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第四話 魔王ベルゼブブ

「エリシェヴァ、あなたならベルゼブブに会える場所、知ってるよね? そこに連れて行ってほしい。」


ミツキの言葉に、エリシェヴァの瞳が揺れ、顔が強張った。

やはり全て、最初から見透かされていたようだった。


「ベルゼブブ様の領域……? でも、魔法を使うのは危険で……」


彼女の手が震え、懐に隠した苔むした石を握りしめる。

ミツキはその肩にそっと手を置き、真っ直ぐに見つめた。


「お願い、エリシェヴァ。教皇アダムスと教会の暴走を止めるには、魔王ベルゼブブの力が必要なの。

私には、この世界と魔女たちを救う使命がある。」


その声は静かだが、まるで誓いのように響く。

エリシェヴァは唇を噛み、目を閉じた。両親を失い、村を救ったあの夜の記憶が蘇る。


「……分かった。ミツキを信じるよ。」


彼女は懐から小さな石を取り出した。苔むした表面には、かつて祠で見た古い文字が刻まれている。


「“豊穣”の魔王ベルゼブブ様……どうか我を導いてください……」


聴き慣れない古い言葉を紡ぐと、石から緑の光が溢れ、二人の足元を包む。

ミツキの視界が歪み、体が浮き上がる感覚に襲われた。

路地の石畳が遠ざかり、闇に溶けていく。


次の瞬間、足元に冷たい石の感触が戻った。


―――


目の前に広がったのは、森とも荒野ともつかぬ空間だった。

苔むした石柱が立ち並び、壁には見たことのない古い文字が刻まれている。

高い天井は緑の光に揺れ、湿った空気に草の香りが混じる。

まるで時間が止まった古びた神殿のようだった。


(ここが……魔王の座する場所。)


中央に、青年の姿をした存在が立っていた。

淡い茶髪が肩に流れ、草原を思わせる深緑の瞳が二人を柔らかく見つめる。

背には蛾のように透けた翅と、焦げた羽根が混じる歪んだ翼。

かつて豊穣の神と呼ばれ、今は魔王とされるベルゼブブだった。


「ようこそ、私の領域へ。」


その声は穏やかで、春風のように優しい。

エリシェヴァはひざまずき、深く頭を垂れた。


「ベルゼブブ様。この方が、私を救ってくださったミツキ様です。」


その声は敬虔で、だがかすかに震えていた。

ミツキはエリシェヴァの緊張を感じ、そっと肩に手を置く。


ベルゼブブの瞳がエリシェヴァに向き、静かに言った。


「人前で魔法を使うとは……危なかった。心配したよ。」


その声音には叱責よりも深い気遣いが滲んでいた。

エリシェヴァの肩が震え、顔を上げる。


「……申し訳ありません、ベルゼブブ様。あの子を放っておけなくて……」


罪悪感と忠誠が交錯する瞳。

ミツキは微笑み、彼女を励ました。


「君は正しいことをしたよ、エリシェヴァ。」


ベルゼブブは頷き、ミツキに視線を移す。


「君が……“翁”に遣わされた者なのだね。」


ミツキの胸が一瞬震える。

翁の名──それは彼女の使命の核心に触れる言葉だった。


だが瞳を逸らさず、まっすぐに答える。


「ええ。私は翁の意志を継いでいます。アダムスと教会の暴走を止めたい。そのために、あなたの“シギル”を私に託してほしい。」


紅いドレスが緑の光に映え、彼女の声は揺るがなかった。

ベルゼブブはしばし彼女を見つめ、小さく息を吐く。


「人を救うために、魔を頼る……この世界では異端の道だ。

だが──異端であるがゆえに、真実を映すこともある。」


「異端で構わない。」


ミツキは即答した。


「私は……もう誰かが泣くのを見たくないから。」


エリシェヴァの涙、群衆の憎悪、聖レクス市の闇──それら全てが、彼女の決意を燃やしていた。


ベルゼブブは目を細め、柔らかな笑みを浮かべる。


「その覚悟、確かに受け取ったよ。」


彼の掌に緑の光が灯り、複雑な紋章が形を結ぶ。

それは生き物のように震え、羽音を響かせる“シギル”だった。


「これは私の“シギル”。翁の権能を開く鍵となるものだ。受け取りなさい。」


光がミツキの胸に吸い込まれる。

灼熱の奔流が全身を駆け抜け、彼女は思わず膝をついた。

心臓が脈打ち、まるで命そのものが焼き尽くされるようだった。


「ミツキ!?」


エリシェヴァが心配そうに手を伸ばす。

ミツキは息を整え、微笑み返した。


「大丈夫……ちょっと熱いだけ。」


その瞬間、遠い深淵から“翁”の声が囁いた。


《……これで二つ目だ。“破壊の権能”──我が力の片鱗。教皇アダムスを討ち、天上界の道を切り開くために使いなさい。》


その声は冷たく、だが力に満ちていた。

ミツキの瞳が鋭くなり、胸のシギルが脈動する。


(翁……この力、必ず役立てる。)


