第三話 処刑
聖レクス市の朝は、重い雲に覆われ、冷たい風が石畳を這っていた。
診療所の窓から見える大通りには、果物の香りも子どもの笑顔もなく、群衆のざわめきだけが響いていた。
エリシェヴァは机の上で薬草を刻む手を止め、胸に広がる不安を抑える。
「君は優しい。だから、傷つくだろう。」
あの夜、村を救った契約の温もりが、今は罪悪感に変わっていた。
聖レクス市では、魔女は火刑台に送られる。
広場の教皇アダムスの石像が、まるで彼女を見張るようにそびえ立つ。
両親の墓前に供えた花、飢餓で失った母の微笑み、父の温もり──それらの記憶が胸を締め付ける。
(私は、ただ人を救いたかっただけなのに……)
そのとき、診療所の扉が荒々しく叩き破られた。
木の破片が床に散らばり、浄化官数名が白いマントを翻して踏み込んでくる。
鋼鉄の籠手が陽光に鈍く光り、冷たい目がエリシェヴァを射抜いた。
背後には、昨日まで「ありがとう」と微笑んでいた市民たちが群がり、好奇と憎悪の目を向けている。
パン屋の老人、果物売りの少年の母──皆が彼女を糾弾する目で見つめていた。
「昨夜、ここで異端の光を見たとの証言がある。」
浄化官の低い声が、室内に重く響く。
エリシェヴァの心臓が跳ね、震える声で否定する。
「ち、違います……私はただ、病の子を……」
だが机の上の薬草の灰を見つけた浄化官が、鋭く目を細めた。
灰には、少年を救った魔術の残滓が、微かに緑の光を放っていた。
「言い逃れはできぬ。これは魔法を使った証だ。」
浄化官の声は無慈悲だった。
兵士がエリシェヴァの細い腕を掴み、縄が手首を締め付ける。
冷たい鉄の鎖の音が、耳に突き刺さる。
「やめて! 私は、人を救っただけ……!」
彼女の叫びは、群衆の怒号にかき消された。
「魔女め!」
「魔女を捕らえろ!」
「神に仇なす者を裁け!」
エリシェヴァの金髪が乱れ、視界が涙で滲む。
昨日まで感謝してくれた母親が、子どもを背に石を投げた。
パン屋の老人が、憎悪に歪んだ顔で罵声を浴びせる。
彼女の足取りが乱れ、縄に引きずられる。
ふと、群衆の端に、あの黒髪の少女の姿が見えた。
特徴的な紅いツバキの髪飾りが、曇天に鮮やかに映える。
彼女の瞳は、怒りと焦りに揺れていた。
エリシェヴァの胸に、微かな希望が灯る。
(あの子の瞳……私を信じてくれる?)
だが、少女は一歩踏み出さず、拳を握りしめるだけだった。
エリシェヴァの心が沈む。
(誰も、私を救わない……)
――
夕刻、街の広場は、まるで祭りのように騒がしかった。
鐘が鳴り響き、群衆が押し寄せる。
石畳の上には薪が積まれ、縄で縛られたエリシェヴァが処刑台に立たされていた。
金髪が風に揺れ、青ざめた顔が夕陽に映える。
怒号と嘲笑が渦巻き、憎悪の視線が全身に突き刺さる。
「魔女を火あぶりにしろ!!」
「神の敵に裁きを!!」
群衆の声は、まるで獣の咆哮だった。
薪の乾いた匂いが鼻を刺し、縄が手首を締め付ける。
エリシェヴァの膝が震え、涙が頬を伝った。
昨日まで感謝していた人々が、今は石を投げ、彼女を糾弾する。
(この街は、優しさを許さない……)
広場の中央、教皇アダムスの石像が冷たく見下ろしていた。
剣で魔王を踏み潰す姿は、まるで彼女の運命を予告するようだ。
浄化官が松明を持ち、薪に火を近づける。
炎の熱が頬に迫り、群衆の叫びが頂点に達する。
「燃やせ!」
「魔女を浄化しろ!」
エリシェヴァは目を閉じ、深く息を吐いた。
胸の奥に、ベルゼブブの優しい微笑みが浮かぶ。
あの夜、村を救った古びた神殿の温もり。
両親を失い、村を救った代わりに魔女となった自分。
最後の瞬間を、その記憶に縋りたかった。
(ベルゼブブ様……あなたは、私を守ると言った……)
群衆の端で、あの少女が再び目に入る。
彼女の瞳は、まるで嵐のように揺れていた。
紅いツバキが夕陽に輝き、拳を握りしめる手が震えている。
(彼女は……何かをしようとしている?)
