第六話 ネファスの魔女 ロクサーナ
ベルゼブブが魔界へと帰還し、宿屋の一室には甘く不穏な香の残り香だけが漂っていた。一行は、魔王から得た情報を整理し、顔を見合わせる。
「スーク(市場)の裏手……古くから薬師や香辛料商が集まる、裏寂れた一角……」
エリシェヴァが、ベルゼブブが示した場所を反芻する。
「『腐敗』の魔力の源流が、そこから最も強く感じられる、か」
ルークは腕を組み、険しい表情で付け加えた。
「ベルゼブブ様がそこまで言うのなら、間違いなくそこにいるはずだ。……パズズのネファスの魔女が」
ミツキは、ライラが描き上げた二つの護符の絵を改めて見つめた。本来の守護の紋様と、ラマシュトゥによって歪められた禍々しい紋様。
「この護符を配っている人が、疫病と『終わらない夜』の鍵を握ってる……。行こう、みんな」
四人は頷き合うと、再び永遠の夜に沈むカラート・シャムスの街へと足を踏み出した。
ベルゼブブが示した、スークの裏手を目指して。
そこは、表通りの狂信的な熱気とは無縁の、忘れられたような場所だった。香辛料、干物、そして正体不明の薬草が混じり合った、むせ返るような匂いが漂っている。壁には蔦が絡まり、日干し煉瓦の家々は崩れかかっている。
「この辺りのはずだけど……ベルゼブブ様が言っていたパズズの『腐敗』の気配、分かる?」
ミツキが尋ねると、エリシェヴァは目を閉じ、集中して魔力を探った。
「……ええ。微かだけど……感じるわ。あっちの路地の奥から……薬草とは違う、もっと……澱んだ、重い気配が……」
一行は、エリシェヴァの感知を頼りに、さらに細く、暗い路地へと進んでいく。
その時だった。
「……静かに」
ルークが一行を制し、近くの建物の影へと素早く引き入れた。彼女の視線の先――路地の向こう側で、フードを目深にかぶった一人の人物が、子供を抱いてうずくまる母親に何かを手渡しているのが見えた。
母親はそれを隠すように受け取り、何度も頭を下げている。フードの人物が立ち去った後、母親がそっと握りしめていたものを見て、ライラが息を呑んで囁いた。
「……護符……! あの本に描いてあったのと同じ、鳥が描いてある方……!」
フードの人物は、母親に何かを囁くと、すぐにその場を離れ、まるで影が滑るように、さらに暗い路地の奥へと姿を消していく。
「……追うぞ!」
ルークの短い号令で、四人は息を殺してその後を追った。
フードの人物は、驚くほど用心深かった。時折、ふっと立ち止まっては背後の気配を探り、何度も角を曲がって追跡を巻こうとする。
「速い……! あの子ただ者じゃないわ!」
エリシェヴァが、息を切らしながら言う。
「ああ。相当な手練れだ」
ルークもまた、気配を完全に消しながら、その卓越した隠密行動に警戒を強めていた。
「ま、待ってください……! 足が……!」
ライラは必死に食らいつくが、慣れない全力疾走と恐怖で足がもつれそうになる。
「追いつかれませんか……? 神官に見つかったら……」
「大丈夫、ライラ!」
ミツキがライラの手を強く引く。
「もう少しだから、しっかり!」
追跡の末、一行がたどり着いたのは、スークの中でもひときわ寂れた、香辛料と薬品の入り混じった独特の匂いが漂う一角だった。
埃っぽい石畳、崩れかけた日除け。その奥まった場所に、古いタペストリーが掛けられた小さな店があった。
フードの人物は、タペストリーをめくって中に入る直前、もう一度だけ鋭く背後を振り返った。
そして、壁にそっと手を触れると、空間が陽炎のようにわずかに揺らめき、彼女の姿はタペストリーの向こうへと吸い込まれるように消えた。
「……! 今、何か……?」
ミツキが目を凝らすが、そこにはただ古びたタペストリーが風に揺れているだけだった。
「結界……?いや、認識阻害の魔法か」
ルークが低い声で呟く。
「この店、魔法で存在を隠蔽している。ただの建物ではないな」
「ええ……」エリシェヴァも頷く。
「これなら、神官たちの目も欺けるでしょう。よほど用心深い方なのね……」
店の入り口には、古びた木製の看板が掛けられている。エリシェヴァが、そこに書かれた文字を読み上げた。
「……『パリー薬局』……? パリーは、古い伝承に出てくる、人を癒やす妖精の名前のはずだけれど……」
「ここが、あの人物の隠れ家か……」
ルークが剣の柄に手を置く。
ミツキは、仲間たちの顔を見渡した。
疫病の謎、描き変えられた護符のこと、そして子供たちの生贄。全ての答えが、この魔法で隠された扉の向こうにある。
「……話を聞こう。中に誰がいるか分からない。警戒は怠らないで」
ミツキは仲間たちに目配せすると、固い決意を声に込めた。
「……ごめんください」
タペストリーにそっと手を伸ばす。指先が触れた瞬間、柔らかな抵抗感と共に、視界がわずかに歪む。まるで、薄い水の膜を通り抜けるような感覚。
ミツキは意を決してタペストリーを押し開け、魔法で隠された薄暗い店内へと、静かに足を踏み入れた。エリシェヴァ、ルーク、ライラも息を潜めて後に続く。
