第五話 ベルゼブブの助言
ライラが羊皮紙に描き上げた「本来の護符」の絵。それが、一行の唯一の手がかりだった。
彼女たちは再び、永遠の夜に沈むカラート・シャムスの街へと足を踏み出した。
「老婆さんの話だと、疫病は貧しい者たちの間で広まってるって言ってた。スーク(市場)の裏手を探してみよう」
ルークが先頭に立ち、人目を避けながら裏通りを進んでいく。
しかし、調査は難航した。
「すみません、この絵に描かれたような護符を作る人を知りませんか?」
エリシェヴァが、道端で薬草を売る行商人にライラの描いた「ライオンと鳥」の絵を見せるが、男は絵を一瞥すると、顔をしかめて首を振った。
「知らんな。それに、お嬢ちゃんたち、そんな気味の悪いものに関わるのはよしな。神官様に見つかったら、異端者と見なされて火炙りにされちまうよ」
他の住民たちも、護符の絵を見せると、まるで呪われたものでも見るかのように後ずさり、口を固く閉ざしてしまった。この街では、本来の護符でさえ、教会に逆らう禁忌の象徴と見なされているようだった。
「駄目だ……誰も話してくれない」
――宿屋の一室。老婆が気を利かせて焚いてくれた安らぐ香が、部屋に満ちていた。
あれから街を探索したものの手掛かりは何もなくミツキ達は1度宿屋に戻っていた。
ミツキたちの表情は硬い。羊皮紙に描かれた二つの護符の絵――ライオンと鳥、そしてライオンと蛇――が、事態の異常さを物語っていた。
「……やはり、ベルゼブブ様に聞いてみるしかないわ」
エリシェヴァが決意を固めたように顔を上げた。
「私の治癒魔法が効かない理由も、この描き変えられた護符の意味も……あの方なら、何かご存知かもしれない」
ルークも頷く。
「そうだな。それに、この疫病が本当にパズズという魔王の仕業なのかも確認したい」
エリシェヴァは、ベルゼブブを召喚するために謁見魔法の詠唱を始めた。ライラはエリシェヴァの顔を不安げに見比べる。
「大丈夫? ライラ。また魔王様を呼ぶの、少し怖い?」
ミツキはライラを気にかけている。
「……はい、まだ正直。でも、あの人達はアーリヤの為に戦ってくれたし……大丈夫です」
「無理も無い、魔女でも無ければ魔王や悪魔と対峙する事なんて滅多にないからな。安心して、僕もいるから」
ルークは静かにライラに答えた。
エリシェヴァは深く息を吸い込み、震える指で石を握りしめ、古の言葉を紡ぎ始めた。
「“豊穣の魔王”ベルゼブブ様……どうか私の声に応えてください」
詠唱が終わると同時に、部屋の空気が重く、甘く、粘つくような気配に満たされた。床に淡い緑の光が走り、空間が歪む。やがて、その歪みの中心から景色がかわり謁見の間へと変わる。歪んだ羽を広げた美貌の魔王――ベルゼブブが姿を現した。
「やあ、エリシェヴァ。それに、ミツキ、ルーク、そしてライラ。……ずいぶんと早い再会だね。何か困ったことでも?」
その声は優雅だが、緑の瞳は一行の緊張した表情を正確に読み取っていた。
「あ……あ……」
やはり異形の翼を持つ魔王にライラはタジタジだった。
ライラにルークが寄り添う。エリシェヴァ達は膝をつき、事の経緯を語り始めた。
「終わらない夜」のこと、カラート・シャムスの惨状、そして疫病と奇妙な護符について。
ベルゼブブは黙って聞いていたが、ミツキ達が「疫病の魔王パズズ」の名を口にした瞬間、その表情が明らかに曇った。
「……パズズ、だって?」
ベルゼブブは、まるで忌まわしいものでも口にするかのように、その名を繰り返した。優雅な笑みは消え、眉間には深い皺が刻まれている。
「やれやれ……またあの陰気な神の仕業かい? まったく、疫病だの飢饉だの、ろくなことをしない……」
そのあからさまな嫌悪感に、ミツキたちは顔を見合わせた。
「ベルゼブブ様は、パズズのことをよくご存知なのですか?」
エリシェヴァがおずおずと尋ねる。
「知っているとも」
ベルゼブブはため息をついた。
「彼とは、神だった頃からの腐れ縁でね。豊穣を司る私と、疫病や飢餓を司る彼は、いわば対極の存在。……まあ、正直に言って、私は彼のやり方も、その陰気な性格も、どうも好きになれなくてね」
その言葉には、単なる好き嫌い以上の、深い対立の歴史が滲んでいた。
「それで……この疫病についてなのですが」
エリシェヴァは本題に戻った。
「私の治癒魔法が、全く効かないのです。まるで、病そのものに拒絶されているようで……」
ベルゼブブは、エリシェヴァの言葉に頷いた。
「だろうね。あれは単なる病ではない。パズズの神性……いや、今は魔性と言うべきか。彼の本質の一部が付与された、呪詛に近いものだ。彼の力は疫病と飢餓を司るという物でね、対して私の力は生命と豊穣を育む光。…単純に、相性が最悪なのさ」
その説明に、エリシェヴァは唇を噛んだ。自分の無力さの原因が、神々の性質の違いという、あまりにも根源的な理由にあったのだ。
「あの、これ……」
ミツキは、ライラが描いた二つの護符の絵をベルゼブブに見せた。
「それで、この護符のことも聞きたいんだ。病気の人や、生贄にされそうな子供たちが、こっちの……蛇が描いてある方を持ってた。でも、古い本には、こっちの鳥の絵が載ってたんだって」
ベルゼブブは、まずライオンと鳥が描かれた絵を手に取った。
