第一話 明けない夜
――あれから、アイン・アル・ハヤトでの休息は、三日目に入っていた。
イブリースとの死闘で負った心身の傷は、この「生命の泉」の穏やかな空気の中で、少しずつ癒えていく。ライラはエリシェヴァに文字を教わり、ルークは黙々と剣の稽古に打ち込み、ミツキはそんな仲間たちの姿を微笑ましく見守っていた。アーリヤを失った悲しみは消えない。だが、前に進むための温かい時間が、確かにここにはあった。
そしてその夜、ミツキは久しぶりに手足を伸ばして深い眠りに落ちていた。
心地よい疲労感の中、彼女の意識は、吸い込まれるようにあの異空間へと誘われる。
――気づけば、ミツキはいつもの黒い大樹の前に立っていた。
しかし、いつもと様子が違う。空には無数の透き通る泡が輝いているはずなのに、その全てが、まるで描かれた絵のように全く動かないのだ。風の音はするのに、流れる雲一つない、凍りついた夜空。
「……何、これ……?」
ミツキは、そのあまりに異様な光景に息を呑んだ。
「……世界の理が、歪められた。何者かが、空の運行を……『時』そのものを、人間界に縫い付けてしまったのだ」
大樹の根元に立つ翁は、険しい表情でその異様な空を見上げていた。その声には、これまでミツキが感じたことのない緊張が走っている。
翁は凍てついた夜空からミツキへと視線を戻す。その黄金の瞳の奥に、何かを探るような、そして懐かしむような複雑な色が浮かんだ。
「……これほどの規模で理を歪める力。……かつて、我が使徒であった彼奴ならば、あるいは……」
翁はそこまで言うと口を噤み、首を振った。
「いや……今は憶測で語るべきではないな。原因はまだ掴めぬ。だが、この『終わらない夜』が始まったのと時を同じくして、地上では別の厄災が広がり始めている」
翁が手をかざすと、ミツキの脳裏に、高熱に魘され「水が苦い」と呟く人々の幻影が浮かび上がる。
その光景を見た瞬間、ミツキははっと目を見開いた。
「この病気……! もしかして、聖レクス市でエリシェヴァを苦しめていた、あの奇病と同じ……!?」
記憶の底から、助けを求める人々の苦しげな声が蘇る。
「そうだ」と翁は頷いた。
「あれは、この厄災の前触れに過ぎなかったのだ。そしてこれは『疫病の魔王』パズズの仕業だろう」
「パズズ……」
ミツキがその名を繰り返す。
「ああ。……偶然とは思えん。この『終わらない夜』と、パズズの『疫病』。二つの厄災は、どこかで繋がっているはずだ」
翁は、ミツキを真っ直ぐに見据え、厳かに告げる。
「――この街の東にあるカラート・シャムスという街に向かうのだミツキ。そこでまずは、目に見える厄災――パズズが振りまく疫病の根源を突き止めよ。そこを辿れば、必ずやこの『終わらない夜』を終わらせるための糸口も見つかるはずだ」
その言葉を最後に、凍りついた夢の世界は霧のように掻き消えていった
「――っ!」
ミツキは、心臓が跳ね上がるのを感じて目を覚ました。
窓の外は、まだ深い闇に包まれている。
しばらくして、隣の部屋から微かな物音が聞こえてくる。どうやら、早起きのルークがもう起き出したらしい。
「……ふぁ……おはよ、ルーク」
寝室を出ると、ルークはすでに軽鎧を身に着け、剣の手入れを始めていた。部屋の隅では、エリシェヴァとライラも身支度を整えているところだった。
「おはよう、ミツキ。……何時もと違って、ずいぶんと早起きだな」
ルークが、少し意外そうな顔でミツキを見る。
「うっ、そんなこと無いよっ。………というかみんなこそ。まだ外、真っ暗だよ? さすがにちょっと早起きすぎじゃない?」
ミツキが窓の外を指さすと、空には三日月と無数の星が輝いていた。
「ええ、私もそう思ったのだけど……」
エリシェヴァが困ったように微笑む。
「なんだか、街の様子が騒がしくて目が覚めてしまって」
彼女の言う通り、宿屋の外から聞こえるのは、朝の静けさではなかった。多くの人々が起き出し、ざわめき合っている気配がする。
「なんだろう?」とミツキが首を傾げた、その時だった。
宿の主人が、廊下を慌ただしく駆けてきた。
「おい、みんな起きてるかい!? 夜番の蝋燭はとっくに燃え尽きてるのに、外が全く明るくならんのだ! 鶏も鳴かんし、どうなってるんだ!?」
その言葉に、四人は顔を見合わせた。
やはり、ただ早く起きすぎたわけではない。
「……ねえ、みんなあのね。」
窓辺でじっと夜空を見上げていたライラが、震える声で仲間たちを呼んだ。
「あの月も、星も……さっきから、少しも動いてない。それに……一度も、瞬きしてないの」
