第一話 火刑台
始めまして。なないろすらいむです。
小説家になろうへの投稿は今作が始めてとなります。
色々慣れない所もあるかもしれませんが、よろしくお願いします。
──鐘が鳴っていた。
それは祈りを告げる鐘ではなく、死を告げる鐘だった。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
縄に縛られた手を見下ろしながら、エリシェヴァは胸の奥で問いかけた。
ほんの数日前までは、誰かを助けたい一心で、小さな診療所に身を置いていたはずなのに。
病に伏す人を救おうとしただけ。
飢えに泣く子どもを見捨てられなかっただけ。
それがどうして──今、自分は火刑台の上に立たされているのか。
彼女の脳裏に、あの日の街の光景が甦る。
祈りの声に包まれた、聖レクス市での日々が。
──数日前。
鐘が鳴る。
正午を告げる澄んだ音が、石畳の街に落ちていった。
聖レクス市。
広場の中央には、教皇アダムスの巨大な石像が立ち、祈りの声が絶えない。
石像を見上げながら老人が子どもたちに語る。
「むかしむかし、この街は魔王アスモデウスに支配されておった。
女を狂わせ、互いに争わせる地獄じゃったそうな。
それをお救いくださったのが、我らが英雄アダムス様──」
子どもたちは「すごい!」「さすがアダムス様!」と目を輝かせる。
街の誰もが、教会の教皇アダムスの名を祈りに唱えるのは日常だった。
その人混みの外れに、ひとりの少女が立っていた。
黒髪を風に揺らし、ところどころ端の破れた黒い旅装束に身を包んでいる。
名も素性も誰も知らないその少女は、祈りに声を重ねることなく、静かにその石像を見上げていた。
彼女の瞳は澄んで鋭く、街の熱狂を冷ややかに映していた。
──その眼差しが、この街の運命を変えることになるとも知らずに。
――――
昼下がりの聖レクス市は、朝の喧騒が嘘のように静かだった。
診療所の窓から差し込む陽光が、木の床に淡い影を落とす。埃っぽい空気の中、薬草の乾いた香りが漂い、指先はハーブを刻むリズムで動いていた。すり鉢のざらりとした感触、様々な薬草の混じる独特の匂い──それは、彼女がこの街で唯一心を落ち着けられる瞬間だった。
彼女の名前はエリシェヴァ。幼い頃に飢餓で両親を亡くして以来、少しでも多くの人を救いたいと、この街で診療所を営んでいる。
診療所は「どんな症状でも治る」「薬の効きが良い」との評判で、街でもよく知られていた。
そんな中、静寂を破るように扉を叩く音が響いた。
「ごめんください。」
エリシェヴァは手を止め、扉を開ける。
昼の光を背に、黒いマントを羽織った見慣れない黒髪の少女が立っていた。昨日、広場の端で見かけたあの旅人だ。外套は旅塵にまみれ、裾が擦り切れている。肩にかけられた布袋からは、かすかに革と鉄の匂いが漂う。
だが、目を引いたのは頭に輝く紅いツバキの髪飾りだった。
陽光に映え、まるで血の滴のように鮮やかだ。少女は額に手を当て、弱々しく笑う。
「熱があって……ちょっと、ふらふらして。」
その声は軽やかだが、どこか芝居がかった響きがあった。
エリシェヴァは眉をひそめ、少女を古い木の椅子に座らせる。細い手首に触れると、驚くほど整った鼓動が伝わる。体温もほぼ平熱。脈の落ち着きは、まるで戦場を歩む兵士のようだ。
(仮病……? なぜこんな芝居を?)
