悪霊の真実 前編
〇
何もかもを溶かそうとする明け方の空。
その青年は、少年と目線を合わせながら、電柱の上から跳躍した。くたびれた灰色のスーツと、薄汚れた褐色のコートがアンバランスに身を包み、気だるげな眼差しで、誰からも何からも知覚され得なかった存在を、今しっかりと見据えて、そして呟いた。
「んん? こいつは珍しい」
瞳は髑髏の眼窩のごとく虚ろだが、飄然とした口元は細巻を咥えて皮肉気に歪んで肉感を露わにしている。
死神は問い質す。
「おまえさん、どうして死んでいるのに、生きているフリを?」
間違いなく彼は、幽霊である少年を知覚した上で話している。
「あ、おっと失礼。俺はこういうものだ」
幽霊は差し出された名刺を受け取った。──受け取ることができた。
名刺にはこう記載されていた。
“冥界神務員・死神”……No.1080000002102
「……千八十億とんで、二千百二号、さん?」
「フツーに「死神さん」でよろしくっ」
いや、フツーって。
ビジネスバッグからタブレット端末を取り出す死神なんて聞いたことがないんですけど。
「ところで、だ」
彼は一瞬にして、幽霊の顔に肉薄していく。
「おまえさん、どうしてそんなに自分の脚が消えてしまうのを怖れる? 別に足首から先がなくなろうと、おまえという幽霊・存在が消えてなくなるような事態にはなりえないというのに?」
「いや、それは……」
考えてもみなかった。
厳密には、なるべく考えないようにしていた、と言った方が正しいだろう。
何故ならそれは、考えてはいけないことのように思えたから。
「おまえさん、ひょっとして――」彼は確信を込めて呟く。
「自分が幽霊ではなく、まだ生きている人間であると、そう『錯覚していたい』から、普通の人間と同じように歩き回っていただけなんじゃないのか?」
少年は絶句した。
否定することができなかったから、ではない。
「そ、そんなこと」
「別に、俺はおまえさんを責め立てて罰してしまおうなんて思っちゃいない」
でもな。と言って、死神はやれやれと嘆息しながら、タブレットで写真を撮る。
「お前はどう足掻いたところで、人間とは呼べはしない」
少年を取ったはずの画面には、明け方の暁光しか映っていない。
自分という幽霊は影も形も、そこには映り込んでいなかった。
それは何かの烙印のように。少年の胸を焼き燃やしていった。
「……わかってたよ」
「いいや、わかってない」
「分かってるって言ってるだろう!」
「分かっていないからここにいるんだぞ……オマエ」
タブレット端末が一変して、巨大な鎌の形状になって、少年の眼前に突き付けられる。
その様を見て……正確には器具が転換するのが早すぎてまるで見えていなかったが……確信を深めた。ああ、こいつは人間でも幽霊でもないのだな、と。
鎌の鋒は僅かに首筋を撫でるだけだったが、それだけの行為で、その鎌がもつ得体の知れない切れ味を、冷たく肌に感じた。幽霊となり、何もかもを透過する肌が、久方ぶりに味わった感触がソレだったのだ。もはや疑ってかかる余地などありはしない。
こいつは、自分という命を刈り取りに来たのだと、少年は思った。
「僕をどうする気だ?」
「……どうするって?」
意外そうにオウム返しされる。
「僕を成仏でもさせるのか? 冥界とやらに送り付けて?」
「まぁ、その通りなんだが、ちょっと問題がな」
めんどくさそうに頭をかいて、死神は鎌をタブレットに戻す。
「一応、冥界の入界手続きっていうか、そういうものがあるんだが、今のおまえは手続きが受けられない状況にあるんだな、これが」
「……というと?」
「簡単に言うと〝順番待ち〟ってことだわな」
彼は言った。
冥界というものにも現世と同じく法があり掟があり約定が定められている。その法や掟に則るところで言えば、自分は転居手続きのし損ないで、役所で順番待ちをしている一市民みたいな立ち位置にあるのだと。
何かそう聞くと、まるっきりお役所仕事みたいだな。
「そういうなよ。冥界の死亡者リストは、むこう五十年先まで埋まりまくってる。その中へ無理矢理におまえさんの名前を割り込ませようとしたら、下手したら、五十年先までを綴ったリストを全部書き換えていかなくちゃならない。いいか? 五十年分の死者の名簿だぞ? その総量は想像する以上に半端ない数だ。
あれだ。店に並んでいるお客の行列に、割り込んだりしたらいけないのと、同じ感じだと思ってくれればいい。一人くらいなら割り込んでもいいなんて理屈、列に並んでいる人には許されざることだろう?」
「でも。俺が幽霊になったのは」
「冥界のミス……って言うのとは違う」
一瞬だけ眼光が鋭く澄み渡った、気がする。僅かの時間もおかずに、元の虚脱感満載の瓢げた瞳孔に戻っていた。
「おまえがそうなっているのは、おまえの未練・想念・因果のせいだ。むしろ、オマエの方こそが、冥界の法に違反した立場にある。『死者は疾く冥界に赴くべし』と、魂に刻まれた大原則だ。が、おまえはその原則を無視している」
「無視するも何も、俺はそんなこと知らない!」
「死者ならだれもが知っている。否、生者の中にもたまにこの原則を看破している、つうか、理解している輩もいるにはいるが、まぁそこは置いといて。とにかく、おまえが死者で、幽霊となっているのを自覚しているのに、未だにこの世界に在り続けようとしているのは、おまえの意思もとい「遺志」のなせる業だ。ほら、未練と言ったら、おぼえがあるだろう?」
少年は真っ先に彼女の名を思い浮かべた。
「蒼の、こと?」
死神は指を鳴らした。「ビンゴ」という死語が、少年の耳朶を叩いた。
「おまえさんは死人の中でも飛び切り奇矯な部類に入るな。詳しいことは時間のある時にでも教えるが、これは、彼女のためにも必要なことだ」
「彼女のために、必要な、こと?」
その言葉を反芻した少年は、
「少年。おまえは五年間、決して彼女の傍に近寄るな」
「な、何で!」
それを聞いて即座に反発した。反駁していた。
理由を問う少年に、死神は簡潔に明快に答える。
「オマエが、彼女にとっての《悪霊》だからだよ」
告げられる真実