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第二話 狂気の街

鬱蒼と生い茂る茂みを抜け、太い樹木の陰から息を潜めて視線を送った先――そこに広がっていた光景に、ミツキは思わず息を呑んだ。

 

そこは森が開けた、獣道のようなわずかな空間だった。純白の法衣に身を包んだ屈強な神官兵三人が、地面にうずくまる小柄な影を取り囲み、容赦のない蹴りを浴びせている。

周囲には、美しい装飾が施された陶器の破片と、色鮮やかな果実が泥にまみれて散乱していた。どうやら、供物の運搬中にそれを落としてしまったというだけの理由で、苛烈な制裁を加えているらしかった。

 

だが、ミツキの背筋を凍らせたのは、暴力の凄惨さ以上に、被害者の異様さだった。

 

暴行を受けているのは、豪奢で透き通るような薄衣を纏った、天女のように美しい少女だった。

しかし、彼女は執拗に蹴りつけられ、白磁のような肌を泥と血で汚しているというのに、悲鳴一つ上げない。痛みに顔を歪めることも、許しを乞うことすらせず、ただ人形のように虚ろな瞳で、地面に転がる果実をじっと見つめているだけだった。

まるで、痛みを感じる機能も、自分という存在の『意志』すらも、どこかへすっぽりと抜け落ちてしまっているかのような、不気味なほどの無反応。

 

「……っ、あれは……!」

 

ミツキが声を上げそうになるのを、ルークが素早く手を出して制した。彼の鋭い瞳は既に敵の数を数え、戦術的な計算を終えている。

 

「神官兵が三人。武装は護身用の短杖のみだが……あの少女の様子は明らかにおかしい。痛覚が麻痺しているのか、何らかの強力な精神支配を受けている可能性がある」

 

ルークの冷静な分析に続き、ライラが周囲の気配を探りながら、ぎゅっとミツキの服の裾を握って小声で囁いた。

 

「周りに隠れてる悪い人はいないみたいです。でも……この重たい空気の場所で大きな音を出したら、すぐにお仲間がいっぱい来ちゃいます。早く離れないとダメです……」

 

「私が治癒と防壁の術式を練っておくわ。いつでも撤退できるように、位置取りには気をつけて」

 

エリシェヴァも冷静に後方支援の態勢を整え、両手に魔力を集束させ始めた。

 

仲間の迅速な判断に、ミツキは小さく頷く。

翁たちが「決して近づくな」と警告した街の領域。ここで真っ向から戦闘を起こせば、取り返しのつかない事態に陥るかもしれない。だが、見捨てるという選択肢は最初から彼女の中にはない。

ミツキは奥歯を強く噛み締め、湧き上がる怒りを極めて冷たい闘志へと変換し、小声で明確な作戦を告げた。

 

「……私が行く。私の『時止めの権能』を使ってあの子を連れ出し、すぐにこの森の奥へ引き返すよ。戦闘は避ける」

 

「時を止めての強行離脱か。わかった、僕が境界の茂みでカバーに入る。発動のタイムラグには気をつけてくれ」

 

「時間を動かした瞬間に目眩ましの魔法を展開するわ。すぐに走ってちょうだい」


「……私も手伝います。ミツキさんが助け出したら、すぐに私がその子を受け止めて保護します。」

 

セレスティアが震える手をきつく握りしめ、かつての自分を重ねるように痛切な、けれど確かな意志の宿る瞳でミツキを見つめた。

 ルークとエリシェヴァが即座に役割を分担する。ミツキは僅かに顎を引いて合図を送ると、静かに息を吸い込み、魂の奥底にある権能を引き出した。

 

「――『停止』」

 

その一言と共に、世界から一切の色彩と音が消え失せた。

灰色の空間の中、振り下ろされようとしていた神官兵の足も、空中に舞う泥の飛沫も、完全に凍りついている。

ミツキは静止した世界を一直線に駆け抜け、神官兵の隙間を縫って少女の細い腕を力強く掴み、引き寄せた。驚くほど軽く、そして生き物らしい温もりや抵抗がまるで感じられない、本当に人形のような感触だった。

 

(うっ……重っ……! 自分以外の人間を抱えて動くのって、こんなに……っ!)

