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第十四話 業火の魔王の最後

精神世界という盤上から無慈悲に弾き出され、現実へと引きずり戻されたイブリースの意識は、ただひたすらに燃え盛る灼熱の怒りだけを宿していた。


万能感に満ちた精神の掌握者から、形を持たぬ魂だけの存在への転落。依代とした少女アーリヤからの、魂を切り裂くような拒絶の言葉。そして、あの忌まわしい翁の巫女による精神の核――石板の片割れへの、致命的な一撃。


二重、三重の敗北は、絶対者たる魔王としての彼のプライドを、修復不能なまでにズタズタに引き裂いた。

 

「おのれ……人間共……!」

 

もはや声帯を持たぬ魂の叫びは、ザビール家の館の地下室に、怨嗟の波動となって響き渡る。アーリヤという極上の器を失った彼の魂は、引力に引かれるように、あの忌まわしい小部屋に隠された「玉座」である石板へと強制的に送還されていた。


古びた石の祭壇に鎮座する、禍々しい石板。

その表面には、翁の巫女によって穿たれた大きな亀裂が走り、そこから封じられていた赤黒い瘴気が、まるで傷口から流れる血のようにとめどなく漏れ出していた。

瘴気は周囲の瓦礫をじりじりと熱し、床の石畳を黒く焦がしながら溶かしていく。


力の大部分を失い、魂は極限まで疲弊しきっていた。それでも、ミツキと名乗った巫女、そして彼の計画を悉く打ち砕いた者たちへの憎悪だけが、燃え尽きる寸前の消し炭のように、赤黒い熱を帯びて燻り続けていた。

 

(魔女共……翁の巫女……! そして我を裏切ったアスタロトとベルゼブブ……! この屈辱、この痛み、決して忘れぬ! 必ずや貴様らを業火の底で後悔させてくれるわ!)

 

石板に宿る思念が、地下室の空気をビリビリと震わせる。

怒りに燃える彼だったが、魔王二人とミツキとの戦いで負った傷は、魂の深奥にまで達していた。体力も限界だった。冷静さを欠いては、あの教会の犬共に狩られるだけだ。

 

――今はただ、屈辱を飲み込み、魔界へ帰還し力を取り戻すことだけを考えなければならない。


イブリースは最後の魔力を振り絞る。玉座の前に、空間そのものがぐにゃりと歪み、蜃気楼のように揺らめき始めた。見慣れた故郷、魔界へと繋がるゲートだ。あと少し、あと数瞬でこの何者かに閉ざされた忌まわしい地から逃れられる。

 

その瞬間だった。


 

石板の外の世界から、奔流のごとき純白の光が溢れ出した。それは太陽の如き慈悲の光ではない。あらゆる混沌と不浄を許さぬという、絶対的な意志を宿した冷徹な破邪の光輝。


赤黒い瘴気は光に触れた瞬間に悲鳴を上げて蒸発し、開きかけた魔界へのゲートは、まるで存在しなかったかのように音もなく閉ざされた。

 

「――逃がすと思ったか、“業火の魔王”イブリース」

 

階段の上から、静かで、それでいて万鈞の重みを伴った声が響いた。

そこに立っていたのは、黄金の髪を輝かせ、磨き上げられたサファイアのごとき碧眼を氷のように細めた一人の男。天上神の代行者、教皇アダムス。


彼の背後には、神の威光を映す純白の衣をまとった神官達と、一切の感情を排した鋼のような表情で武装した精鋭の浄化官たちが、完璧な陣形で並んでいた。

アダムス達はザビール家が遺した日記を徹底的に解析し、魔王イブリースの本体がこの場所に封じられているという真実を突き止めていたのだ。


「アダムス……! 嗅ぎつけおったか、天上神の忠実な犬めが」

 

石板から直接響くような思念が、隠しようもない怒りに震える。

 

「その穢れた魂は、この場で私が浄化する。神の秩序に刃向かう愚かな存在に、救済の価値はない」

 

アダムスの手には、神々しい光を放つ黄金の槍『ロンギヌス』が握られていた。神が作りたもうたとされるその聖槍は、それ自体が絶対的な破邪の概念の塊だった。

 

「我の邪魔をするかッ!」

 

イブリースは残された全ての魔力を、怒りと共に解き放つ。

かつてレクス市を焼き尽くした地獄の業火が、巨大な竜巻となってアダムス達に襲いかかった。


だが、アダムスは微動だにしない。ただ静かに槍の穂先を前にかざす。すると彼の眼前に、神聖な天使文字が幾何学模様を描く光の壁――『聖絶の結界』が出現した。

 

