尻を叩けば
書斎の散らかり具合に業を煮やした花織は、夫である幸夫に許しを得ぬまま掃除を始めてしまった。
かつて二度ほど整頓をするようにと声掛けをした事があるが、掃除が成された形跡は無く、ただ花織は黙して混沌を受け入れるしか無かった。
しかしすぐに花織は勝手に掃除を始めた事を安堵した。
「……SMクラブの名刺だわ」
絶版古書の真ん中に、恐らくは栞代わりだろうか、頭が少し飛び出た状態でその名刺は発見された。
幸夫と一緒に発見していたら今頃はきっと気まずい空気が流れていたに違いないと思うと、花織は今この場で熟考の猶予がある事に深く感謝せずには居られなかった。
幸夫と花織は結婚して今年で二十年になり、子ども達は高校卒業と同時に都心へと居を構えてしまい、夫婦は時折寂しげな食卓にため息を漏らさぬ様にと気を使って暮らしていた。
花織には幸夫にその様な趣味嗜好があるようには見聞きしておらず、まさに青天の霹靂と呼ぶに相応しい出来事に、花織はゆっくりと名刺と本から覗えるであろう事柄を推測し始めた。
「……ゆま」
丸文字で書かれた、色褪せた名前を読み上げた。
名刺の飛び出ていた部分が酷く黄ばんでいた為、かなり古い物であると覗えた。そしてその本は古い俳句集で、幸夫の幼少の頃よりの趣味であった。
花織は名刺を元のページへと差し込んだ。名刺を境に紙が凹んでいた為、何処のページに在ったかは直ぐに分かった。そして何事も無かったかの様に書斎を出ると、ダイニングの椅子に座り、どうしたものかと思案に耽った。
名刺の発見からしばらくしたが、幸夫は変わらず散らかった書斎で俳句を考えていた。花織が書斎に出入りした事についても気が付いておらず、今にも倒れそうな本の山を避けるように歩いては、ああでもない、こうでもない、と五七五を唱えている。
若い頃は新聞や県の俳句賞をいくつも受賞した幸夫だったが、花織と結婚してからは鳴かず飛ばず、次第に自らの限界を悟るようになったが、それでも俳句は辞められなかった。
辞めたからと言って、死ぬわけでも無いが、続けたからと言って金になるわけでもなく、栄養になるわけでもない。ただ、すんなりと止めれた酒や煙草とは違い、俳句を辞めるには何か身を削られる様な、まるで胃や腸の大部分を切除されるかの様な、絶大なる喪失感が伴う気がして、無性に怖くて辞めれなかったのだ。
窓から外を見下ろすと、花織が洗濯物と布団を干していた。幸夫は休日くらいは何か手伝おうかと思ったが、ついでにとんでもない大仕事を頼まれそうな気がして、ただぼんやりと机に向かうしかなかった。
「……ふぅ」
快晴の下、溜め込んでいた洗濯物を干し終えた花織は、次いで布団に手を付け始めた。夫婦で観たいつぞやのテレビ番組で『布団は叩いても無限に埃が出る』と、やっていたが、それでも幼少から教え込まれた習慣はそう抜ける事無く彼女を布団叩きへと誘う。花織は『世のご主人共もゴルフをやるくらいなら布団を叩け』と言わんばかりに、豪快なスイングで布団を叩き続けた。
と、花織にある考えが浮かんだ。
手を開き、握る。二度ほど繰り返し、花織はそっと静かにジャンプして姿勢を整えた。指を広げ、思い切りパーで布団を叩いてみた。
強い手応えを感じた。
昔の感覚は衰えてはいなかった。
夜、幸夫は珍しく夕食の手伝いを買って出た。
昼間の罪滅ぼしにと名乗りを上げたが、特段手を貸して欲しい事も無く、とりあえず皿洗いを任された。
幸夫が自信満々に洗った皿の数々は、多くが汚れが落ちきっておらず、四角い部屋を丸く掃くが如く丸い皿を四角く洗う様に隅々に汚れが付着していた。
花織はそうなる事を見越しており、ただ「ありがとう」と礼を述べた。そしてエプロンを外しやり切った顔の幸夫の尻を強く叩いた。手応えは完璧だった。
当然幸夫は声を荒げた。突然の事に戸惑うよりは、痛みによる怒りの方が強く表れていた。
しかし花織は全く取り合わずに、皿洗いをやり直し始めた。それを見て更に幸夫は怒りを強くしたが、落ちきれぬ汚れを目の前へ突きつけると、ただ押し黙って二階の書斎へと閉じ籠もってしまうのだった。
花織は手を洗い、そしてお茶を一杯飲んでから、皿洗いを再開した。明日になれば忘れるであろう。花織は僅かな物音が続く書斎への天井に目をやった。
翌日、幸夫は何食わぬ顔で朝食を平らげると、そのまま書斎へと向かい筆をとった。そのまま昼過ぎまで俳句を書き連ね、その中でも自信のある句の頭に印を付けてノートを高く持ち上げた。達成感で満たされたその身体は、老いを重ねても尚輝いていた。
だが、同時に幸夫は何かに蝕まれる様な感覚に身を投じる思いを感じ始めていた。
尻を叩かれなければ俳句が書けぬ、なんとも恥にも似た汚名を与えられた気がして、古の自分からを嫌悪した。
「それではこの度大賞に輝きました長谷部幸夫さんに、俳句を書く時のコツ等をお伺いしたいと思います」
「妻に尻を叩かれる事ですね、物理的に。それ以外にありません」
賞を一つ取るたびに知名度が上がっていった幸夫は、次第に自らの行いを恥じる事を止めていった。
歌人としてどうなのか、そう言った問いが世間から挙がる事もあったが、幸夫はどうどうと言った。
「誰でも良いという訳ではありません。元SM女王の妻だからこそ、です!!」
花織は幸夫のその言葉が嬉しくて、そっと涙を拭った。