 

凍りついた時間の中で他者の質量を動かす強烈な負荷に、肺が軋む。だがミツキは奥歯を噛み締め、少女を抱えたまま元の茂みの奥深く――神官兵たちの視界から完全に外れた木陰まで一気に跳躍した。

 

「大丈夫ですか……!? もう安心ですよ」

 

ルークが素早く受け止めた少女の身体を、すかさずセレスティアが優しく抱き留める。彼女が泥にまみれた少女を労るように声をかけるのを確認し、ミツキは権能を解除した。

 

――時間が、再び動き出す。

 

「がはっ……!? な、何だ!?」

 

神官兵の足は空を切り、勢い余って泥の中に無様に転がった。

そこにあるはずの少女の姿が忽然と消え失せたことに、残る二人の神官兵も激しく動揺する。

 

「消えた!? 馬鹿な、どこへ行った!」

 

「はぁっ、はぁっ……!」

 

その時だった。息を殺す間もなく、負荷に耐えきれなかったミツキの荒い呼吸音と、少女を受け止めた際に踏みしめた腐葉土の微かな音が、不自然なほど静まり返った森に響いてしまった。

 

「あっちだ! 茂みの中……だっ!」

 

常軌を逸した聴覚と執念で、神官兵たちの狂信的な鋭い眼光が、森の奥に身を潜めていたミツキたちを正確に捉えた。

未知の術式に対する警戒か、それとも供物を奪われたことへの怒りか。だが、彼らの顔に浮かんだのはそのどちらでもなかった。

 

「お、女……? 人間の女だと!?」

 

彼らは、少女を背に庇って立ち塞がるミツキやセレスティア、その後方にいるエリシェヴァ、ライラたちの姿を見た瞬間、まるでこの世の終わりでも見たかのように激しく狼狽し、顔を青ざめさせたのだ。

 

「なぜ……なぜこの清浄なる地に、不浄な女がいる!?」

 

「穢れだ……! 魔女の因子を持つ穢れた肉塊どもが、どうやって聖なる結界を越えてきた!!」

 

ライラがミツキの背後に隠れるように身を縮め、震える声で呟いた。

 

「うぅ……ひどい……っ。あの人たちの目、私達を、まるで汚いゴミかばい菌みたいに見てます……っ」

 

「この子を暴行した上に、穢れだ肉塊だなんて……。あなたたちの方こそ、狂っています!」

 

セレスティアは腕の中の少女を強く抱きしめながら、その理不尽な怒号に毅然と顔を上げて言い放った。かつて理不尽に虐げられていた彼女だからこそ、その声には確かな怒りと強い意志が込められていた。

 

それは単なる怒りや敵意ではない。汚物や疫病、あるいはこの世の絶対悪に対する、狂気的なまでの嫌悪と排斥の眼差しだった。

 異常なまでの純度で煮詰まったの住人の反応。

神官兵たちは恐慌状態に陥りながらも、その悍ましい嫌悪感から殺意を剥き出しにし、狂ったように短杖を振り上げてミツキたちの方へと向かってきた。

 

「穢らわしいっ……魔女の因子を持つ穢れた肉塊どもが、どうやって聖なる結界を越えてきた!!」

 

狂乱する神官兵の一人が、泥にまみれた少女を庇うように立つセレスティアの顔を直視した瞬間――その目に浮かんでいた嫌悪の色が、決定的な『恐怖』と『絶望』へと染め上げられた。

 

「そ、その顔……! その瞳……!貴様、まさか……っ!」

 

屈強なはずの神官兵は幽鬼でも見たかのように後ずさり、ガタガタと全身を震わせた。彼の脳裏に焼き付いている絶対的な恐怖の象徴。ラーヴァナの腕から作られた肉体を持つセレスティアの容姿は、彼らが忌み嫌い恐れる存在――『ラーヴァナ』にそっくりだからだ。

 

「魔女だッ!! 魔王ラーヴァナの瞳だ!! なぜあの大罪人がここにいる!!」

 

「皆殺しにしろ! 穢れを、災厄をこの聖地から完全に消し去るのだ!!」

 

狂気は瞬く間に伝播し、神官兵のひとりが首元から禍々しい骨の呼笛を引きちぎるように取り出し、思い切り息を吹き込んだ。

 

ピィィィィィィィッ――!!

