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第十七話 休憩の時間


「……もう、何が何だか……」

 

ミツキの疲弊しきった呟きに、それまで楽しそうに傍観していたベルゼブブが、ふっと笑みを消した。

 

「やれやれ。冗談はここまでのようだね」

 

ベルゼブブは立ち上がると、狂乱するラマシュトゥへとゆっくりと歩み寄った。

 

「あかちゃん! あかちゃんをよこしなさい!」

 

ラマシュトゥがトッサカンに向かって影を伸ばそうとする。

 

「ラマシュトゥ」

 

ベルゼブブが、低く、しかし神としての威厳を込めた声で呼びかけた。

 

「もう、おやめなさい。あなたの子供は、もうどこにもいない」

 

「うるさい! わたしのあかちゃんはここに――」

 

「――お眠りなさい、ラマシュトゥ」

 

ベルゼブブは、その場にそぐわないほど優しく、穏やかな声で詠唱した。

 

「『豊穣』は命を育む力。そして、命を『休ませる』力でもある」

 

ベルゼブブがそっと手をかざすと、彼の掌から、エリシェヴァの治癒魔法とは比べ物にならないほど濃密な、淡い緑色の光の粒子が溢れ出した。

それはまるで、春の陽だまりのような、温かく眠気を誘う光だった。

 

「あ……あか……ちゃ……」

 

光の粒子を浴びたラマシュトゥは、あれほど激しかった憎悪と狂気が嘘のように急速に鎮まっていき、その瞳から狂気の色が薄れ、焦点が合わなくなっていく。

 

「…………」

 

やがて彼女は、夫であるパズズの腕の中で、糸が切れたように意識を手放し、静かな寝息を立て始めた。

 

「……ベルゼブブ……すまない」

 

パズズは、腕の中で眠る妻の顔を見下ろし、疲弊しきった声で礼を言った。

 

「……昔の君なら、こんな力(荒療治)は使わなかっただろうにね」

 

ベルゼブブは、かつての同僚(地主神)にだけ見せる、悲しげな瞳で応えた。

 

「……さて」

 

ベルゼブブは魔王たちの騒動が一段落したのを見て、広間の隅で疲弊しているミツキたちに向き直った。

 

「君たちも、アダムスとの戦いで消耗しただろう。トッサカン、彼らに休める部屋を」

 

「あ、はいはい! こっちに仮眠室があるから使ってよ!」

 

トッサカンが一行を案内しようとする。

 

「待って」

 

ミツキは、アダムスとの激戦で傷ついた体に鞭打ち、壁に寄りかかったままムルガンに問いかけた。

 

「その前に、聞きたいことがあるの。……ラマシュトゥは、どうなるんですか? 掟を破って人間界に降臨した……罰を受けるんじゃ……」

 

ミツキの問いに、ライラたちも不安げに魔王たちを見つめる。

トッサカンも「そうですよムルガン様!」と話を続けた。

 

「僕を『あかちゃん』呼ばわりして追いかけ回して! ルシファー様が黙ってないでしょ!」

 

トッサカンが(ミツキとは別の理由で)詰め寄ると、広間の隅で壁に寄りかかっていたムルガンが、疲れたように(しかし冷徹に)答えた。

 

「……そうだな。パズズは『妻を守る』という大義名分があったが、ラマシュトゥの狂乱は擁護できん」

 

「やっぱり!?」トッサカンが顔を輝かせる。

 

 「じゃあ、コキュートス(永久監獄)行きですか!?」

 

「いや、それはない」

 

ムルガンは即答した。

 

「彼女の狂気の原因は、天上神が彼女の子供を殺したことにある。ルシファーもその経緯は知っている。……情状酌量の余地あり、として、コキュートス行き(最下層の牢獄)まではいかないだろう」

 

「えー、甘くない?」

 

「だが」とムルガンは続けた。

 

「掟は掟だ。何の罰もなし、というわけにもいかん。……おそらくは、堕天使達の管理下にある城で、数百年単位の『幽閉』といったところだろうな。彼女の狂気が完全に癒えるまで」

 

「数百年……」

 

その途方もない時間の長さに、ミツキたちは言葉を失う。

 

「……ベルゼブブ……」

 

パズズが、眠る妻を抱きしめたまま、苦しげに友人の名を呼んだ。

 

「……それでいい。それが……ラマシュトゥにとって、一番の『救い』だ……」

 

「……そうだね」

 

ベルゼブブも、いつもの笑みを消し、静かに頷いた。

 

「……じゃあ、ロクサーナさんは」

 

ミツキがおずおずと尋ねる。主であるパズズも罰を受けるのだとしたら。

 

「私は構わないわ」

 

