第七話 ネファスの魔女アマンガラ
極彩色の庭園の奥から、しゃらり、と金属の擦れ合うような、それでいて澄んだ音が響いた。
それまでざわついていた巫女たちが一斉に左右へ分かれ、深く頭を下げる。
「アマンガラ様……!」
その中央を、静かに歩いてきたのは一人の少女だった。
透き通るような白髪を低い位置で二つに結び、深い赤色の瞳がミツキたちをまっすぐに見据えている。
見た目は10代半ばほど、ミツキよりも幼く見える。だが、彼女がまとう豪奢な装飾の施された衣と、その周囲を意思を持つかのように不規則に浮遊し、キラキラと輝く無数の宝石たちが、ただならぬ存在感を放っていた。
「ずいぶんと騒がしいと思ったら、外からのお客様ですか。……門番たちをあそこまで慌てさせるなんて、どんな不届き者かと思いましたよ」
鈴を転がすような、けれどどこか冷徹で気の強さを感じさせる敬語。それが彼女、巫女たちの長であるアマンガラだった。
ミツキは思わず一歩前に出た。
「あの、本当に急に囲まれてびっくりして……。私たちは戦うつもりなんて全然ありません。この国の王様……バリ様に、どうしても会いたくてここまで来たんです」
「僕たちに敵意はない。武装も完全に解除している。信じてほしい」
ルークもミツキの横に並び、両手を広げて見せた。
アマンガラは赤い瞳を細め、ミツキたちを値踏みするようにじっと見つめていたが、不意にセレスティアの背後に視線を止めた。
「……ちょっと、そこの貴女。その背中に背負っている子を見せなさい」
「っ……」
セレスティアは一瞬身体を硬くしたが、アマンガラの視線に押されるように、背負った少女の顔が見えるよう少し横を向いた。
「この子は……」
エリシェヴァが、少女を庇うように静かに言葉を添える。
「地上で狂信者たちに酷い暴行を受けていたところを、私たちが救出しました。傷の手当ては済みましたが、まだ体力を酷く消耗しているのです」
「……ふむ……天女、ですか」
アマンガラは小さく息を吐き、呆れたように肩をすくめた。
「はぁ、見ず知らずの他人のために、ずいぶんと無茶な真似をしますね。……まあ、いいでしょう。これで貴方たちが地上の連中の回し者ではないことだけは証明されました。あの大地にいるような手合いなら、天女をわざわざ保護するなんて奇特な真似、絶対にしませんからね」
「あ、信じてくれるんだ……」
ミツキがほっと胸をなでおろしたのも束の間、アマンガラの鋭い視線が再びミツキへと戻ってきた。今度は、射抜くような強さで。
「それよりも……貴方です」
「え? 私……?」
「その魂の奥底に眠る、絶対的で底知れない気配……貴方、『翁』の力を借りていますね? 翁の巫女でしょう」
「ええっ!? なんで分かるの!?」
ミツキは思わず自分の胸に手を当てて飛び退いた。翁から力を借りて『権能』を使えることを初対面の、それも自分より幼く見える少女に一瞬で見抜かれるなんて思ってもみなかった。
「ふん、この私を誰だと思っているのですか」
アマンガラは不敵に微笑み、浮遊する宝石たちをちりちりと鳴らした。
「よろしい。翁の巫女直々の訪問となれば、話は別です。バリ様への謁見を許可しましょう。案内させます」
「え、あ、ありがとうございます……!」
ミツキは慌てて頭を下げたが、内心では凄まじい衝撃と困惑で頭がいっぱいになっていた。
(ええっ、そんなあっさり!? 翁の巫女ってだけで通っちゃうの!?)
驚きつつも、ミツキの視線はアマンガラの周囲を回る宝石、外見、そして彼女自身の存在へと吸い寄せられていった。
見た目は確かに子供だ。だけど、この人とてつもない。さっき「我が主であるバリ様」って言っていた。バリはこの国を統べる魔王。その魔王と直接契約を結んで、空間を歪ませるほどの破格の魔力を平然と扱っているこの存在。
(……待って。このアマンガラさんって。ルークやエリシェヴァと同じだ。魔王の力を宿した、強力な魔女――『ネファスの魔女』だ……!)