彼女は立ち上がり、ベルゼブブを見つめた。


ベルゼブブは静かに告げる。


「重い力だ。だが、君なら背負えるだろう。どうかエリシェヴァを守ってやってほしい。そして……自分自身の心も、孤独のままではならない。」


ミツキは胸の奥を突かれるように感じ、一瞬俯いた。

だがやがて顔を上げ、微笑み返す。


「ありがとうございます。この力、必ず役立てます。」


エリシェヴァがそっとミツキの手を握り、微笑む。


「ミツキ……ありがとう。」


その温もりが、ミツキの心を軽くした。


ベルゼブブは穏やかな笑みを見せ、言う。


「ならば行くといい。君たちの旅路に、豊穣の恵みがあらんことを。」


緑の光が薄れ、神殿の空間が揺れる。

二人の体が浮き上がり、聖レクス市の闇へと戻っていく。


ミツキはエリシェヴァの手を握りしめ、新たな力を胸に感じた。



 

 ――



廃屋の隅で、焚き火の炎が小さく揺れていた。夜の静けさが周囲を包み、薪のぱちぱちと爆ぜる音だけが、闇を優しく切り裂く。エリシェヴァは毛布にくるまり、震える肩を丸めながら、そっと隣のミツキを盗み見る。ミツキは赤いドレスの裾を直し、炎を見つめていた。黒髪が火の光に照らされ、紅いツバキの髪飾りが柔らかく輝く。エリシェヴァの胸に、感謝と疑問が混じり合う。


「……あの。」


彼女の声は、まだ恐怖の余韻に震えていた。ミツキは顔を上げ、穏やかに微笑む。


「ん? どうしたの?」


その声は軽やかで、まるで日常の会話のように自然だ。エリシェヴァは毛布を握りしめ、言葉を絞り出す。


「……あの、ミツキさん。どうして、私を助けてくれたんですか? あなたも魔女狩りに遭うかもしれないのに……。あなたがあの時使った力も、あなたの考え方も……なんだか、この世界の人間じゃないみたい」


「……!」


彼女の瞳には、火刑台で味わった絶望がまだ残っていた。群衆の憎悪、浄化官の冷たい籠手――すべてが、心を蝕む。ミツキはしばらく黙って火を見つめ、ふっと笑う。


「……すごいね、エリシェヴァ。バレちゃったか。

――信じてもらえないかもしれないけど……その通りだよ。私は、別の世界から来たの」


冗談めかした声だったが、瞳の奥には深い決意が宿っていた。エリシェヴァは息を飲む。


「え……!?」


ミツキは肩をすくめ、薪をくべる。


「だから、あたしにはこの街の『普通』がどうしても分からない。祈らなかっただけで殴られる? 病気を救っただけで魔女扱い? そんなの、なんだか気持ち悪すぎるよ。……こんな世界、エリシェヴァは変えたいと思わない?」