ロクサーナは、主の傍らで毅然として言った。

 

「パズズ様が罰を受けるのなら、契約者である私も従うまでよ」


 「……さて、話は済んだかな」

 

ベルゼブブは、ミツキたちに向き直った。

 

「君たちも早く休みたまえ。アダムスは一時的に退けたとはいえ、まだ何も解決していないのだから」


ミツキたちは頷くと、トッサカンに案内された仮眠室で、ようやく休息に入ることができた。

 

「……ミツキ、ルーク。動かないで。二人とも消耗が激しいわ」

 

エリシェヴァが、アダムスとの激戦で傷ついたミツキとルークに、治癒魔法をかけていた。緑色の温かい光が、二人の疲労を癒していく。

 

「ごめん、エリシェヴァ……助かる」

 

「……ああ。恩に着る」

 

ミツキとルークは、壁にぐったりと寄りかかっている。

 その隣では、セレスティアが父ヴィクラムに寄り添い、自らの力の正体(ネファスの魔女ではない)を告げられた衝撃に、まだ戸惑っているようだった。

 

ライラは、無事に保護されていた子供たちを集め、アイン・アル・ハヤトで手に入れたパンや干し肉を分け与えていた。

 

「……ロクサーナさんも、大丈夫ですか?」

 

ミツキは、治癒魔法を受けながら、仮眠室の入り口でパズズの元へ戻ろうとしていたロクサーナに声をかけた。

 

「ええ。私は前衛には立っていなかったから」

 

ロクサーナは、エリシェヴァの治癒魔法を一瞥し、冷ややかに、しかしどこか羨むように言った。

 

「……便利な力ね。ベルゼブブ様の『豊穣』の権能は。あらゆる傷を癒やし、命を育む」

 

「……ロクサーナさんの力も、すごかったです」

 

ミツキが答える。

 

「神官兵たちの生気を吸い取る……あれが、パズズの力なんですね」

 

「ええ」ロクサーナは、主がいるであろう広間の方を見つめた。

 

「私の魔法は、パズズ様の権能……『疫病』と『飢餓』の側面を借り受けた、『生命力を枯らす』力よ」

 

「……」

 

エリシェヴァは、治癒の手を止めずに尋ねた。その声には、純粋な疑問が込められていた。

 

「どうして……あなたは、パズズ様と契約したのですか?」


「何が言いたいのかしら?」

 

ロクサーナが、エリシェヴァを睨む。

 「だって……!」エリシェヴァは言葉を選んだ。


 「あなたの力は、私の『治癒』とは正反対。人を……苦しめる力です。あなたは、本当は薬師なのに。どうして、そんな悲しい力を選んだのですか?」


 「……私も、昔はあなたと同じだった」


 ロクサーナは静かにエリシェヴァの問いに答えた。

 

「え……?」

 

「私も、元はただの治癒師だった。病に苦しむ人を救いたくて、薬草を学び、医学を学んだわ。……このカラート・シャムスに来るまではね」

 

彼女の声に、押し殺した苦悩が滲む。

 

「この街は、ウリエルの『太陽の儀式』に支配されていた。私の力など、何の役にも立たなかった。病気は『穢れ』とされ、治そうとすれば『異端』とされ、救うべき患者は次々と『生贄』として火刑台に送られていったわ」

 

「……」

 

エリシェヴァは、聖レクス市での自分の姿をロクサーナに重ね合わせ、息を呑んだ。

 

「理想だけでは、誰も救えなかった。治癒魔法は、神官たちの炎の前では無力だったのよ」

 

ロクサーナは、パズズへと視線を戻した。

 

「……そんな時、私はパズズ様の声を聞いた。彼は、私と同じ『絶望』を抱えていた。妻を狂わされ、天上神に全てを奪われた魔王。……彼は私に『取引』を持ちかけた」


 ロクサーナは、パズズへと視線を戻した。

 

「……そんな時、私はパズズ様の声を聞いた。彼は、私と同じ『絶望』を抱えていた。妻を狂わされ、天上神に全てを奪われた魔王。……彼は私に『取引』を持ちかけた」

 

ロクサーナは、自嘲するように笑った。

 

「私は選んだのよ。エリシェヴァ。

……無力な『治癒』を捨て、たとえ疫病という呪いであっても、子供たちを確実に『守護』できる力を。

  パズズ様と契約し、この『生命を枯らす』力を得た時、私はもう、あなたのような『理想』を語る資格を失ったのよ」

 

「ロクサーナさん……」

 

「だから、あなたの力(治癒)が眩しいわ。……私にはもう、できないことだから」

 