店内に満ちていたのは、乾燥した薬草の強い香りと、ライラが感じ取った通りの古い土、そして微かな血の匂いだった。壁一面には無数の引き出しが付いた棚が並び、天井からは正体不明の乾燥した植物や動物の骨が吊り下げられている。
床にはすり鉢や薬研が置かれ、中央の大きな木製の作業台の上には、調合途中らしい色とりどりの粉末や液体が入った小瓶が散乱していた。
そして、その作業台の向こう側。
一人の女性が、背を向けたまま、黙々と乳鉢で何かをすり潰していた。
先ほど一行が追跡した、フードの人物だ。フードは既に外されており、腰まで届く長い黒髪が、ランプの灯りを鈍く反射している。年はミツキたちとさほど変わらないように見えるが、その背中からは張り詰めたような緊張感が漂っていた。
「……ごめんください」
ミツキが、できるだけ穏やかな声で呼びかける。
女性の乳鉢を搗く手が、ぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返った彼女の顔は、驚くほど整っていたが、その表情は能面のように固く、感情を読み取らせない。深い紫色の瞳だけが、侵入者である一行を鋭く、そして冷ややかに観察していた。
その視線は、ミツキたちが放つ微かな魔力や、ルークの持つネファスの魔女特有の気配を探っているようだった。
「……何の用かしら」
静かに発せられた声は、ルークのものによく似て落ち着いていたが、より女性的で、氷のような響きを持っていた。
「見ての通り、今は立て込んでいるのだけれど。あなたたちのような力量のある方々が、こんな寂れた薬局に何の用かしら?」
彼女はミツキたちが魔女(あるいはそれに類する力を持つ者)であることを見抜いた上で、その目的を問い質していた。
「すみません、突然」
ミツキは一歩前に出て、ライラが描いた「本来の護符(ライオンと鳥)」の絵をそっと差し出した。
「私たちは旅の者なのですが……この街で流行っている病気と、この護符について調べているんです。先程あなたがこれを配っているのを見かけました」
正直は、その絵を一瞥すると、表情を変えずに答えた。
「……そう、だから何かしら? それが何か問題だとでも?」
その口調はあくまで冷静で、敵意は見せないものの、強い警戒心が滲んでいた。
「いえ、問題というわけでは……」
エリシェヴァが、慌てて言葉を継いだ。
「ただ、この護符……古い本にあった、病魔を除けるための紋様ですよね? でも、街で病気の人たちが持っていたのは、鳥の部分が蛇に描き変えられた、少し違うものでした。そのことについて、何かご存知ないかと思って……」
女性の紫色の瞳が、初めてわずかに揺らいだように見えた。蛇の護符について、何か思うところがあるようだ。しかし、彼女はすぐに表情を引き締めた。
「……私は知らないわ。あなたたちが何を探っているのか知らないけれど、私に関わらないでくれるかしら」
「待ってほしい」
今度はルークが、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで口を開いた。
「僕達はこの疫病が、『疫病の魔王』パズズに関係していると睨んでいる。そして、その護符もだ。……あなたは、何者なんだ? パズズと、どういう関係がある?」
ルークは剣の柄には手をかけていない。だが、その隻眼は鋭くロクサーナを射抜いていた。
パズズの名が出た瞬間、ロクサーナの纏う空気が明らかに変わった。警戒心が敵意へと転じる。彼女の手が、そっと作業台の下に置かれた杖へと伸びる
。
「……やはり、ただの旅の魔女ではないわね。魔王の名を知り、その気配を探る……一体、何が目的なの?」
「あたしたちは……」
ミツキは、相手を刺激しないよう、慎重に言葉を選んだ。
「ただ、この街で何が起きているのか知りたいだけ。病気の人たちや、生贄にされそうな子供たちを……助けたい。そのためには、あなたの協力が必要かもしれないと思ったの」
ミツキの真剣な言葉に、女性はしばらくの間、一行を値踏みするように見つめていた。ミツキの瞳に嘘がないこと、そして彼女たちが持つ尋常ならざる力を感じ取ったのかもしれない。
やがて、彼女は深いため息をつくと、作業台の下の杖から手を離した。
「……いいでしょう。ただし、あなたたちが本当に信用できるか、私が見極めるまでは全てを話すつもりはないわ。……それでもいいなら、奥へ来なさい。立ち話もなんだしね。」
その言葉に、ミツキの表情がぱっと明るくなる。
「! 本当!? よかった……。あたしはミツキ! こっちはエリシェヴァと、ルークと、ライラ。それで、あなたは――」
ミツキが仲間を紹介し、彼女の名前を尋ねようとした瞬間、女性はそれを遮るように静かに告げた。
「――ロクサーナよ。私の名前」
その声にはまだ警戒心が残っていたが、ミツキたちを「対話の相手」として認めた響きがあった。
「ロクサーナ……さん。あの、あたしたちは――」
「詳しい話は奥で聞くわ」
ロクサーナはミツキの言葉を再び制すると、店の奥へと続く、重いカーテンがかけられた通路を顎で示した。
一行は顔を見合わせ、頷き合うと、緊張した面持ちで、薬師の店のさらに奥深くへと足を踏み入れていくのだった。