「ふむ……これは……。古の魔除けの紋様だ。パズズには疫病と飢餓以外にも子供をありとあらゆる存在から守護する守り神でもあってね。これはその力が込められている物だ」
次に、ライオンと蛇が描かれた絵に目を移した瞬間、彼の表情が再び険しくなった。
「……これは……! なんてことだ。本来の守護の紋様が、禍々しいものに描き変えられている……! 鳥の翼が蛇に……これは、パズズの力を捻じ曲げて利用している証だ。本来の守護の力とは全く違う、死と腐敗の匂いがする……!」
ベルゼブブは、描き変えられた護符の絵を忌々しげに睨みつけた。
「……まさかパズズ本人がこんな真似を? いや、あの男は陰気ではあるが、ここまで悪趣味ではないはずだ。……だとすると、これは……」
彼の瞳が、何か別の存在の気配を探るように、鋭く細められた。
「……さてはラマシュトゥだな」
「ラマシュトゥ……!?」
ミツキたちが息を呑む。老婆が語っていた、子供を攫う魔王の名だ。
「ああ」とベルゼブブは頷く。
「あの魔王ならやりかねない。彼女は夜な夜な人間の子供を攫っているのだろう。 だが、パズズの本来の護符は、あらゆる悪意ある存在から子供を守る力をもつ。……つまり、彼女は子供を攫おうとしても、この護符に阻まれて手が出せなかったのだ」
ベルゼブブは、描き変えられた護符を指さした。
「だから、無理やり護符の力を捻じ曲げようとしたのだろう。守護の紋様を穢し、蛇に変えることで、パズズの守りを歪まそうと、あるいは……さらに悪いことに、子供を引き寄せるための呪詛に変えようとしたのかもしれない。……全く、救いようのないことを……」
ベルゼブブの言葉で、疫病の裏に隠された、もう一つの悲劇的な真相が明らかになった。ラマシュトゥの狂気が、事態をさらに悪化させているのだ
一行がその事実に言葉を失っていると、ベルゼブブはふと、**この人間界全体を覆う異常な『時の停滞』**に意識を向けたかのように、瞑目した。
「……そして、この『終わらない夜』。これもまた、厄介なことになったものだね」
その声には、先ほどのパズズやラマシュトゥに対するものとは違う、より深刻な響きがあった。
「ベルゼブブ様は、何かご存知なのですか? この夜が明けない現象について……」
ミツキが尋ねると、ベルゼブブはゆっくりと首を振った。
「直接の原因までは、私にも分からない。だが……これほど広範囲に、世界の理そのものを歪める力。……心当たりがないわけではないよ」
彼の瞳が、遠い過去を映すように細められる。
「かつて……魔界戦争の頃に猛威を振るった"文明の魔王”ラーヴァナ。彼もまた、元は翁の使徒で天上界の使いでね、世界そのものを捻じ曲げるほどの力を持っていた。……まあ、彼は既に討たれて人間界には顕現できない筈だが……これほどの芸当ができる存在は魔界でもそう多くはないからね。もしや、何か特殊な方法を使って人間界に干渉しているのか……?」
ベルゼブブはそこで一度言葉を切り、首を振った。
「いや……今は憶測で語るべきではないだろうね。原因はまだ掴めぬ。だが、人間界にパズズの疫病が流行り出してから間もなくして夜が明けなくなった……まったくの無関係では無さそうだ」
「いずれにせよ」とベルゼブブは結論付けた。
「この疫病と護符の謎を解くには、パズズ本人に会って真意を確かめるしかないだろうね。……ああ、気が重い。私は、できれば関わりたくはないのだけれど」
彼はわざとらしく肩をすくめて見せたが、その瞳は笑っていなかった。
「あの陰気な神のことだ。おそらく、直接姿を現すことはないだろう。まずは、あの護符を配っている人物を探すことだね。十中八九、その人物がパズズの契約者……ネファスの魔女だろうから」
ベルゼブブの言葉が、一行が進むべき道を明確に示した。
ルークが尋ねる。
「だが……、どうやってその人を探せば……? 街の人たちは皆怯え、何も教えてくれなかった」
ベルゼブブは少し考えると、指先で空間に淡い光の粒子を描いた。それはカラート・シャムスの街の略図のようだった。
「パズズの魔力は、陰鬱で捉えにくい。だが、これだけ大規模な疫病となると、その中心……術者であるネファスの魔女がいる場所からは、微弱ながらも特有の気配が漏れ出ているはずだ」
彼はミツキ達が持ってきた地図上の一点、スーク(市場)の裏手に広がる、入り組んだ路地の一角を指し示した。
「私の感知によれば、パズズの気配……そして、あの歪められた護符と同じ『腐敗』の魔力の源流は、あの辺りから最も強く感じられる。おそらく、古くから薬師や香辛料商が集まる、スークの裏寂れた一角だろうね。人目を避けるには、うってつけの場所だ」
ベルゼブブは最後に、エリシェヴァに向かって優しく、しかしどこか含みのある微笑みを向けた。
「気をつけてお行き、エリシェヴァ。パズズの力は、私のものとは違う意味で、人の心を惑わせる。……そして、この疫病と護符からは、パズズだけでなく、ラマシュトゥ……いや、それ以上の何か別の気配も感じる。……決して、深入りしすぎないようにね」
「わかりました。ありがとうございますベルゼブブ様」
エリシェヴァが答えた後、ベルゼブブが静かに手を振ると、再び緑の光が一行を包み込み、視界が白く染まる。
次の瞬間、彼女たちはカラート・シャムスの宿屋の一室に立っていた。
部屋には、甘く、そして不穏な香の残り香だけが漂っていた。




