷たい光を放っていた。

 正門を抜け、昇降口で上履きに履き替えると、校舎の中は生徒たちの喧騒で満ちていた。

 

 階段を上がり、2年A組の教室の引き戸をガラリと開ける。

 途端に、効きすぎた冷房の冷気と、クラスメイトたちの笑い声が混ざった空気が流れ出してきた。

 

「あ! ミツキ〜! おっはよー!」

 

 教室に入った瞬間、パンッ、と背中を叩かれるような明るい声が飛んできた。

 机に鞄を置く間もなく駆け寄ってきたのは、緩く巻いた栗色の髪を揺らす少女――星野陽向ヒナタだった。

 

「おはよ、ヒナタ」

 

「もう、遅いよー! 一限目始まっちゃうじゃん。あ、ねえねえ聞いてよ。昨日言ってたあの動画見た?」

 

 ヒナタは朝からエンジン全開で、ミツキの机の縁に腰掛けながらスマートフォンを突き出してくる。

 屈託のない笑顔。日焼けした健康的な肌。

 彼女の周りだけ、まるで照明が明るくなったかのような陽気さが漂っていた。

 

「見て見て! この猫の動画、マジでウケるから!」

 

 ヒナタが突き出してきたスマートフォンの画面の中で、猫が滑って転ぶ映像が流れている。

 ケラケラと無邪気に笑うヒナタの横顔は、眩しいくらいに明るい。

 

「……ふふ、本当だ。可愛いね」

 

 ミツキはつられて小さく笑みをこぼす。

 けれど、その瞬間に脳裏をよぎったのは、氷のように冷たい母親の声だった。

 

『いい、ミツキ。あの星野さんとはあまり関わらないでちょうだい』

 

『あの子、髪もスカートも派手だし、成績も良くないんでしょう? あなたの品位まで下がるわ』

 

 夕食の席で淡々と言われた言葉が、呪いのように胸に突き刺さる。

 母にとって、友人は「娘の価値を高めるための装飾品」でなくてはならない。だから、自由奔放で、成績よりも遊びを優先するヒナタの存在は、母の理想の対極にある「ノイズ」でしかなかった。

 

(……ごめんなさい、お母さん)

 

 ミツキは胸の奥で小さく謝罪し、そして少しだけ強く、ヒナタの方へと体を向けた。

 

(でも……私、ヒナタといる時だけは、息ができる気がするの)

 

 家という名の牢獄で窒息しそうなミツキにとって、ヒナタの飾らない笑顔は、唯一の酸素だった。だから彼女は、母の言いつけに背いてでも、この場所を守りたかった。

 

「あ、そういえばミツキ、今日の一限目の課題やった? 私、全然わかんなくてさー」

 

「……もう。見せてあげるから、次は自分でやってね」

 

「やった! さすがミツキ! 愛してるー!」

 

 ヒナタが抱きついてくる。その体温と少し甘い香水の匂いに、ミツキは安堵しながら目を細めた。

 放課後を告げるチャイムが鳴ると同時に、教室は解放感に包まれた。

 

 部活へ急ぐ生徒、廊下で立ち話をするグループ、気だるげに鞄をまとめる者。

 そんな喧騒の中、ヒナタがミツキの机の横で弾むように言った。

 

「ねえミツキ、駅前に新しいクレープ屋さんできたんだって! 行こうよ!」

 

「え、でも……」

 

 ミツキは反射的に腕時計を見る。門限や、塾の時間が頭をよぎる。

 けれど、ヒナタのキラキラした瞳と、何より「まだ家に帰りたくない」という自分の本音が、理性を押し流した。

 

「……うん、行こうか。少しだけなら」

 

「やった! さっすがミツキ、話がわかるぅ!」

 

 ヒナタが嬉しそうにミツキの手を引き、二人は教室を飛び出した。

 

 

――――


 

 駅前のファストフード店は、同じ制服を着た学生たちで賑わっていた。

 二人は窓際の席に座り、甘ったるいストロベリークレープとポテトを広げている。

 

「でさー、その先輩がマジでウザくて! 『俺の時代は~』とか語り出すわけ。昭和かよって感じじゃない?」

 

 ヒナタが口の端にクリームをつけながら、身振り手振りで愚痴をこぼす。

 他愛のない話。中身なんて何もない、ただの女子高生の雑談。

 けれど、ミツキにとっては、その「無意味な時間」こそが何よりの宝物だった。

 

「ふふっ、大変だねヒナタも」

 

「笑い事じゃないってばー! あーあ、どっかにイケメンで優しくてお金持ちの王子様落ちてないかなー」

 

 ヒナタがストローを回しながら、窓の外を眺める。

 窓ガラスの向こうでは、街が茜色に染まり始めていた。

 

 ビル群のシルエットが黒く浮かび上がり、空の青と夕焼けのオレンジが混ざり合う、一瞬だけの魔法の時間マジックアワー

 

「……綺麗」

 

 ミツキがぽつりと呟く。

 

「ん? 夕焼け? ほんとだ、明日も晴れそうだね」

 

 ヒナタが屈託なく笑う。

 ミツキはその笑顔を見つめ、胸の奥でギュッと何かが締め付けられるのを感じた。

 

(……帰りたくないな)

 

 このまま時間が止まってしまえばいい。

 あの冷たい家に帰らず、母親の顔色を伺うこともなく、ただこうしてヒナタと笑い合っていられたら。

 

 それは叶わない願いだと知っていながら、ミツキは飲みかけのアイスティーのカップを強く握りしめた。

 冷たい結露が、手のひらを濡らしていた。

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