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第三話 少女達の夜2 ライラの散歩

その夜、ライラはどうしても眠りにつくことができなかった。

隣で聞こえるエリシェヴァの穏やかな寝息。新しい服の柔らかな感触。全てが、夢のように温かい。

だからこそ、胸がいっぱいになってしまったのだ。ザビール家の館では、夜はただ息を潜めるだけの、より深い闇の時間でしかなかったから。

 

(アーリヤも、こんな夜を過ごしてみたかっただろうな……)

 

じっとしていることができず、ライラはそっと寝台を抜け出し、宿屋の外へと忍び出た。

ひんやりとした夜気が、火照った頬に心地よい。見上げれば、砂漠で見たのと同じ星空が広がっているのに、湖に映るその光は、まるで別世界のきらめきに見えた。

ライラは、生まれて初めての冒険に、心を躍らせた。

 

水路を流れるせせらぎの音、どこかの酒場から微かに漏れ聞こえる楽しげな音楽、窓辺に飾られた名も知らぬ花の甘い香り。その全てが、彼女にとっては新鮮だった。

しばらく歩くと、道が二手に分かれている辻に出た。壁には木製の看板が掛かっている。一つは賑やかな大通りへ、もう一つは静かな居住区へと続く道標のようだった。

しかし、ライラには、そこに書かれた文字が読めなかった。奴隷に学問は許されていなかった。それは、彼女が逃れられぬ過去の証だった。

 

(……どっちに行けば、湖の近くに戻れるんだろう)

 

片方の看板には、楽しげに乾杯する人々の絵が描かれている。もう片方には、静かに眠る三日月の絵。

ライラは、騒がしい場所を避け、静かな月の絵が描かれた看板の方へと足を向けた。きっと、湖畔の静かな道に違いない、と。

だが、その道は彼女の期待とは裏腹に、徐々に狭く、暗くなっていった。

家々の窓から漏れていた灯りは途絶え、陽気な音楽も聞こえなくなる。代わりに、鼻をつくのは、捨てられた残飯と澱んだ水の匂い。

 

(……なんだか暗い場所に来てしまったわ。間違えた、かも)

 

引き返そうとした、その時だった。


 「……嬢ちゃん、一人かい? こんな夜更けに、良い度胸じゃねえか」

 

下卑た笑い声と共に、複数の影が路地の闇から現れ、ライラの行く手を塞いだ。街のごろつきだ。

 

「ひっ……!」

 

ライラは後ずさるが、背後は冷たい石の壁だった。

 

「まあ、そう怯えるなって。少し付き合って貰うだけさ」

 

男たちがじりじりと距離を詰めてくる。恐怖で声も出ない。ザビール家の館での、あの無力な日々がフラッシュバックする。

 

(……ううっ…怖いよっ……!)

 

その瞬間、路地のさらに奥の暗闇から、静かだが氷のように冷たい声が響いた。

 

「辞めろ、見苦しいぞ。こんな幼い子供に……その子から離れろ」

 

「あぁ? 誰だてめぇ!」

 

ごろつきの一人が声のした方へ振り返る。闇の中から、影を引き剥がすように一人の青年が姿を現した。

 年はミツキたちと変わらないように見える。

 

「離れろと言っている。二度言わせるな。」

 

 しかし、その佇まいは、まるで百戦錬磨の戦士のように研ぎ澄まされていた。耳には特徴的な孔雀の羽根飾りをしている。

 

「へっ、ヒーローごっこか小僧が!」

 

ナイフを握った男が、青年に向かって一直線に突進する。しかし青年は半歩身をずらすだけですれ違いざまに男の手首を掴むと、骨がきしむ音と共に捻り上げた。

 

「ぎゃっ!?」

 

ナイフが地面に落ちる。青年は返す刀で、男の首筋に手刀を的確に叩き込んだ。男は白目を剥いてその場に崩れ落ちる。

 

「て、てめぇ!」

 

仲間がやられたのを見て、残りの二人が同時に左右から襲いかかる。だが、青年は慌てる素振りも見せない。先に倒した男の体を蹴り転がして右の男の足払いをすると、左の男が振り下ろした棍棒を腕で受け止め、その勢いを逆に利用して男自身の体勢を崩した。

空いた方の手で、無防備になった男の鳩尾に正確な掌底を叩き込む。

 

「ぐふっ……!」

 

息が詰まる音を最後に、二人目の男も地面に倒れた。一瞬の出来事だった。青年は一度も武器を抜くことなく、ただ流れるような体術だけで、全てのごろつきを無力化してしまったのだ。

 

青年はライラを振り返ると、静かに言った。

 

「怪我は? ないなら、さっさと宿へ戻れ。ここは子供が来るような場所じゃない」

 

その声は厳しかったが、どこか案じるような響きがあった。

 

「あ……はい……。あの、ありがとうございます……!」

 

ライラが頭を下げると、青年は彼女を宿屋まで黙って送り届けてくれた。

あの後ライラが居ないことに気付き飛び起きたのか、宿屋の前でエリシェヴァが血相を変えて飛び出してくるのが見えた。

 

「ライラ! どこに行ってたの! どれだけ心配したか分かってるの!?」

 

「ご、ごめんなさい……」

 

叱られて縮こまるライラ。その様子を見て、青年は静かに踵を返した。

 

「あっ、あの! お名前を……!」

 

ライラが呼び止めるが、青年は振り返らず、月明かりの中に言葉だけを残して夜の闇に消えていった。

 

「……名乗る程の者ではない。」

 

その夜、ライラはエリシェヴァに優しく、しかしこんこんと諭された後、ようやく寝台に戻った。

胸には、叱られたことへの反省と、生まれて初めての夜の冒険、そして月下に現れた謎の青年の姿が、強く焼き付いていた。

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