その圧倒的な正体に気づいた瞬間、ミツキの背中にツッと冷や汗が流れた。地底の国の巫女たちの長は魔王バリと契約したネファスの魔女だったのだ。
アマンガラの後に続いて宮殿の奥へと進むと、それまでの閉ざされた空間から一転して、片側の壁一面が精緻なガラス窓で彩られた、開放的な大廊下へと出た。
窓の向こうには、先ほど通ってきた極彩色の庭園が、まるで絵画のように美しく見下ろせる。
さらにその先には、自分たちが地上から決死の覚悟で飛び降りた巨大な渓谷の底であるはずなのに、迫り来るような息苦しい岩肌や壁はどこにも見当たらず、まるでもう一つの世界が丸ごと収まっているかのような、どこまでも広大で穏やかな空と大地が広がっていた。その見渡す限りの美しい地底世界こそが、いま自分たちが足を踏み入れている平和な楽園、『クル国』の全景だった。
その壮大な景色を窓越しに眺めながら、ミツキは歩調を緩めることなく、前を歩く小さな背中に素朴な疑問を投げかけた。
「あの、アマンガラさん。これから会いに行くバリさんって、一体どんな人なんですか? この国の人たち、みんなすごく楽しそうに暮らしてるし、さっきの巫女さんたちも本当にバリさんを慕ってるみたいだけど……」
アマンガラは、歩みを止めることなく、周囲に浮遊する宝石たちをちりちりと鳴らしながら振り返った。
「バリ様は、このクル国の偉大な建国者であり、私たちを導いてくださる唯一無二の統治者ですよ。……貴方たちが上から落ちてきたあの『イリガルの谷』の底に、この国が拓かれたのは今から五百年前のこと。それまでは、ここには何もありませんでした」
「五百年前……。それじゃあ、バリ様がこの地底に国を作ったということですか?」
セレスティアが背中の少女をそっと直しながら尋ねると、アマンガラは「その通りです」と、気の強そうな赤い瞳を僅かに細めた。
「バリ様はかつて、地上を統べる天上神たちによって人間界から追放され、ルシファーたちと共に『魔界の底』と呼ばれる最果ての奈落へ封印されていました。ですが五百年前、魔界・人間界全体を揺るがす魔界戦争が起きた際、かの逸脱点βによって地表に巨大な裂け目――あのイリガルの谷が出来たのです。バリ様はその混乱に乗じて封印を破り、この地底へと逃れ、今日までの平穏な国を築き上げました」
アマンガラにとっては、それは自慢の主を讃えるための、輝かしい歴史の語り口だった。
「逸脱点β………。」
ラーヴァナが話していたアダムスに続く第二の超人、それについて何か聞こうとミツキが口を開こうとした時だった。
その言葉に含まれていた「ある単語」を耳にした瞬間、後ろを歩いていたエリシェヴァとルークの足が、まるで見えない鎖に縛られたかのようにピタリと止まるとミツキの言葉を遮るように話しだした。
「――っ!? い、今、なんて言ったの……?」
エリシェヴァが、普段の穏やかさからは想像もつかないほどに顔を蒼白にさせ、声を震わせる。
「『魔界の底』……? ルシファーと共に、封印されていただと……!?」
ルークもまた、額に嫌な汗を浮かべ、信じられないものを見るような目でアマンガラの背中を見つめていた。二人の尋常ではない取り乱し方に、世界の歴史に疎いミツキ、奴隷育ちのライラ、そして狭い村で育ったセレスティアは、お互いに顔を見合わせて首を傾げた。
「え? エリシェヴァ、ルーク? 二人とも急にどうしたの? その『魔界の底』って、そんなにまずい場所なの?」
ミツキが不思議そうに尋ねると、ライラも不安げにルークの服の袖を引いた。
『……我が主は、貴女を見ておられますよ』
——魔王ルシファー、カラートシャムスにて使い魔メフィス・トフェレスが話していた魔王の名前だ。
「ルシファーって……私でも知ってます。魔界の全てを統べるという強大な魔王の事ですよね……?」
「私には、あまり聞き馴染みのない場所ですが……お二人の様子を見る限り、ただの流刑地というわけではなさそうですね」
セレスティアが心配そうに視線を送ると、ルークはこめかみを指先で押さえ、呼吸を整えるように深く息を吐き出してから、ミツキたちに向き直った。
「ただの流刑地どころじゃない……。ミツキ、君たちは知らないのも無理はないが、僕たちのいた外の世界の歴史において、その名は本物のタブーなんだ。『魔界の底』というのはね……数多存在する魔王の中でも、かつて天上神たちに対して甚大な被害を与え、世界そのものを完全に滅ぼしかけた、ケタ違いに凶悪な怪物たちだけが押し込められる、最悪の奈落のことなんだよ」
「え……」
「ええ、ルークの言う通りよ」
エリシェヴァが、自身の胸元をきつく握りしめながら言葉を継いだ。
「ベルゼブブ様も言っていたわ。そこに封印されているのは、神々への反逆者の中でも、特に冷酷で、圧倒的な破壊の力を持った存在ばかり……。まさか、この穏やかで優しいクル国を統べる王が、そんな恐ろしい場所にいた魔王だったなんて……」
二人の切迫した説明を聞くうちに、ミツキの脳裏に、かつて自分たちを導いてくれた文明の魔王――ラーヴァナの言葉が、鮮烈に蘇ってきた。
『最後に、その『クル国』とやらに無事に辿り着いたらの話だが……テメェらの武器を全て捨てて、武装を解除しろ。国民に攻撃しようものなら、交渉の余地なくあの魔王にハチの巣にされるぜ』
(……だからだ。あのラーヴァナが、わざわざあんな指示を残したのは……!)