冗談めかした声だったが、瞳の奥には深い決意が宿っていた。エリシェヴァは息を飲む。


「変えたい……って、あなた一人で? 教皇アダムス様の教会は、この世界のすべてですよ。数多の悪魔や魔王でさえ、戦争で倒されたのに……」


ミツキは肩をすくめ、薪をくべる。


「一人じゃなくてもいいよ。エリシェヴァみたいな優しい人がいるんだから。君の力、ベルゼブブの癒し……それがあれば、きっと変えられる。」


エリシェヴァの頬が熱くなる。


「私の力……? あれは、罪ですよ。ベルゼブブ様に与えられたけれど、人を救うたび胸が痛むんです。村を救ったのに、魔女として追われる身に……」


声が震え、両親の記憶が蘇る。飢餓で失った母の温もり、父の優しい手。ミツキの瞳が柔らかくなる。


「罪じゃない。君は命を大事にする人だ。それが、ベルゼブブが君を選んだ理由じゃないかな。」


エリシェヴァは驚いて顔を上げる。


「……どうして、そんなこと知ってるんですか? あなたは、ベルゼブブ様を知ってるの?」


ミツキは少し視線を逸らし、笑う。


「まあ、知ってるっていうか……大きな目的があって、この街に来ただけ。君みたいな人が、泣くのを見たくないから。」


エリシェヴァの胸に温もりが広がる。


「本当に……年上みたいですね。」


「えっ、私が? まあ、頼れるお姉さんだから!」


ミツキはわざと胸を張ってみせ、エリシェヴァは小さく吹き出す。


「ふふ……ありがとう、ミツキ。」


彼女の頰に、かすかな笑みが浮かぶ。ミツキの胸に、少しだけ熱いものが広がった。


「これからは私を信じて。あなたは、もう一人じゃないから。」


エリシェヴァは毛布に顔を埋め、小さく頷いた。焚き火の赤が二人の影を長く伸ばし、夜の廃屋に静けさが戻る。


──闇の世界。


ミツキの意識が、静かに引き込まれる。澄んだ空には無数の泡のような光がきらめき、虚空に黒い大樹がそびえていた。幹は太くねじれ、枝は空を覆うように広がる。根元には赤い彼岸花が咲き乱れ、地面を血のように鮮やかな色で染めていた。花弁は風もないのにわずかに揺れ、甘い腐敗の香りが漂う。幹には古い傷跡が無数に刻まれ、魂の叫びのように見えた。


花の間を小さな虫が這い、かすかな羽音が響く。闇の空気は重く、息を吸うたび胸に冷たいものが染み込む。――この世界は、ミツキの夢の奥底に広がる異空間。孤独と静寂が満ち、だがどこか懐かしい。


大樹の根元に、青年の姿があった。長い黒髪が風もないのに揺れ、褐色の肌に黄金の瞳が闇を貫く。整った顔立ちは美しく、だが背筋を凍らせる気配を帯びている。――それでも、その瞳の奥に、一瞬だけ深い孤独が滲む。不思議な懐かしさも同時に覚える。


「また会ったな、ミツキ。」


翁の声は落ち着いていて、ほんの少し柔らかさを含んでいた。ミツキは唇を尖らせ、半ば呆れたように応じる。


「……人を勝手に呼びつけるの、やめてくれません? 毎回夢の中で、疲れるんですけど。」


軽い口調だが、親しげに語りかける。翁はわずかに微笑んだ。


「夢の中でしか語れぬのだ。許せ。」


ミツキは肩をすくめ、それ以上は追及しない。彼がそういう存在だと、もう知っているから。


「それで、今夜は何の用? また使命の話?」


翁の瞳が静かに光る。


「お前の使命を、改めて告げるためだ。この世界を縛る教会と、その頂に立つアダムスを討て。そしてシギルを集め、全能神の住まう天上界への扉を開くのだ。」


声は重く、黄金の瞳がミツキを射抜く。ミツキは小さく息を吐く。


「……やっぱり、そこまでやらなきゃいけないんだね。ベルゼブブのシギルは受け取ったけど……正直重いよ、この力。」


胸に手を当て、シギルの脈動を感じる。翁は目を細め、問う。


「恐れるか?」


ミツキは即答した。


「いいえ。ただ……面倒くさいってだけ。」


苦笑する彼女に、翁は一瞬目を細め、声に寂しさを混じらせる。


「お前は、時に強がりを言うな。孤独を恐れているのではないか?」


ミツキの胸が一瞬痛む。


「……それは違う。エリシェヴァみたいな仲間がいるから、孤独じゃないよ。翁こそ、いつも一人でこの世界にいるみたいだけど……大丈夫なの?」


翁の黄金の瞳が揺らぐ。


「……私のことは気にするな。お前は、自分の心を大切にしろ。」


ミツキの唇が歪む。


「大切にするよ。でも、翁の使命……絶対に果たすから。エリシェヴァを救ったように、他の魔女も守る。」


翁は深く頷く。


「その言葉、信じよう。お前の仲間は、君の強さだ。」


ミツキはふっと笑った。すると、それを返すように翁の微笑みが深くなった。


「約束しよう。」


大樹の彼岸花が揺れ、星空が淡く光る。夢は音もなく崩れ去っていく。


ミツキは目を覚ました。夜明け前の静寂の中、隣で眠るエリシェヴァの寝息が胸に沁みる。


(理由は言えない。でも、この世界を……魔女たちを……絶対に救ってみせる。)


彼女は小さくそう誓い、静かに目を閉じた。

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