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第二十話 決戦の幕開け


トッサカンの迷宮、仮眠室。

 

 ミツキが目を覚ますと、そこには静寂があった。アダムスとの激戦で擦り切れていた肉体的な疲労は、深い眠りによって幾分か癒えていた。

 だが、心の中には得体の知れない「おり」のようなものが沈殿していた。

 パズズから受け取った第四のシギル――『狂気の権能』。

 それは今、ミツキの胸の奥で、不気味なほど静かに脈動している。

 

(……なんだろう、この感覚)

 

 ミツキは胸に手を当てた。

 アダムスを「破壊」した時の一瞬の激情。あの時、脳裏をよぎったのは、この異世界での記憶ではなかった。

 

 カーテンを閉め切った、薄暗い自室。

 

 読みかけの本が散らばる床。埃の被った机。

 

 世界から切り離され、誰の声も届かず、何も変えられなかった無力な日々。

 

 ただ膝を抱えて壁を見つめ、自分の弱さを呪い、世界を呪い、それでも何もできずに泣いていた、あの窒息しそうな孤独な部屋の記憶。

 

 転生する前、自分を縛り付けていた「前世」の絶望が、権能の鼓動に合わせて、扉をノックするように微かに疼くのだ。

 

「……大丈夫。あたしは、ミツキだ。もう、あの頃とは違う」

 

 彼女は自分に言い聞かせるように呟き、拳を握りしめて立ち上がった。

 剣を手に取り、仲間たちが待つ広間へと向かう。

 

 広間では、すでに全員が起きて準備を整えていた。

 ムルガンは壁に寄りかかって消耗した魔力を練り直し、ロクサーナとルークは地図を広げて議論している。エリシェヴァは子供たちに最後の診察を行っていた。

 

「おはよう、ミツキ。……顔色は、悪くないわね」

 

 ロクサーナが視線を上げ、杖で地図の一点――太陽の神殿を指し示した。

 

「あなたが眠っている間に、状況が動いたわ。……トッサカン」

 

 促されたトッサカンが、いつになく神妙な面持ちで口を開く。

 

「うん。さっき、外の様子を探知してたんだけど……神殿の方で、とてつもない魔力の衝突があったんだ。一つはウリエル。もう一つは……僕の雇い主、ディーヴァ様だ」

 

「ディーヴァ……様?」

 

 ミツキが聞き慣れない名前に首を傾げる。

 

「ああ。君たちは知らないだろうけど、とんでもなく強いお方さ。……どうやらウリエルと派手にやり合ってくれたみたいだね。反応が消えたから、今は撤退したみたいだけど」

 

 トッサカンは、主の無茶な行動に肩をすくめつつも、その結果については評価した。

 

「おかげで、ウリエルの反応も著しく低下した。……アダムス不在、かつウリエルが手負いとなった今こそが、唯一の好機だ」

 

 ムルガンが冷静に引き取り、結論を告げる。

 

「……あたし、夢の中で翁と話したの」

 

 ミツキは頷き、夢での翁の言葉を仲間たちに共有した。

 

「翁が教えてくれた。智天使ウリエルは、アダムスみたいな『超人』じゃないって。彼は天上神の『理』そのものに守られてるわけじゃない、ただの『力』だって」

 

「……ということは?」

 

 ルークが先を促す。

 

「つまり――あたしの『破壊の権能』が通じる。再生なんてさせない。……ウリエルなら、殺せる」

 

 ミツキの力強い言葉に、ロクサーナが頷いた。

 

「なるほど、勝機はあるということね。……けれど、腐っても天使よ。その火力は桁違い。普通に接近すれば、あなたの剣が届く前に消し炭にされるのがオチだわ」

 

「……ねえ、トッサカン」

 

 ミツキは、ロクサーナの懸念を聞き、ある考えを口にした。

 

「神殿の内部……ウリエルがいる祭壇の間の『近く』まで、あたしたちを直接『転移』させることはできないかな?」

 

「えっ? 神殿の中に直接?」

 

 トッサカンが目を丸くする。

 

「うん。正面から攻め込んだら、神官兵やウリエルの攻撃を潜り抜けるだけで消耗しちゃう。だったら、最初から敵の懐……祭壇の近くまでショートカットして、一気に勝負を決めたいんだ」

 

「うーん……」

 

 トッサカンは腕を組み、唸った。

 

「普段なら無理だよ。神殿には強力な結界が張ってあるからね。外部からの空間干渉は弾かれちゃう。……でも」

 

 彼はニヤリと笑った。

 

「今のウリエルは弱ってるし、さっきのディーヴァ様との衝突で神殿自体もボロボロだ。結界にほころびがある……今なら、一点突破でねじ込めるかもしれない」

 

「本当!?」

 

「ただし!」トッサカンは人差し指を立てた。


 「祭壇の『中』に直接出るのは危険すぎる。転移した瞬間に蒸発させられかねないからね。……だから、転移先は祭壇の直下、『地下通路』の出口付近にするよ。そこなら不意打ちも狙えるはずだ」

 

 場に緊張が走る。

 死地への片道切符。だが、これ以外に勝機はない。

 

「……だったら、私が先頭に立ちます」

 

 その時、セレスティアが一歩前に出た。その表情には、もう迷いはなかった。

  彼女はヴィクラムと目を合わせ、小さく頷き合う。

 

「転移した瞬間、私が『無敵』の力を展開して、皆さんの盾になります。……どんな攻撃が来ても、私が全部受け止めます」

 

「……なるほど。最強の盾を先頭に送り込むわけか」

 

 ルークが納得したように頷き、剣の柄に手をかけた。

 

「では、こうしよう。

 陣形は、セレスティアを最前列に。ミツキは彼女の背後の『影』に隠れるように配置する。

 

 転移直後、セレスティアがウリエルの初撃を受け止め、その隙に僕とロクサーナ、エリシェヴァが左右に展開して神官兵を牽制。

 

 ……そして、ウリエルの意識がセレスティアに向いた瞬間、ミツキが影から飛び出してトドメを刺す」

 

「最強の盾と、最強の矛……ってことか」

 

 ロクサーナも杖を握り直した。

 

「悪くないわ。短期決戦、一撃必殺。……それしか勝機はない」

 

「……わかった」

 

 ミツキは剣を握り直した。

 

 作戦は決まった。だが、胸の奥のざわめきが消えない。

 

(もしまた、アダムスの時みたいに『怒り』に飲まれたら……?)

