少年の巡礼 前編
〇
過冷な天の水底で、星々がウィンクを投げている時間。
少年は少女の部屋を離れ、久方ぶりの実家に帰ってみる。
「ただいま」
扉を開くことなく、中へあがりこむ。
伽藍とした玄関が冷たい空気を伴って、芯まで凍えそうな心地を幽霊の身に味あわせていく。実に不気味な感触だ。幽霊が言うのもアレだが、本当に何かが出てきてしまいそうな雰囲気である。滑稽な話だ。自分こそ幽霊そのものだと言うのに。
そこはもはや空き家だった。
家具も何もかも、遺品は親戚の手で整理され処分されている。だから思い出もへったくれもない。せいぜい、壁や床に走る傷痕や汚点が、そこで人が生活していたことを如実に語ってくれる唯一の手掛かりだった。
台所兼リビングを後にして和室に赴く。大黒柱には自分と、一人の少女の残した傷が幾筋も走っていた。二人は同じ誕生日の時に、柱に並んで背丈を測り合った。中学まで続いたその儀式も、もはや自分には測りようがない。柱に傷をつけるどころか、手で触れることすら難しい幽体の弱点である。
それでも、少年はそこが好きだった。
そこには確かに、自分が生きた証が遺されていたから。
続き間を素通りして庭に出る。一部の雑草が膝丈まで伸びてしまって、小さく雑然とした、植物園の様相を呈していた。ガーデニングが趣味の父は、ここで様々な花や野菜を栽培していた。お祝いの時はいつも野菜パーティーを開いて、近所の人や親戚を集めて楽しんでいた様は、本当に子供心に楽し気だった。父の畑も、見る影もないほど荒れている。
雑草を一本も踏みしめることなく、少年は二羽の中心で二階を仰ぎ見た。
ちょっと跳んで、ベランダに着地する。幽霊にしかできない身のこなしだ。
二階の自分の部屋も、空疎な沈黙で満たされていた。勉強机も洋服ダンスもなくなって、宝物だった電車の模型もなくなってしまった。月明かりに照らされ、辛うじて埃の気配が宙を舞うのを確認する作業。誰もいない家というのは、こんなにも荒れやすいものなのかと、ここに来るたび思い知らされる。
本当につらい気分だ。
それでも、誰とも視線のぶつかりっこない繁華街に出向くよりは百倍マシなのだ。
そう、ずっとマシだ。
少年はしばらくの間、自分の部屋だった場所で、うずくまることにした。
〇
部屋で蹲るのも飽きて、次に体が向かっていたのは、懐かしい場所だった。
住宅地の中心とはいえ、夜の学校というものは、空き家にも勝るとも劣らぬ不気味さがある。否、でかい構造物が胡乱に口を開けているようなそれは、とてつもなく巨大な洞穴を想起させた分、恐怖度は倍増しである。小学校時代はこんな時間まで家に帰らないことは滅多になかった。
ただ一つの例外は、彼女と一緒に熱気球第一号を完成させた時だったか。紙を張り合わせ、糸で熱源を括っただけの熱気球は、上手くコントロールが出来ずに、中途で燃やしてしまったのだったか。あの時は先生に慰められたのがたまらなくて泣いてしまった。彼女も瞳を潤ませこそしていたが、僕の手前ガマンして見せていたのを、よく覚えている。それでも、めげず諦めず、中学時代には十五号まで完成させることができた。材料もビニールやら針金やら改良改善を重ね、なけなしのお小遣いを出し合ってカメラまで買ったのだ。赴いた科学クラブ室は、理科準備室というプレートを掲げるようになっていた。うん。何とも言えない気分である。
中学校まで一気に足を運んでみる。夜は意外と長い。それぐらいの猶予は十分にある。
やはり不気味な感じは小学校のそれと共通していた。
ただ、こちらは大きな通りに面しているから、少しは人の気配を感じやすい。通り過ぎる車のライトと街灯が唯一の光源であったが。
二人は三年間、同じクラス同じ教室で時を過ごした。二人で科学部に入部し、天文学を専門に勉強して、計画を練った。「気球にカメラをくくりつけて、地球を眺めよう」って。
結局、旅費や機材の高価さに負けて挫折したんだけれど、高校で絶対にやってのけようと誓ったのを覚えている。
そうして、丘の上の高校に入学したのはいいけれど、そこは原則バイト禁止だったというオチが付く。
天文部の部室は、あの事故以来誰も来ていないらしい。それも当然、創立メンバーは自分たち二人だけで、あとは名前を借りてきたクラスメイトだけだったのだから。
創設から一年で廃部決定……実に物悲しいことである。望遠鏡どころか天球儀さえ揃えられなかったのは、一応天文部員として、情けない気がしないでもない。あるのは、自分たちが持ち寄った天文に関する事典やら書籍やらばかりで、それらは薄く埃をかぶって、かつての持ち主の一人を迎え入れた。つい手に取りたくなるのだが、残念。自分の透ける掌では、埃を払ってやることも出来はしない。
こんな状況だと言うのに、目頭が熱くなる感じもしないと言うのは、やはり自分が幽霊だからなのだろうな。