幽霊の現実 前編
〇
夜空に浮く星々はあやしく澄み渡るのに、幽霊の自分は戸惑いの感情のまま、世界から浮いてしまっていた。すっかり日は暮れてしまった。
自分自身が幽霊であることを、少年は誰よりも何よりも理解している。理解できている。
もっとよく言えば、そうであるとしか理解できないというのが正しいほど、この状況は判然としていた。少年の姿は誰の目にも映らず、その声は誰の耳にも響かず、彼の体は何も持てず何にも触れられず──ただフワフワとした意識だけが、空気中の酸素のように漂っているだけの状況。こんな、小説や映画や漫画なんかでしか語られていない状態を、幽霊と呼ぶ他に何と呼べばいいというのか。
少年が幽霊になったのは、つい四ヶ月前。こうなった経緯としては、どこにでもあるような、ニュースや新聞なんかで一度ぐらいは取り上げられる程度の事故だったわけだが、結果としてはあまり例のない、というか、そもそも誰からも知覚されることがありえないので、例もくそもないわけだが。霊だけに。
──とにかく。
少年が幽霊であるということは、疑う余地も余裕も余念もない、厳然たる現実である。
現実でありながら、現実らしい感覚など、何一つとして感じられやしないのだが。
それが戸惑いを生む元凶であった。
幽霊なことを自覚しにくいことこの上ない。
何しろ彼は物に触れることができない。触覚が機能していない。人に触ろうとしても、触られそうになっても、自分が霧の塊であるかのように素通りしてしまう。他人との触れ合いはもちろん、風が頬を打つ心地よさまで、今の少年には感じられない。自分で自分の手の甲をつねることすらできない。地面を歩いている時も、歩いているという体裁を整えているだけで、気を抜くと足首から先が地面に埋もれるように途切れてしまう。その様を少年には酷く不気味に思えてしまい、なるべく靴底より下が地面に埋もれることがないよう、常に気を張り続けなければならない。最初は地面を蹴る感触もなしに歩き回るのは至難であったが、一ヶ月も挑戦してみると慣れてしまった。というか、移動するときは浮いてるほうが安易かつ便利なので、そっちの方を多用してしまう癖がついている。はてさて、これは如何なものだろう幽霊としては正しい在り方だろうが、人としては現実感がなくって困惑すら覚えてしまう。ややり多用するのは控えた方がいいかもしれない。
ザウエルという、近所の人が飼ってる犬にすら無視されてしまうし、野良猫やカラスの類も、自分は触れることができない。視線もほとんどあわない。たまに、こっちが見えているんじゃないかと思うぐらい凝視されることもあるのだが、こっちが何をする間もなく、興味をなくしたようにそっぽを向かれるばかり。
結論から言うと、幽霊になってもいいことなんてほとんどないという事実に集約される。
食欲に代表される欲求や衝動は湧いてくることはなく、また食事を摂らなくても行動に支障が生じることもない。昼の陽光に眩しさを感じることもなければ、夜の外気に震えることもない。花々の匂いも嗅げず、動物と触れ合うこともできず、まんじりともせず、日々を文字通り通過していくだけ。
一番困ったのは、睡眠がとれないことだ。
どんなに瞼を閉じて眠ろうと考えても、自分の意識が眠ることはできなくなっていった。夜、一切眠らずに過ごすことがどれだけ長いのか、はじめて知った。
天体観測や初詣で徹夜することはあっても、目的も目標もなしに、それが四ヶ月となると、これは大変なことであった。おかげで余計なことばかり考え込むことが多くなった。
幽霊とはこんなにも不便なものだったのか。
〇
語ることも触れ合うこともできない身の上では、退屈なことこの上ない。
蒼は蒼で、部屋の中に引き篭もったきり。何をすることもなく膝を抱えて丸くなるか、虚空を見つめて涙を流すか――時々思い出したように、本棚からアルバムや料理本、バンド用のコード表や、古いおもちゃなどを取り出して眺めては、また泣き始める。
いや、もう本当に参った。
全部、死んで幽霊となった少年にまつわる思い出の品ばかりだった。
彼は死んだ。
その遠因となったのは誰あろう、少年と付き合っていた少女――蒼であったのだ。その精神的ショックは想像するに難くない。
「……私の、せいだ」
時々、こうして譫言のような呪詛を繰り返す。
「そんなことないよ」
そういって聞かせることが出来たら、どんなに救われるだろう。
実際には、声なんて一言も届かない。幽霊ならば物を動かしたり、ラップ音的な音を立てるぐらいできそうなものだが、自分にはそういった力は全く備わっていないらしい。
「私のせいで…………っ、ふっ、うぇぇぇ……」
「そんなことあるもんか」
少女は自分を呪う言葉を繰り返す。その度に少年もまた祈る思いで言葉を紡ぐのだが、その祈りは、生きている人には全く届きそうもなかった。届く気配すら存在しなかった。
コンコン。
ノック音が薄暗い部屋に響いた。
「蒼」
少女の母親の声。咄嗟に少女は耳を塞ぎかけた。
「ごはん、ここに置いておくからね」
カシャンと盆を置く音の後は、足音が階下に消えていく。少女は毛布をかぶったまま、恐る恐る、明かりのこぼれる扉を開けて夕食を引き入れる。
ラッピングされたカレーの上には、書置きが一枚。
『今日の調子はどうですか?』
母親との会話を、娘たる少女はクシャクシャに丸め廊下に放擲する。
その様が静かで悲しい憤りを、少年の心にもたらした。
「蒼……そんなことしちゃダメだよ?」
少女は応えず、無言でラップをほどき、もそもそと夕食を平らげる。
少年は少女をそうさせる自分の死について、思いを馳せていく。