 そう言って、ロクサーナはミツキたちに背を向け、再びパズズと眠るラマシュトゥの元へと戻っていった。


 「……エリシェヴァは飢饉から村を救うため、ロクサーナさんは儀式から子供を救うため……か」

 

それまで黙って剣の手入れをしていたルークが、静かにミツキを見つめた。

 

「……ミツキ。君に一つ聞かなければならないことがある」

 

「……なに?」

 

ルークの真剣な声に、ミツキはゴクリと唾を飲んだ。

 

「あのアダムスとの戦いの最後。君が放った『破壊の権能』。……あれは、ただの攻撃じゃなかった」

 

ルークの隻眼が、ミツキを射抜く。

 

「君は、パズズから与えられた『狂気の権能』の影響を受けていたな? あの時の君は、怒りに思考を乗っ取られていた。

 ……まるで、アーリヤをイブリースに支配された時のような、危うい気配がした」

 

「……っ!」

 

ミツキは、アダムスを木っ端微塵にしたあの瞬間の、赤黒い怒りを思い出す。

ライラも心配そうにミツキを見つめた。

 

「ミツキさん。正直私も怖かった。あの時のミツキさん、なんだかいつものミツキさんじゃないみたいで。いくら敵だからってあんな攻撃の仕方……」

 

「……ごめん」

 

ミツキは、仲間たちの心配そうな視線から逃れるように俯いた。

 

「あの時、みんながやられて……セレスティアさんも殺されそうで……あたしも、カッとなって……」

 

「カッとなった、か」

 

ルークは深いため息をついた。

 

「ロクサーナは、この街の絶望を見て『治癒』を捨てたと言った。……君は、何を捨ててその力を振るう?」

 

「え……?」

 

「君は、僕らが知らない『別の世界』から来たんだろう?」

 

ルークは、ミツキの過去に踏み込んだ。

 

「君が、その『翁』とやらを使徒として、アダムスと戦う理由。アダムスを前にして、我を忘れるほどの怒りに囚われる理由。

 君の『過去』には、一体何があったんだ?」

 

ルークの真っ直ぐな問いに、エリシェヴァも、ライラも、息を呑んでミツキの答えを待つ。

ミツキは、仲間たちの視線を受け、笑顔を引きつらせた。

 

(あたしの……過去……)

 

脳裏をよぎるのは、この世界の記憶ではない。ビル、アスファルト、鳴り響くクラクション、そして――冷たく、無機質な病室の天井。

 

「あたしは……その……」

 

ミツキは言葉を濁し、俯いた。

 

「あたしのことなんて、大した話じゃないよ。それより、ほら、ウリエルの作戦を……」

 

「ミツキ」

 

ルークが、逃がさないとばかりに声を強める。

 

「――ルーク、待って」

 

その重い空気を遮ったのは、エリシェヴァだった。

 

「え……エリシェヴァ?」

 

「ミツキの言う通りよ。今は、ウリエルの作戦を考えるのが先。それに」

 

エリシェヴァは、ミツキの目の下に浮かんだ濃いくまを、優しく指でなぞった。

 

「ミツキは、アダムスとの戦いで一番消耗してる。時間停止でライラたちを逃がして、最後の『破壊の権能』でも、すごく精神を使ったはずよ。……そんな状態で、無理に過去の話をさせるのは、酷だわ」

 

「……っ」

 

ルークも、エリシェヴァの冷静な指摘に、我に返ったように言葉を呑んだ。

 

「……すまない。焦りすぎた」

 

ミツキは、エリシェヴァの助け舟に、感謝するように小さく頷いた。

 

「大丈夫」

ミツキは無理やり笑顔を作った。

 

「休んでなんかいられないよ。アダムスが戻ってくる前に、ウリエルを倒さないと……」

 

「いいえ、ミツキ」

 

今度はロクサーナが、パズズたちの元から戻ってきて、冷徹に告げた。

 

「アダムスを異次元に飛ばしたムルガン様も、魔力を使い果たして消耗している。それはアダムスも同じはず。彼が異次元から自力で戻るには、まだ時間がかかるわ」

 

ロクサーナは、ミツキの顔を真っ直ぐに見据えた。

 

「あなた、忘れたの? 翁の権能は、精神を蝕むのでしょう? ましてや『狂気の権能』の影響下で『破壊の権能』を使った。

 ……今のあなたが一番危険な状態よ。足を引っ張られたくなければ、少しでも頭を休めなさい」

 

「ロクサーナさん……」

 

そのぶっきらぼうな言葉には、彼女なりの合理的な気遣いが込められていた。

 

「……わかった。ありがとう、みんな」

 

ミツキは、仲間たちの優しさを受け入れ、ようやく肩の力を抜いた。

 

「……少しだけ、休む。……少しだけ、眠るよ」

 


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