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第十八話 狂気と夢の狭間の中で

 ミツキは、ライラが子供たちを寝かしつけている仮眠室の隅に移動し、剣を抱いたまま、壁に寄りかかって静かに目を閉じた。

 

アダムスとの激戦、セレスティアの告白、ロクサーナの過去……。重すぎる情報が、消耗したミツキの意識を、深い眠りへと引きずり込んでいく。

 

――そして、彼女の意識は、吸い込まれるようにあの異空間へと誘われた。

 

虚空にそびえる黒い大樹。その根元に咲き乱れる、血のような彼岸花。

大樹の根元に、翁が静かに佇んでいた。

 

だが、ミツキが彼の前に降り立った瞬間、翁はいつものように威厳ある眼差しで迎えることはなかった。

その黄金の瞳は、ミツキではなく、足元の彼岸花に力なく落とされ、その横顔は深い悲しみと、何かを悔いるような苦悩に歪んでいた。

 

「……ついに、目覚めさせてしまったか。ミツキ……」

 

「……?」

 

ミツキは、翁のいつもと違う、様子に少しに戸惑った。

 

 「……翁」

 

ミツキの声は、仲間たちの前とは違い、か細く震えていた。

彼女は、翁の前で、張り詰めていた糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。

 

「翁……あたし、怖かった……!」

 

ミツキは、そのただならぬ雰囲気を感じながらも、自分の不安を吐き出した。

 

「あたし、アダムスを殺した! あの時、あたしは『破壊の権能』を使ったけど……でも、あの感覚は、パズズから貰った『狂気の権能』に思考を乗っ取られて……!」

 

「……」

 

「あたし、あのままだったら……アダムスだけじゃなくて、神官兵たちも、何もかも、全部壊してたかもしれない……! あたし、自分が怖いの!」

 

ミツキの悲痛な叫びに、翁はようやく顔を上げた。

その黄金の瞳には、ミツキが初めて見る、深い「哀れみ」と「謝罪」の色が浮かんでいた。

 

「……すまない、ミツキ。お前が目覚めたその力は、パズズを経由したとはいえ……元は、我が『狂気』そのものなのだから」

 

「……! 翁の……狂気……?」

 

「そうだ」翁は、かつて天上神を虐殺した、あの神話の時代を思い出すかのように目を伏せた。

 

「あれは、私が愛する者達を奪われ、全てを憎み、破壊し尽くした時の『怒り』と『絶望』の残滓。……お前に、あのような感情を背負わせたくはなかったのだが……」

 

翁の声は震えていた。

 

「お前が今まで手に入れた権能の中で、あれが最も危険な能力だ。あれは『力』ではない。お前の精神のかせを外し、魂そのものを変質させかねない、呪われた『鍵』だ。……すまない」

 

「……」

 

ミツキは言葉を失った。いつも導いてくれる絶対的な存在であるはずの翁が、これほどまでに弱く、傷ついた顔を見せるとは思わなかったからだ。

 

「お前は耐えた。アダムスを破壊した後、仲間たちを傷つける前に理性を保った。……だが、お前がアダムスへの怒りで我を忘れたのも事実。……どうか、あの力にだけは飲まれないでくれ」

 

それは命令ではなく、祈りのような懇願だった。

 

「……あたしは」

 

ミツキは、震える声で翁に告白した。

 

「あたしは……もう、無力なのは嫌なんだ……。仲間が目の前で傷ついて、何もできずに見てるだけなんて、もう絶対に嫌だから……! だから、力が欲しかった。

 ……でも、あの力(狂気)は、あたしが本当に望んだ力なのかな……」

 

「……」

 

翁は、ミツキの魂の奥底にある「無力感」という名の渇望を理解し、痛ましげに目を細めた。

 

「ミツキ」

 

翁の声が、優しく響いた。

 

「お前が何者であったかは関係ない。今、お前が何をするかだ。……お前は、アダムスを『破壊』した。だが、奴は再生した。なぜだか分かるか?」

 

「……ムルガンさんが言ってた。『超人』だから……天上神の『理』に守られてるからだって……」

 

「そうだ。お前の『破壊』は、アダムス個人には効いても、彼をバックアップする『天上神の理』そのものには届かない。……だが、安心しろ。その『理』も万能ではない」

 

翁は、ミツキに次なる試練を告げる。

 

「お前たちが今いるカラート・シャムス。あの街の『太陽の儀式』の元凶、智天使ウリエル。……彼奴あやつは、『超人』ではない」

 

「え……?」


「ウリエルは、アダムスとは違う。彼は『理』そのものではなく、天上界から派遣された『力』に過ぎん。……つまり、セレスティアの『無敵』も、そしてお前の『破壊の権能』も、奴には通じる」

 

その言葉に、ミツキの瞳に光が戻った。

 

「翁……それって……」

 

「アダムスは戻ってくる。だが、ムルガンが稼いだ時間がある。……行け、ミツキ。お前が今、本当に為すべきことを成すのだ」

 

「……うん……!」

 

ミツキは、翁の助言に強く頷いた。

 

(そうだ、ウリエルを倒す。そして、この街を救うんだ!)