 

鼓膜を突き破るような甲高く不快な音色が、静寂に包まれた森の奥深くへと、異常な速さで木霊していく。増援を呼ぶ合図であることは誰の目にも明らかだった。

 

「……最悪の展開だな。セレスティア、僕の後ろへ下がれ!」

 

ルークが親友であるセレスティアを真っ先に庇うように素早く前へ踏み出し、剣の柄に手をかける。だが、この異常な空間で、狂気に飲まれた多勢を相手に戦闘を長引かせるのはあまりにも危険すぎた。

 

「ルーク、待って! 戦わないで逃げるよ!」

 

ミツキは鋭い声で制止すると、もう一度自らの魂の奥底へ意識を沈めた。

 

「私がもう一度、時を止める! その間に全員で森の奥へ走って!」

 

「なら、その前にこの子を! このままじゃ走れないわ!」

 

エリシェヴァが叫ぶと同時、セレスティアの腕の中にいる天女のような少女へと両手をかざした。淡く温かい緑色の光が魔力となって少女の細い脚を包み込む。容赦のない蹴りによって青黒く腫れ上がっていた白磁の肌が、瞬く間に本来の滑らかさを取り戻していく。

 

「立てますか? 私たちと一緒に走って!」

 

セレスティアが両手でしっかりと支えながら励ますように声をかけると、痛覚も意志も失っていたはずの少女の瞳に、微かな光が灯る。彼女は小さく頷き、自らの足でしっかりと土を踏みしめた。

 

「行くよ――『停止』!」

 

ミツキの宣言と共に、世界は再び一切の色彩と音を失い、灰色の静寂へと沈み込んだ。

宙を舞う土埃も、神官兵の振り上げた短杖も、すべてが完全に凍りつく。

 

「走って……っ!」

 

ミツキは先頭を切って駆け出した。ルークが殿を務めて背後を警戒し、エリシェヴァとライラ、そしてセレスティアが少女の手を強く引きながら、静止した灰色の森を疾走する。

凍りついた時間の中で他者を干渉させ、共に移動するには、泥の中を進むような特有の重さと魔力的な抵抗が伴う。だが、ミツキの足取りが鈍ることはない。

彼女は静止した灰色の景色を真っ直ぐに見据え、冷静に息を整えながら、神官兵たちの視界から完全に外れる森の奥深くへと迷うことなく仲間たちを導いていく。

 

「……ここまでくれば!」

 

十分に距離を取ったことを確認し、ミツキが自らの意思で権能を解除した瞬間、世界に色彩と音が勢いよく戻ってきた。

 

――ピィィィィィッ!!

 

先ほど吹き鳴らされた呼笛の残響が、森の木々に反響して消えていく。今度こそ完全に振り切ったはずだった。しかし、彼らが息を潜めようとした先で待っていたのは、安堵できる空間ではなかった。

 

ガサガサッ!! バキィッ!!

 

後方の鬱蒼とした茂みが、不自然に揺れだす。

 

「……まずい!追ってきてる!止まるな!走れ!」

 

ルークの声と共にミツキ達全員が走り出す、木々の陰から、茂みの奥から、純白の法衣を血走った目で濡らした無数の神官兵たちが湧き出すように姿を現し追いかけて来る。

 

「見つけたぞ、不浄なる者ども!!」

 

「魔女を殺せ! 穢れた肉を切り刻んで火にくべろぉぉッ!!」

 

呼笛の音を聞きつけ、周囲一帯から即座に集結してきた神官兵の群れ。その数は優に数十を超えていた。狂信と憎悪に満ちた絶叫が森中に木魂し、殺意を剥き出しにした狂人の波が、ミツキたちを追って雪崩れ込んでくるのだった。

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