「貴様の炎は、所詮は人の欲望を糧とする不浄の火。どれだけ熱くとも、時を越えようとも、天上神の絶対秩序を示す我が神力の前では無力に等しい」

 

アダムスは冷ややかに告げる。彼の言葉通り、憎悪を具現化した業火の竜巻は、光の壁に触れた途端、その勢いを完全に殺され、火の粉となって虚しく霧散した。


炎が効かないと悟ったイブリースは、残る力で古代の契約に従う者たちを喚び出す。

砂塵が集い、灼熱の風をまとった魔物やジンが複数体出現し、幻覚の霧を撒き散らしながら神官たちに襲いかかる。地面からは瓦礫と怨念が結合した砂の魔物が生まれ、異形の爪を振り上げた。


しかし、アダムスの軍勢は魔王直属の配下ですらも歯牙にもかけない。

 

「放て」

 

アダムスの簡潔な命令一下、浄化官たちが構えていた銀の弩から、一斉に矢が放たれる。それらは単なる矢ではない。あらゆる魔術的効果を拒絶し、霧散させる力を付与された『破魔の銀矢』。矢は幻覚の霧を切り裂き、ジンの魔術的な肉体を正確に射抜いて、その存在を構成する魔力ごと霧散させた。


残る砂の魔物には、アダムスの背後に控えていた神官たちが一斉に祈りを捧げる。彼らの信仰心を触媒として放たれた聖なる光の奔流が、魔物たちを塵一つ残さず浄化し尽くした。

完全に追い詰められた。打つ手はない。

その事実を突きつけられたイブリースから、もはや怒りではなく、深い嘲りを込めた思念が漏れ出した。

 

「……クク……哀れな男よ。天上神の創り出した人形でありながら、未だ己を選ばれし世界の救世主と信じ込んでいるか?」

 

「……何を言っている」

 

アダムスの碧眼が、危険な光を帯びて鋭く細められる。

 

「――あの神々はおまえのことなど、数多いる被造物の一つ、穢れた生命の一つとしか思っていない。――元々この世界は、母なる女神と、我ら大地の神々――貴様らが“魔王”や“悪魔”と蔑む者たちが創り上げた、豊穣の庭だったのだ」

 

追い詰められたイブリースの言葉は、アダムスの鉄の信仰を内側から揺さぶるための、最後の毒だった。

 

「ベルゼブブは豊穣をもたらす偉大な神だった。アスタロトは戦いと勝利を司る女神だった。我らとて、かつては“秩序”の外で、気紛れに、だが確かに世界を育んでいた。そこへ、外界から飛来した天上神どもが、自らの秩序を押し付け、我らを悪と断じ、全てを奪ったのだ!」

 

「っ……戯言を……!」

 

アダムスが槍を強く握りしめる。だがイブリースの思念は、彼の動揺を愉しむかのように止まらない。

 

「戯言だと? ならば教えてやろう、アダムス。貴様ら人間とは何かを。――天上神が、我らの美しき世界を偵察し、効率よく支配するために創り出した“傀儡”よ! 自由な意志も持たず、ただ神の道具として生み出された存在! それが貴様らの正体だ!」

 

「黙れ!穢れた魔王め!」

 

神の教え、人間の尊厳、自らの存在意義そのものへの侮辱に、アダムスの表情から初めて冷静さが消えた。激昂が、彼の神力を黄金のオーラとなって立ち昇らせる。


彼は天に槍を掲げ、力を最大限に込めて、イブリースへと投擲した。

黄金の槍は、神の怒りを乗せた流星と化し、大気を切り裂く轟音と共に迫る。イブリースが最後の抵抗として放った業火の火球など、まるで意にも介さず貫き、浄化しながら消えて行く。

 

「ハ……ハハ……!真実から目を背け、主の鎖に繋がれて吠えるか! それでこそ天上神の犬よ! だが覚えておけ……いずれ貴様らも、我らと同じように“不要”とな――」

 

断末魔の思念は、聖槍がイブリースを貫く、天を揺るがすほどの轟音にかき消された。

彼の身体に無数の亀裂が走り、次の瞬間、内側から膨大な光を放って砕け散る。そこに宿っていた禍々しい光とイブリースの魂は、断末魔の叫びごと完全に霧散していった。

 

――静寂が戻った。石板内の空間から出ると、ザビール家の屋敷の地下室へと戻った。

 アダムスは部屋の中央にある台座の上にある砕けかけた石板の残骸へと歩み寄り、浄化官に回収を命じた。

 

