第九話 生命の権能
アスタロトの居城を後にしたミツキ達は、夜の森を抜け、ようやく人間界の土を踏んだ。
風は冷たく、だが戦の魔王との謁見を終えた安堵が胸に広がっていた。
「ふう……緊張したね」
ミツキはドレスの裾を直しながら、額の汗を拭った。
ルークも小さく頷く。
「アスタロト様がミツキを認めたのは……正直驚いたよ。あの御方は誰彼構わず力を渡すような魔王じゃないからな」
エリシェヴァはそっとミツキを見やり、不安そうに眉を寄せた。
「でも、……大丈夫? さっきの“シギル”……何も変わっていないみたいだったけど」
「うん……」
ミツキは胸に手を当て、苦笑する。
「派手な光とか痛みとか、全然なかった。ただ……少し身体が軽くなった気がするくらい」
ルークは腕を組み、静かに言った。
「アスタロト様が無意味なものを渡すはずがない。生命の権能……いずれその真価が分かるだろう」
三人は互いに顔を見合わせ、歩みを進めた。
やがて夜が更け、廃屋に身を寄せた時だった。
――その夢は、再び訪れた。
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虚空に浮かぶ黒樹の根元で、赤々とした彼岸花が風もなく揺れていた。世界に張り詰めた冷気が走り、ミツキは自分の夢が翁に染め上げられたことを悟った。
その根元に、青年の姿があった。
長い黒髪が揺れ、黄金の瞳が冷たくも深い光を宿す。
翁――私をこの世界に転生させた存在だ。
「……アスタロトのシギルを手に入れる事に成功したようだな、ミツキ。」
「やっぱり来たね。もう驚かないけどさ、毎度ちょっと心臓に悪いんだから」
ミツキは軽口を叩きながらも、真剣な眼差しを向けた。
翁は口元をわずかに緩め、しかしすぐに厳しい声音に戻した。
「うん。でも……正直、何も起きなかったんだ。力が増した感じもしないし……」
翁の黄金の瞳が細められ、静かに告げる。
「それで良い。お前が授かったのは“生命の権能”。
常に発動し、お前の命を高め、病や毒を拒み、老いや死すら遠ざける力だ。派手な力ではないが──それこそが不死の礎だ。」
ミツキは息を呑み、胸に手を当てる。
(……だから何も起きなかったんだ。もう動いてるから……)
翁はさらに続けた。
「だが覚えておけ。この権能はお前ひとりに留まらぬ。仲間に分け与えることもできるのだ。……ただし、その時だけは代償を払う。己の精神を削ることになるだろう」
「仲間にも……!」
ミツキの瞳が揺れた。エリシェヴァやルークの顔が脳裏に浮かぶ。
翁の声は重く、だがどこか優しさを含んでいた。
「使いどころを誤るな、ミツキ。守る者が増えるほど、お前自身を蝕む刃にもなる」
ミツキは拳を握り、俯いた。
「……わかった。絶対に無駄にはしない」
翁は静かに頷き、話題を変えるようにその瞳をさらに光らせた。
「次に向かうは──砂漠の都、カルデア・ザフラーン。そこに"業火"の魔王イブリースが潜んでいる」
ミツキの瞳が揺れる。
カルデア・ザフラーン。サンクタ・エヴァの魔女達が話していた街の名前だ。
「分かった。今迄みたいにネファスの魔女を見つけて、そのイブリースって魔王に謁見して──」
「甘い」
翁の声が鋭く遮った。
「イブリースは悪意そのものだ。彼奴は理を語らぬ。人を見下し、魂を喰らい、炎に呑ませて悦ぶ存在だ。交渉は通じぬ。対話を試みれば、命を落とすだけだろう」
その言葉に、ミツキは思わず息を呑んだ。
「……つまり、戦うしかないってこと?」
翁はゆっくりと頷く。
「そうだ。お前の使命は"イブリースの暴走を止め、シギルを奪うこと”。 だが忘れるな──これまでとは違い、命を賭ける覚悟が要る。戦の準備を怠るな。その"生命の権能"を存分に役立てるといい。」
ミツキは拳を握り、俯いた。
胸の奥に不安と恐怖が渦巻く。けれど同時に、熱く燃えるものがあった。
「……わかった。やってみせるよ」
翁は黄金の瞳を静かに光らせ、言葉を落とす。
「その覚悟を忘れるな。……世界の行く末は、お前の手に委ねられている」
翁の言葉が途切れると同時に、闇の大地が揺らぎ、夢の世界は崩れ去っていった。
――
ミツキは荒い息を吐きながら目を覚ました。
冷たい夜気が頬を撫でる。焚き火の赤い火がぱちりと弾け、小さな火の粉が舞った。
「……夢、か」
呟きながら手を伸ばすと、乾いた薪の角で指先を掠めた。
一瞬、かすかな痛みと赤い筋が走る。
だが――その血は一滴すら零れることなく、瞬きの間に塞がっていた。
まるで最初から傷などなかったかのように。
ミツキは指先をじっと見つめ、小さく息を呑んだ。
(……これが、“生命の権能”)
胸の奥で熱いものが広がる。
恐怖もある。けれど、それ以上に――世界の運命を託された責任が。
焚き火の炎が彼女の瞳に揺らめきを映した。
(――必ず勝つ。あの“業火の魔王”に)
夜明け前の闇は、ただ静かに彼女を包み込んでいた。