「……体調は悪くないと思いますよ。少し休めば大丈夫です。」
静かに告げると、少女はぱちりと瞬き、黒い瞳を大きく開いた。
「え、バレました?」
一瞬の沈黙。
「やっぱり、隠すの下手なんですよね、私。」
舌をちょこんと出し、苦笑する。その仕草は無邪気で、まるで市場で果物をねだる子どものようだ。
だが、その瞳の奥には鋭い光が宿っている。エリシェヴァの胸がざわめいた。
(この子、ただの旅人じゃない。)
「……じゃあ、なんで仮病なんか。」
声を抑えて問うと、少女は視線を泳がせ、机の薬草に目をやる。すり鉢に残るカモミールの欠片、棚に並ぶ乾いた薬瓶。そして、再びエリシェヴァを見た。
「えっと……ここ、街で評判の診療所って聞いたから。ちょっと覗いてみたかったんです。」
声に嫌味はなく、旅の疲れを癒すような素直さが滲む。だが、その言葉はあまりに唐突で、エリシェヴァの疑念を深めた。
「……冷やかし、ですか?」
思わず刺のある口調になる。
「ち、違います!」
少女は手を振って否定し、慌てたように続ける。
「その……安心できる場所かなって。旅をしてると、休める場所って貴重なんです。」
彼女の瞳は一瞬、遠くを見た。まるで果てしない道のりを思い出すように。
聖レクス市の広場では祈りの声が絶えない。だが、路地裏では教皇の浄化官の白いマントが人を縛る。この街に、休息などない。
エリシェヴァは少女の言葉に、胸の奥で共鳴するものを感じた。孤独。
だが、すぐにその思いを振り払う。
(騙されない。この子はきっと、何か企んでる。)
小さくため息をつき、エリシェヴァは棚から蜂蜜湯の小瓶を取り出した。琥珀色の液体が、陽光に透けて揺れる。
「本当に熱があるときに飲むといいですよ。」
少女は目を輝かせ、瓶を受け取る。
「ありがとうございます! あ、飲んでもいいですか?」
「どうぞ。」
少女は蓋を開け、一口含むと、頬を緩めた。
「甘い……!」
その笑顔は無防備で、まるで春の陽だまりのように温かい。エリシェヴァはつい見とれ、薬草を刻む手を止める。
だが次の瞬間、少女の黒い瞳が真っ直ぐに彼女を射抜いた。心臓が跳ね、呼吸が一瞬詰まる。
(この瞳……私の秘密を見透かしてる?)
少女は空の瓶を返し、軽く頭を下げた。
「また、来てもいいですか?」
エリシェヴァは言葉に詰まる。
「え?」
「ほら、旅って孤独で……ここだと、ちょっと落ち着く気がするから。」
少女の声は柔らかく、だがどこか確信に満ちていた。
エリシェヴァは思わず素っ気なく答える。
「……好きにすればいいです。」
内心では、胸がざわめいている。
少女はお代を払い終えると診療所を後にした。
扉が閉まり、少女の足音が石畳に遠ざかる。窓の外では、祈りの声が響き、浄化官の影がちらつく。
エリシェヴァは手首を押さえ、早まる鼓動を抑えた。
あの夜の緑の光が脳裏をよぎる。癒しの力を得た代償──魔女の烙印。
(この子は、私の秘密に気づいている……? それとも、ただの旅人?)
薬草の香りが部屋を満たす。だが、その香りは、彼女の不安を払拭するにはあまりに弱かった。
聖レクス市の鐘が、遠くで再び鳴る。祈りか、警告か。エリシェヴァは目を閉じ、少女の紅いツバキを思い出した。
──診療所を出て間もなく、黒髪の少女は賑やかな大通りを歩いていた。
果物の露店からは甘い香りが漂い、パン屋の前では子どもが行列を作っている。
一見すれば、この街は信仰と繁栄に守られた幸福の都そのものだった。
「……ふつうにいい街に見えるんだけどなあ。」
少女は小さく呟き、肩をすくめた。
けれど、その声には確かな違和感が混じっていた。
「不敬虔だな?」
鋭い声が路地裏から響き、少女は思わず足を止めた。
白いマントを翻す兵士たち──浄化官が、一人の若者を壁に押しつけていた。
「祈りを怠ったのではないか?」
「ち、違います! 仕事が忙しくて……」
若者は必死に弁明する。
だが浄化官の目は冷たく、聞く耳を持たなかった。
「言い訳は罪を重ねるだけだ。」
鋼鉄の籠手が振り下ろされ、乾いた音が響く。
若者は膝をつき、唇から血を流した。
通行人たちは一瞬立ち止まる。
だが誰も助けず、足早に視線を逸らして去っていく。
少女は眉をひそめ、思わず小声でつぶやいた。
「うわ、痛そう。あれじゃ骨が折れちゃう。」
その言葉には憤りと同時に、年相応の心配も滲んでいた。
だが次に目を細めると、その表情は真剣さに変わる。
(祈らなかっただけで、こんな仕打ち……やっぱり、この街は“牢獄”だ。)
祈りの声が広場に溢れている。
だがそれは信仰というより、恐怖に縛られた呪文にしか聞こえなかった。
「……このままじゃ、あの子も巻き込まれる。」
少女の脳裏に、診療所で出会った金髪の少女──エリシェヴァの姿が浮かぶ。
彼女の行く末は、すでにこの街の闇に絡め取られようとしていた。
冷たい風が路地を吹き抜け、少女の外套を揺らした。
それでも彼女は小さく肩をすくめ、冗談めかした声を吐き出す。
「ほんとにもう、厄介な場所に来ちゃったなあ。」
だがその瞳は、冗談とは裏腹に鋭く光っていた。