ライラの指さす夜空では、星々がまるで絵画のように、空に縫い付けられたまま静止していた。風の音はすれども、雲は流れず、大きな三日月は微動だにしない。
「……夜が、明けてない……?」
ミツキの呟きに、エリシェヴァが青い顔で頷いた。
ルークは剣の柄に手を置き、鋭い声で言った。
「これは自然現象じゃない。……空そのものの時間が止まっているようだ。それも、ミツキが使う時間停止の権能のような、局地的なものではない。もっと、広範囲……あるいは、世界全体のものだろう」
終わらない夜。そして、翁が告げた疫病の魔王の影。
――ミツキが仲間たちに夢で見たことを話そうとした、まさにその時だった。
宿屋の扉が勢いよく開き、街の自警団員らしき男が血相を変えて飛び込んできた。
「大変だ! 街の入り口に、西から来たらしい隊商が倒れてる! 助けてやってくれ!」
四人が急いで街の門へ向かうと、そこには数人の商人たちがラクダの傍らで倒れ込んでいた。誰もが全身を汗で濡らし、苦しげに喘いでいる。
「ひどい熱……!」
エリシェヴァがすぐに駆け寄り、一人の男の額に手を当てる。その体は、まるで火のように熱かった。
「……うぅ……みずが……にがい……」
男が、虚ろな目でうわ言を繰り返す。
「誰かが……呼んでる……」
別の女も、同じ言葉を呟いた。
その言葉に、ミツキは背筋が凍る思いだった
。
(翁の夢で見た光景と、……同じ……!)
夢は、ただの警告ではなかった。すでに現実に起きていることなのだ。
エリシェヴァがはっと顔を上げる。
「この症状は……間違いないわ! 聖レクス市で流行っていた、あの奇病よ!」
彼女はすぐに治癒魔法を試みるが、病の進行をわずかに和らげるだけで、根治には至らない。
「駄目……レクス市の時と違って、私の光が奥まで届かない……! 何か、もっと根の深い……呪いのようなものが、この人たちの命に絡みついてるわ……!」
その光景を見て、ミツキは固く拳を握りしめた。
宿屋に戻った一行は、改めて顔を突き合わせる。
「終わらない夜に、謎の奇病……。一体、何が起きているのかしら……」
エリシェヴァの言葉に、ミツキは意を決したように顔を上げた。
「……あたし、今朝、翁の夢を見たんだ」
仲間たちの視線が、一斉にミツキに集まる。
「夢の中で、翁は言ってた。今、世界中で『時』が止められて、『終わらない夜』が始まってるって。そして、さっきの疫病は、その異変と同時に広がり始めた『疫病の魔王』パズズの仕業だって」
ミツキは、仲間たちの驚いた顔を見ながら、言葉を続ける。
「だから、翁は言ってたんだ。この二つの厄災は繋がってるはずだって。この疫病の根源を突き止めれば、きっとこの夜を終わらせる手がかりも見つかるはずだって!」
「……行くんだな」
ルークが、ミツキの瞳を真っ直ぐに見て言った。
「うん。翁は、この街の東にある『カラート・シャムス』へ向かえって……次の街へ向かおう」
その決意に、エリシェヴァもライラも、強く頷いた。
一行が旅の支度を整え、ラクダを引いて宿屋を出ると、心配そうな顔をした女将が駆け寄ってきた。
「お嬢ちゃんたち、まさか……こんな時に街を出るつもりじゃないだろうね!?」
街の人々も、遠巻きに不安そうな視線を向けている。
「ごめんなさい、女将さん。でも、行かなきゃいけないんだ」
ミツキが答えると、女将は必死に食い下がった。
「馬鹿をお言い! 夜が明けないんだよ? 外に何がいるかも分からないのに、危険すぎる!」
「だから、行くんです」
ミツキは、女将の目を真っ直ぐに見返した。
「このままここにいても、何も解決しない。病気の人たちも、この夜も、元には戻らない。……あたしたちには、やらなきゃいけないことがあるから」
その揺るぎない瞳に、女将は言葉を失った。彼女は深いため息をつくと、店の奥から干し肉と焼き菓子の包みを押し付けてきた。
「……分かったよ。けど、絶対に無茶はしないでおくれ。この街は、あんたたちみたいな勇敢で優しい子たちの、帰ってくる場所でありたいんだからね」
「……ありがとう、女将さん」
街の人々の心配そうな、しかし温かい眼差しに見送られながら、四人はアイン・アル・ハヤトの門をくぐった。
目の前に広がるのは、星々が縫い付けられた、永遠に続くかのような夜の砂漠。
短い休息は終わった。
世界の時を取り戻すための、新たな旅が、今始まる。
新章・永遠の夜編スタート!
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