キセキを見つめて
〇
─ 人はどれだけ高く上がり、どれだけ早く落ちることができるか ─
〔ジョゼフ・キッティンジャー〕
〇
「見てみなよ、蒼。空の鉄道だ」
少年が春の空に指さすそれは、ただの飛行機雲である。
その軌跡を瞳で追いながら、少年は部屋の隅の少女へと告げる。
「昔のこと、覚えてる? 僕がこういうと、蒼は決まって『アレはヒコーキ雲っていうの。バカなの?』って僕のこと馬鹿にしてたよね?」
「…………」
「でもさ、お互いその時は小学二・三年生だったんだから、わざわざ否定してしまうことなかったんじゃないかな? あれで僕、飛行機雲を見かけただけで黒歴史がウワァァァってなっちゃうようになったんだから。訴訟レベルだよ訴訟」
「…………」
「ああ、けれど蒼だって似たような感じだったもんね。すごく大きな入道雲を『鯨みたい』って言ったり、ご来光を見て『天国みたい』って目を輝かせたり。ま、僕もおおむね同じ感想だったからいいんだけどね」
「…………」
「そういえば、あれ、気球の人の話、覚えてる?〝地球を気球で見た人〟の話。あの人、なんて名前だっけ? ジョー? ジョゼ……? うううん、思い出せないな」
「…………」
「よく話してたよね。『私たちもいつか、大きくなったら気球で宇宙を見てみよう』なんて約束してさ。中学は科学クラブに入って、高校に入ったら天文部を二人で作ったりしてさ」
「…………」
「にしても。日本じゃ気球か風船にカメラを括り付けると回収が不可能ってわかったときは本当にびっくりしたよ。ああいうのができるのって、アメリカとかそういった国土面積の広いところだけでさ。日本内で唯一できるところなんて言ったら北海道しかないぐらいに日本は海と山ばかりな国だから、ま、仕方ないっちゃ仕方ないよね~」
「…………」
「じゃあ北海道までの旅費を稼ごうかって話になると、アルバイトになるわけなんだけど。残念、ウチの高校は原則バイト禁止でしたっていうこのオチ~っ! まったくもって計画性もへったくれもないよね、僕ら♪」
「…………」
「へへへ――ねぇ、蒼」
少年は、膝を抱えてうずくまる少女の前に腰を落とす。
少女は答えない。
否、答えられるわけもない。
「…………」
黙したまま面を上げ、立ち上がる少女の姿を、少年は見守る。部屋の隅で丸く縮んでいた体がゆっくりと、彼の目前にまで迫る。若干ながら気色ばんだ少年は、一縷の期待をこめて腕を伸ばし、そして、
通過した。
まるで空気か薄霧の中を進むように直進した少女。
直進してきた少女に通過、もとい透過されてしまった少年。
風の塊を浴びるよりも平然とした足取りで、少女は部屋の外へ繋がる扉を開け、重く無気力な足取りのまま、階下へと歩を進めていく。自分が誰かに話しかけられていたことも、自分が誰の体を通り過ぎたのかも、今の少女は意に止めていない。否。意に止まる道理すらないのだ。
そんな彼女の様子を、少年は解っていたと言わんばかりに肩を竦め、嘆息する。
「まぁ…………そう、だよな」
掌をかざしながら窓の方を凝視すると、自分の手は物理的な色を失い、その向こう側の光景が、透けて見えてしまう。掌を壁に押し付ければ手は壁の中へ抵抗なく潜りこんでいき、ちょっと気を抜けば両脚が二階の床に沈み、一階どころか床下にまで落下することもある、この体。
何もかもが透明な体。
色彩も、輪郭も、質感さえ失われた透明人間。
こんな現象を、一言で言い表そうとすれば、解答は一つに絞られる。
── 幽霊 ──
自分がこうなってしまったことを知るのは、少年ただ一人だという状況。
そんな状態が、もう四か月は続いている。
登場人物
・少年 ── 幽霊。少女の幼馴染。
・少女 ── 人間。少年の幼馴染。名は“蒼”