エリシェヴァの胸に、かすかな希望が灯る。
だが、浄化官の松明が薪に触れ、炎がちらついた。
群衆の怒号が空を裂き、エリシェヴァの心は絶望に沈む。
(もう、遅い……)
彼女は目を閉じ、ベルゼブブの温もりを胸に抱いた。
炎の音が近づく中、彼女はただ、静かに運命を待った。
鐘が鳴り響き、処刑の合図を告げる。
浄化官が松明を薪に近づけ、炎がちらつく。
――その時だった。
群衆が息を呑む中、黒髪の少女はマントを翻し、真紅のドレスを露わにする。
「止まれ。」
静かな呟きと共に、彼女の指が紅いツバキに触れる。
刹那、世界が凍りついた。
群衆の怒号が消え、浄化官の松明が空中で固まる。
エリシェヴァの涙は頬で静止し、風すら止む。
時間の流れが、少女の意志に縛られていた。
彼女は処刑台に駆け上がり、縄を切り、エリシェヴァの細い体を抱き上げる。
「もう大丈夫。ただ、この“権能”は長く持たないから急いで……ここから逃げるよ。」
声は優しく、だが決意に満ちていた。
エリシェヴァの瞳が開き、驚きと安堵が混じる。
「……あなた、この前の……どうして……?」
エリシェヴァの"時"が動き出す。声は震え、涙が新たに溢れた。
少女は微笑み、彼女の手を握った。
「困ってる顔、してましたから。」
時間の止まった世界で、二人は群衆の間を抜け、広場の出口へ向かう。
恐怖も怒号も無音に変わり、静寂が二人を包む。
少女のブーツが石畳を叩き、紅いドレスが闇に映えた。
エリシェヴァの手は冷たく震えていたが、少女の温もりに縋るように握り返す。
路地裏の闇に滑り込むと、少女はそっと指を鳴らす。
時が再び流れ出す。背後から一斉に悲鳴が上がった。
「消えた!?」
「魔女と、あの黒髪の女が……!」
群衆の混乱が広場を包み、浄化官が剣を構え直す。
だが、二人の姿はすでに路地の奥へ消えていた。
石畳を蹴る音、追いすがる浄化官の叫びが遠く響く。
少女はエリシェヴァの手を引き、裏通りを駆け抜けた。
冷たい風が頬を切り、埃と湿気の匂いが鼻を刺す。
エリシェヴァの息は荒く、足がもつれる。
「……どうして、私を……」
絞り出すように問うと、少女は振り返り、いたずらっぽく笑った。
「助けたいと思ったから、かな。
私、ミツキっていうの。これからよろしくね。」
―ミツキ、聞き慣れない響きの名前。
だがその笑顔は無邪気で、瞳の奥には底知れぬ決意が宿っていた。
エリシェヴァの瞳が揺れ、言葉を失う。
先程まで誰も信じてくれなかった自分を、この少女だけが救ってくれた。
ミツキの紅いツバキが、路地の闇で鮮やかに輝く。
(この子……何者なの?)
エリシェヴァの胸に、疑問と信頼が交錯する。
ミツキは彼女の手を強く握り、夜の街を抜けていった。
「もう少しだよ。大丈夫、絶対守るから。」
声は軽やかだが、まるで誓いのように響いた。
路地の奥で、二人は一瞬立ち止まる。
遠く、浄化官の足音と群衆のざわめきが近づく。
一瞬ミツキの瞳に、何かの影がちらついたような気がした。
しかし、彼女はエリシェヴァを振り返り微笑む。
「信じて、エリシェヴァ。」
二人の影はそのまま闇に溶け、夜の街を抜けて消えていった。