 

 その不安を見透かしたように、広間の奥から低い声が響いた。

 

「……翁の巫女よ」

 

 『疫病の魔王』パズズだった。彼は眠る妻ラマシュトゥの髪を撫でながら、陰鬱な瞳でミツキを見つめていた。

 

「私のシギルによる……『狂気の権能』が馴染み始めているようだな。

 ……忠告しておこう。その力は、お前の精神の壁を溶かす毒だ。使いすぎれば、お前はお前でなくなる。過去の亡霊に喰い殺されるぞ」

 

「過去の……亡霊……」

 

 ミツキの背筋に冷たいものが走る。

 

「……気をつけるよ。ありがとう、パズズ」

 

 ミツキは努めて明るく振る舞い、仲間たちに向き直った。

 

「ムルガン様とトッサカン、それにパズズ様たちは、ここで子供たちとラマシュトゥの護衛をお願いします。万が一、アダムスが戻ってきた時のための最後の砦として」

 

「承知した。……ミツキ、無理はするなよ」

 

 ムルガンが、父・翁に託された言葉を反芻するように、静かに声をかける。

 

「行ってきます!」

 


 ――



 トッサカンが指を鳴らすと、視界が瞬きする間に切り替わった。

 足裏に伝わる感触が、迷宮の硬質なタイルから、湿った石畳へと変わる。

 鼻をつくのは、カビと古い土の匂い。

 転移した先は、以前ラマシュトゥと遭遇した、あの神殿の地下通路だった。

 

「……よし、成功だ」

 

 ルークが小声で確認する。

 頭上からは、風の唸り音と共に、微かな瓦礫の崩れる音が聞こえてくる。

 

「上よ。……気配がするわ。幸いいきなり攻撃される事は無さそうね」

 

 ロクサーナが杖を握りしめ、天井――神殿の祭壇がある方向を睨み据える。

 そこから漏れ出してくるのは、肌がヒリつくほど濃密で、冷徹な神気。

 

「行きましょう」

 

 セレスティアが震える足を叱咤し、先頭に立つ。

 その後ろの影に、ミツキが身を潜める。

 一行は息を殺し、崩れかけた石階段を駆け上がった。

 

 ――そして、地上へ。

 

 視界が開けた瞬間、ミツキたちは息を呑んだ。

 かつては黄金と大理石で飾られ、威容を誇っていた

 

「太陽の神殿」

 

 だが今、目の前にあるのは、無残な瓦礫の山だった。

 ディーヴァとの戦闘で天井は大半が吹き飛び、壁は溶解し、美しい装飾は見る影もない。

 崩れ落ちた屋根の大きな隙間からは、凍りついたまま動かない星空と、冷たい月光が静かに差し込んでいる。

 その、瓦礫の玉座に鎮座するように、黄金の光が明滅していた。

 六枚あったはずの翼のうち一枚は根元からへし折れ、神聖な法衣は煤け、全身から金色の血を流している。

 それでもなお、その神威はいささかも衰えていない。

 

 傷ついた姿さえもが、冒涜的なまでに神々しい――智天使ウリエル。

 地下から現れたミツキたちの気配を感じ取り、天使はゆっくりと顔を上げた。

 その黄金の瞳には、痛みも、怒りも、驚きすらない。ただ、路傍の石を見るような無機質な光だけが宿っていた。

 

「……侵入者か……」

 鈴を転がすような美しい声が、瓦礫の山に響く。だがその抑揚のなさが、逆に肌を粟立たせる。

 

「業務再開。……これより『浄化』を遂行する」

 

 ウリエルがゆらりと立ち上がる。

 それだけで、場の空気が鉛のように重くなり、呼吸さえ困難になるほどの神圧が押し寄せてきた。

 

「……ッ」

 

 ミツキはセレスティアの背後で、反射的に剣の柄を強く握りしめた。

 目の前の存在は、アダムスとは違う。アダムスが「人間を超越した怪物」だとするなら、こいつは「最初から人間ではない災害」だ。

 

 胸の奥で、パズズのシギル――『狂気の権能』が、敵の強大さに呼応するようにドクンと脈打つ。

 

(……落ち着け。解放しちゃダメ――)

 

 ミツキは奥歯を噛み締め、震えそうになる足を叱咤する。

 隣では、ルークが剣を構え、ロクサーナが杖に魔力を充填し、エリシェヴァが祈りの姿勢をとっていた。

 そして、最前列にはセレスティア。彼女は恐怖に顔を強張らせながらも、一歩も引かずにウリエルを見据えている。

 

「……来るぞ!!」

 

 ルークの鋭い警告が飛ぶ。

 ウリエルが、無造作に指先をこちらへ向けた。

 刹那、その背後に幾重もの魔法陣が展開され、空間を埋め尽くすほどの膨大な光の魔力が収束を始める。

 交渉の余地などない。

 問答無用の殺戮が、今まさに降り注ごうとしていた。

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