 

「狂気に飲まれるな、ミツキ。お前はお前のまま、仲間と共に戦うのだ」

 

翁のその言葉を最後に、ミツキの意識は再び現実の迷宮へと浮上していった。


 ――――――――



 ミツキが仮眠室の闇に意識を沈め、翁の夢へと旅立った頃。

トッサカンが用意した別の客間で、ムルガンは一人、壁に寄りかかり消耗した魔力を整えていた。

 

(……はぁ。さすがに堪えたな)

 

アダムスを異次元に強制転移させた槍『ヴェール』は、今はもう彼の背後に消えている。

 

――「超人」であるアダムスを、しかも彼自身の猛攻撃エデンズ・リブごと「時空の外」へ弾き飛ばす荒業は、ムルガンの全魔力の大半を消費していた。

 

(奴が戻るまで、そう長くは保たん。……だが、最低限の時間は稼げた)

 

ムルガンは目を閉じ、なぜ自分がこのカラート・シャムスに来たのかを反芻していた。

第一の目的は、トッサカンからの報告にあった「境界の掟」を破った魔王の回収。

 

(魔王ラマシュトゥ……。子供を殺された狂気とはいえ、人間界での暴走は見過ごせん。魔界のルシファーも、それを望まない)

 

ベルゼブブの手で眠らされ、パズズに抱かれて結界の奥にいる哀れな魔王を一瞥する。

 

(トッサカンが迷宮に回収した以上、これ以上アダムスに狩られる心配はない。こちらの任務は完了した)

 

だが、彼がこの地に来た理由は、それだけではなかった。

彼の脳裏に、この迷宮を訪れる前の、あの異空間での「父」との対話が蘇る。

 

――――――

 

「――ムルガン」

 

虚空にそびえる黒い大樹の前で、翁は黄金の瞳に深い苦悩を浮かべていた。

 

「父上。……何か、憂慮ゆうりょなされることが?」

 

ムルガンは、槍「ヴェール」を背負い、父であり主である翁の前に恭しく跪く。

 

「……そうだ」

 

翁は、遠くカラート・シャムスの方角を見据えていた。

 

「パズズが……追い詰められている。奴は、ラマシュトゥを守るため、そしてアダムスに対抗するため、我が『狂気の権能』を、第二の巫女ミツキに託そうとしている」

 

「!」

 

ムルガンの表情が険しくなる。

 

「あの力は、お前も知る通り、我が『狂気』そのもの。アヤメ(第一転生者)も、アダムスへの絶望の果てにジャランダラと共鳴し、道を踏み外した。……私は、あの子まで失うわけにはいかん」

 

「…………」

 

「加えて、アダムスがカラート・シャムスへ向かった。巫女は、いずれ彼奴あやつと直接対峙することになるだろう…それに対してあの子の力はまだまだ未熟だ――危険すぎる。」

 

翁は、ムルガンに向き直った。その瞳には、神としての威厳と、親としての慈愛が混在していた。

 

「ムルガンよ。我が使徒として、そして、我が息子として、ミツキを見届けよ。

 彼女がアダムスへの怒りで『狂気』に飲まれぬよう……そして、アダムスの『理』に殺されぬよう、導いてやってくれ」

 

「……御意」


ムルガンは目を開けた。

 

(父上……あなたの懸念通り、ミツキは『狂気の権能』を受け取り、そしてアダムスを前にして暴走しかけた)

 

ミツキがアダムスを木っ端微塵にした、あの赤黒い怒り。

あれは、かつてのアヤメが堕ちた時と、同じ危うい気配だった。

 

(……だが、彼女は耐えた。仲間たちの声に応え、寸前で理性を繋ぎ止めた)

 

ムルガンは、アダムスと渡り合った己の槍『ヴェール』を虚空から再び召喚し、その青白い輝きを見つめた。

 

(アダムスは、この力を『翁の力』だと気づいた。……当然だ。この槍は、父上がかつて天上神を虐殺したという、ご自身の神気そのものから鍛え、私に与えたものなのだから)

 

「超人」アダムスを異次元に飛ばせるほどの力。

それが、翁が「息子」であり「使徒」であるムルガンに託した、切り札だった。

 

「……ミツキ、か」

 

ムルガンは、ミツキたちが休息している仮眠室の方を一瞥すると静かに目を閉じ、消耗した魔力の回復に努め始めた。

アダムスが戻るまで、時間はいくばくもない。

 

(……父上のためにも、死なせるわけにはいかん。

 そして、この街の元凶ウリエルは、まだ神殿に残っている)


 「――頼むぞ、第二の巫女よ」

 

その呟きは、誰の耳にも届くことなく、迷宮の静寂に溶けていった。

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