プロローグ 教皇の出陣
夕暮れの鐘が鳴り響くと同時に、カルデア・ザフラーンから届いた急報が聖都を揺るがした。
報告を携えた伝令は額に汗を滲ませ、震える声で言葉を繋ぐ。
「――大司教様。カルデア・ザフラーンの街が……炎に呑まれました。魔物の群れが溢れ、既に壊滅寸前とのこと……!」
重厚な謁見の間に、一瞬ざわめきが走る。列席していた神官たちは顔を見合わせ、口々に不安を囁き合った。
「また悪魔共の仕業か……」
「いや、詳しくはわかりませぬ。だが現地の証言では、常軌を逸した炎……人の手ではありえぬ炎だと」
やがて玉座の上、黄金の髪を持つ若き教皇――アダムスが立ち上がる。
その碧眼は烈火のごとく輝き、迷いの欠片すらなかった。
「……"業火"の魔王、イブリースだな」
彼がその名を口にした途端、空気が張りつめる。
神官のひとりが、おずおずと進み出て声を上げた。
「教皇猊下。あの街については……以前から良からぬ噂が絶えませぬ。特に、中央に館を構えていたあの貴族、ザビール家は特に――」
「特に?どんな噂だ?」
アダムスの問いに、神官は息を呑んで答えた。
「奴隷を密かに買い集めていた、と。異国から連れられた者を地下に監禁し、酷使していた……と。しかし、証拠は見つからず、噂止まりで……」
「……なるほど」
アダムスの碧眼が冷ややかに細められる。
「人の欲望が穢れを呼び、やがて魔をも招く。奴隷売買の噂が真であるならば、必ずや禍根があったはず。――いずれにせよ、炎が暴れているのならもはや放置はできん」
その言葉に、場にいた者たちは一斉にひれ伏した。
「猊下、自ら赴かれるおつもりですか!?」
「危険すぎます! どうか聖都にてお指揮を……!」
懇願の声が飛ぶ。しかしアダムスは静かに首を振った。
「天上神の代行者たる私が退くことは許されぬ。災厄が広がる前に討ち滅ぼさねばならん。これは使命だ」
その声音は絶対の確信を帯びており、誰ひとりとして反論できなかった。
しばしの沈黙の後、アダムスは玉座の傍らに立つ天使へと視線を向ける。
白き羽を広げた天使は無言で頷き、黄金の槍を差し出した。
「"業火"の魔王イブリース――」
アダムスは槍を握り、静かに掲げる。
「その邪悪、必ず私が討ち滅ぼす。人の世界に神の秩序を取り戻すためにな」
その言葉に、神官たちは歓声と祈りを重ねた。
「アダムス猊下に神の加護を!」
「天上神の御名のもとに、邪を滅せよ!」
――やがて夜明け前。
白き軍勢が聖都を出立した。教皇直属の浄化官、精鋭の神官兵、そして数体の天使を従えた光の軍団。その先頭に立つのは、黄金の髪を風に靡かせる英雄にして教皇、アダムスであった。
馬蹄の音が大地を震わせる。砂漠の街カルデア・ザフラーンを目指し、祈りと決意を胸に彼らは進軍してゆく。
アダムスはただひとり、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「イブリース……お前の炎がどれほどのものか、この手で確かめてやろう」
碧眼は鋭く、夜明けの闇を切り裂く光を映していた。
その視線の先にあるのは、炎に焼かれ、絶望と狂気に沈む街――カルデア・ザフラーン。
そこで待つものが何であれ、彼は一歩も退くつもりはなかった。