第八話 謁見 魔王アスタロト
森の木陰で一息ついたときだった。
ミツキは赤いドレスの裾を整えながら、ルークの横顔をじっと見つめる。
「ねえ、ルーク……ひとつお願いがあるんだけど」
「……なんだい?」
隻眼の瞳が僅かに揺れる。
ミツキは真剣な声で続けた。
「あなたの契約者……アスタロトに会わせてほしい。
私には託された使命があるの。そのためには、魔王のシギルが必要なんだ」
ルークの眉がわずかにひそめられた。
「……軽々しく会える存在じゃない。アスタロト様は“戦の魔王”だ。気まぐれで命を刈り取るような御方じゃないけど……だからこそ、軽んじる者は許さない」
「わかってる」
ミツキはすぐに答える。
「それでも、会わなきゃいけない。私は……教皇アダムスを倒して、世界を変えるって決めたから」
その瞳は真っ直ぐだった。
ルークはしばらく黙って彼女を見つめ、深く息を吐いた。
「……君の覚悟は本物だな。……わかったよ。案内する」
――“戦争”の魔王アスタロト様……どうか我を導き給え――
「……ここが、アスタロト様の居城……」
エリシェヴァの声は震え、思わず身を寄せた。
赤いドレスを翻したミツキもまた、緊張を隠せないでいた。
「雰囲気からして、めちゃくちゃ物騒な人っぽいね……」
その言葉にルークは苦笑したが、表情はすぐに引き締まる。
──玉座に、彼女は座していた。
石造りの広間に冷たい風が吹き抜ける。壁には戦旗が揺れ、剣、槍、戦斧が突き刺さる。魔法陣に浮かぶ武器――片手剣、双剣、戦輪、弓――が青白い光を放ち、戦場の残響が空気を震わせる。中央の黒い玉座に、戦争の魔王アスタロトが君臨する。長い黒髪に金色の角、ルークの右目と同じ紫色の目が輝き、白い軍装の軽鎧が戦女神の威厳を放つ。彼女の存在は、まるで戦場そのものだった。
扉が軋む音を立てて開き、ルークが一歩踏み出す。
隻眼の瞳は揺らがず、その後ろにエリシェヴァとミツキが続いた。
「……ルーク。よく戻ったな」
低く響く声が、広間の空気を揺らす。
ルークはひざまずき、敬意を込めて頭を垂れた。
「アスタロト様。……ただいま戻りました」
その瞳がふと横に向く。ミツキの姿を見止めると、戦の魔王の眉がわずかに動いた。
「ほう……お前が仲間を連れてくるとは珍しいな。こいつらは何者だ?ルーク。」
その声音には、驚きと僅かな警戒が混じっていた。
だがミツキは怯まず、真紅のドレスの裾を揺らして一歩前に出る。
アスタロトが目を細め、ミツキを値踏みする。
「初めまして! 私はミツキと言います! 翁に、天上神と教皇アダムスを倒して魔女達や世界を救う為にシギルを集めてるの。アスタロト様、あなたのシギルをください!」
「成る程、"翁の巫女"か。戦場で命を賭ける覚悟はあるのか? この権能は、軽い心で扱えるものじゃないぞ。」
彼女の声に試すような響きがある。ミツキは迷わず答える。
「あります! 偽善や復讐でできた世界なんて嫌なの。翁の使命、絶対果たします!」
彼女の瞳に炎が宿る。
やがて、戦の魔王は短く笑った。
「…いい目だ。ルーク、こいつは気に入ったよ。」
彼女は片手をかざし、空に魔法陣が展開する。
青白い光が収束し、ひとつの紋章──シギルが形を成した。
それはまるで血と鉄で描かれたような、戦そのものの象徴。
「翁の巫女よ。これを受け取れ」
光は矢のように飛び、ミツキの胸に刻み込まれる。
灼けつく痛みに彼女は思わず膝をつき、息を荒げた。
脳裏に声が響く。
《これで三つ目だ……“生命の権能”。
命を操り、生命の理を司る我が力だ。》
声が消えると、ミツキは胸に手を当てた。
(……え? これで終わり? これまでの権能は激痛や圧迫感があったのに……今回は驚くほど静か。まるで身体に溶け込むように、自然に馴染んでしまった……。)
ミツキは権能の負荷に身構えていたが、何も起こらなかった。
炎が吹き上がるわけでもなく、視界が揺らぐこともない。痛みも疲労もなく、ただ……少し身体が軽くなった様な気がするだけだった。
「……なんだろう、何も起きてないように見えるんだけど」
ミツキが小声で呟く。
エリシェヴァが不安そうに覗き込む。
「ミツキ、大丈夫? 体に異変は……」
「うん、大丈夫。むしろ、普通すぎて不思議なくらい」
アスタロトは玉座に身を預けたまま、ふっと鼻で笑った。
「力とは必ずしも派手に顕れるものではない。……いずれ分かるだろう」
ルークは安堵の息をつき、ミツキを支えるように立った。
「……ありがとうございます、アスタロト様」
ミツキは改めて頭を下げる。
戦の魔王は鋭い視線を逸らさず、しかし静かに頷いた。
「良いだろう。だが忘れるな。力を持つということは、戦場に立つということだ」
その言葉に、三人は無言で頷いた。
やがて広間を去ろうとする背に、アスタロトの声が低く響いた。
「しかし……“悪魔も天使も打倒する無敵の聖女”か。……いや、まさかな」
誰に聞かせるでもなく、戦の魔王は独りごちた。
その声音には、確かな興味と、僅かな畏れが混じっていた。