「この魔王の残骸は、教会の最も神聖なる場所で保管する。神に仇なす者の末路を、後世への永遠の見せしめとするのだ」

 

彼の表情は勝利の輝きに満ちていたが、その瞳の奥深く、自分自身にしか分からない場所で、先ほどのイブリースの言葉が、消えない棘のように突き刺さっていた。

 

(……傀儡。神の道具だと……? 馬鹿な。我ら人間は神に選ばれた、この世界の統治者だ。断じて、そのような……)

 

その時、浄化官の一人が跪き、戦闘の痕跡から微弱な魔力の残滓を発見したと報告した。

 

「教皇猊下。この残滓、登録データによればレクス市で観測された魔女のものと一致いたします。

 ――やはり、あの魔女共が関わっているみたいです。…」

 

アダムスは静かに頷き、砕かれた石板の欠片を冷たい視線で見下ろしながら、冷酷に呟いた。

 

「魔王の次は、あの穢れた神の巫女か。良いだろう。まとめて浄化し、天上神の絶対の秩序を、この世界に改めて証明してくれる」


静寂が戻ったザビール家の地下室。

空気には未だ聖なる力の残滓が満ち、魔王が存在した痕跡を消し去っていた。浄化官たちが砕かれた石板の欠片を、神聖な布で一つ一つ丁寧に包み、封印の箱へと納めていく。その手際の良い作業を冷徹な目で見守っていたアダムスに、側近である浄化官の隊長がおずおずと進み出た。

 

「教皇猊下。先ほどの魔女の残滓…そして猊下が口にされた『穢れた神の巫女』とは、一体…?」

 

その問いに、アダムスはゆっくりと振り返る。彼の碧眼には、魔王を滅した高揚感ではなく、次なる敵を見据える冷たい光が宿っていた。

 

「ふむ……そうだな、訂正しよう。――“翁の巫女”の事だ」

 

彼の言葉に、幾人かの若い神官の顔に緊張が走る。“翁”の名は、教会の最重要機密リストの頂に記された存在だ。

 

「“翁の巫女”とは、特定の個人を指す名ではない」

 

 と、アダムスは語り始めた。

 

 「あれは、かの天上神でありながら同胞の神々を裏切り殺し尽くした穢れた神――“翁”によって、異世界からこの世界に送り込まれる転生者の総称だ」

 

彼は過去を思い出すように、目を細める。

 

「かつて、魔界戦争の最中にも“翁の巫女”は現れた。第一転生者、アヤメという名の少女がな」

 

アダムス自身の口から語られる魔界戦争時代の秘史に、部下たちは息を呑んだ。


「――アヤメ。あの伝説の白き勇者の事ですか!?」

 

「彼女もまた、強大な力を持っていた。当初は我々と協力し、魔王討伐に貢献したが……最終的には我々に反旗を翻し、暴走した。――“翁”の遣わす者は、常に混沌を呼ぶ。奴らは我々の秩序を乱すために存在する、不確定要素なのだ」

 

隊長が顔を青ざめさせて問い返す。

 

「では、レクス市で観測された魔力の残滓は……」

 

「そうだ」とアダムスは頷いた。


 「第二の“翁の巫女”が現れた証拠だ。魔王イブリースを精神世界で打ち破り、その核である石板を破壊するなど、常人に可能な業ではない。あれは“翁の権能”……奴ら転生者だけが使うことを許された、世界の理を歪める禁忌の力だ」

 

魔王という分かりやすい悪とは違う、神の力を持ちながら神に抗う者たち。その存在は、天上神の唯一絶対性を揺るがしかねない、教会にとって最も許しがたい冒涜だった。

 

「イブリースという大きな災厄は消えた。だが、奴がいたことで、潜んでいた異端者が表に出てきた。これは好機だ」


 

アダムスは、部下たちの顔を一人一人見ながら、厳かに、そして冷酷に宣言した。

 

「全浄化官に通達せよ。これより、教会の最優先討伐対象を“翁の巫女”ミツキとその一派に定める。奴らの痕跡を徹底的に洗い出し、異端の根をこの世から完全に断絶させるのだ」

 

「「「はっ!」」」

 

浄化官たちの統率された返事が、地下室に響き渡る。

 

「魔王を滅ぼし、翁も、その巫女を浄化する。それこそが、天上神の秩序こそが、この世界の唯一絶対の真実であることの証明となろう」

 

アダムスはそう締めくくると、踵を返して階段を上り始めた。

彼の脳裏には、イブリースの最後の言葉が未だ反響していたが、新たな「浄化」という使命が、その不快な雑音を意識の底へと無理やり押し込めていった。

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