ミツキの背筋を、冷たい戦慄が駆け抜けていく。
あの圧倒的な力を持つラーヴァナが、恐怖ではなく、警戒を込めて「絶対に刺激するな」と警告した理由。それは、この先に待つ者が、かつて世界を血で染め上げ、終焉させようとしていた、一体どれほど恐ろしく残酷な魔王なのかを分かっていたからに違いない。
(それじゃあ、私たちがこれから会いに行こうとしてるのは、その『最悪の奈落』から脱獄してきた、世界を滅ぼしかけた大魔王ってこと!? そんなヤバい相手のところに、武器を全部しまって完全な丸腰で突撃するの!? ラーヴァナの言う通りにしたけど、これ本当に正解だったの……!?)
胸の鼓動が早鐘のように打ち鳴らされ、ミツキは内心で冷や汗をだらだらと流していた。何時もの椿の髪飾りと赤いドレスが、今は心許ない薄紙一枚の防護壁にしか思えない。
「ミツキさん……? 顔色がすごく悪いです。ガタガタ震えてますけど、大丈夫ですか……?」
隣を歩いていたライラが、ミツキのただならぬ異変に気づいて、大きな目をさらに見開いた。その声に、ルークやエリシェヴァも心配そうに視線を向けてくる。
「えっ!? あ、あははは! だ、大丈夫、大丈夫だよライラ! ちょっと、さっきのお風呂が気持ちよすぎちゃって、湯あたりしたみたい。ほら、足元がちょっとフワフワしてるだけで、私は全然平気だから!」
ミツキは引きつった笑みを浮かべながら、ブンブンと両手を振って虚勢を張った。だが、その声は明らかに上ずっているし、冷や汗は止まっていない。
「ミツキさん……。あまり無理をしないでくださいね。もし、その……中に入って恐ろしいことが起きるのなら、私がこの無敵の力で……」
セレスティアが背中の少女をそっと守りながら、気遣わしげに覗き込んできた。彼女の銅色の瞳には、かつて地上で味わった恐怖の記憶と、それでも仲間を思いやる静かな覚悟が混ざり合っている。
ミツキは、その頼りなげで、けれど優しい仲間の視線を受け、必死に自分の奥底のパニックをねじ伏せた。ここで自分が怯えきってしまったら、みんなをさらに不安にさせてしまう。
「……ううん。本当に大丈夫だよ、セレスティアさん。もし、万が一のことがあっても……私には、翁の権能があるから。時間を止めることだってできるんだし、いざとなったら私がみんなの盾になる。だから何かあったら、みんなは私を置いて真っ先に逃げてね」
「それは……! ミツキさんを置いて逃げるなんて、そんなこと――」
セレスティアが悲しげに眉をひそめ、拒むように言葉を紡ぎかけた、その時だった。
「何をそこで立ち止まって、コソコソと内緒話をしているのですか」
廊下の先で、アマンガラがぴたりと足を止め、冷ややかな視線を振り返ってきた。彼女の周囲を浮かぶ宝石たちが、主の不機嫌さを映すようにちりちりと硬い音を立てて鳴る。
「バリ様を待たせるなど、本来なら万死に値する無礼ですよ。これ以上もたつくなら、謁見の許可を取り消して、そのままつまみ出しますからね。さっさと歩きなさい」
「あ、は、はい! すみません、すぐ行きます!」
アマンガラの気の強い叱咤に、ミツキは条件反射のように背筋を伸ばして返事をした。
ルークやエリシェヴァも「おっと……」「ええ、行きましょう」と、どこかその勢いに圧倒されたように苦笑いを浮かべ、強張っていた足を再び動かし始める。
重苦しくなりかけていた空気がアマンガラの言葉で少しだけ和らぎ、ミツキたちは互いに顔を見合わせて小さく息を吐くと、急かされるようにして再び大廊下を進み始めた。
歓迎してくれた街の住民たちの優しさ、そして目の前を歩くアマンガラの小さな背中。そのすべてが、これから対面する「強大で残酷なの魔王」の底知れなさを引き立てているようで、ミツキたちは得体の知れない威圧感に、ただ静かに身震いするしかなかった。




