第3章 出された結論
危険!須磨がとうとう本性を出しそうです!
その時、本山さんは? 美海は?
そのあと、せっかくの夏季休暇をがっつり仕事でつぶされた綾部はどうなる?!
日が傾いてきた。美海は会社の入っているビルの向かいにある喫茶店で尼崎達が出てくるのを待っていた。店のカラクリ時計がにぎやかに動き出す。5時だ。5分もすればビルの玄関ホールは帰宅する人々でどっとにぎやかになった。
その中に尼崎の姿を見つけ、美海は軽く手を振った。尼崎は不可思議な表情をして左右を確かめると、小走りに道路を渡ってやってきた。
「ごめんね。せっかくの休みなのに呼び出しちゃって。だけど、なんだか変なのよ。本山さん、急に今日は来られないって言い出したの。」
「急用でもできたんでしょうか。」
「そんなはずないわ。だって、お見舞いに行こうって誘ってくれたのは彼女の方なのよ。」
なおも首をかしげる尼崎は、そっと店の窓から家路に向かうサラリーマンやOLたちの中にいるはずの本山を探していた。
その横で、尼崎に本山の話を伝えるべきか迷っている美海がいた。
「ねえ!ちょっとあそこ!」
小さいが鋭い声が飛んだ。
「あれって、本山さんですよね。」
「隣にいるの、須磨くんじゃない!?」
道路を挟んだ向かい側を男女が肩を寄せ合い歩いていた。男の腕は女の肩をしっかりと抱きとめているが、女の表情は曇っていた。
「噂は聞いてたけど、まさか本山さんにまで手を出すなんて。」
「でも、彼女怯えているように見えませんでしたか?」
「ねえ、吉野さん。今日はせっかく来てもらったのに申し訳ないんだけど…。」
尼崎の目は本山と須磨をしっかりと捉えている。美海は腹をくくった。
「尼崎さん。いきましょう。まだ話していないこともあるし、もしかしたら人手がいるかもしれないですから。」
「吉野さん…。 ええ、そうね。いきましょう」
二人は本山達を見失わないようにすぐさま行動を起こした。そんな二人が歩き出したすぐ後を、退社してきた綾部が見送った。
「あれ? 今の吉野さん?」
******
本山は震える体を無理に起こして、身なりを整えた。覚悟を決めた告発だったが、こんなひどい仕打ちがやってくるとは思いもしていなかった。
ワンピースを羽織って愕然とする。前開きの服のボタンは、見事に全部引きちぎられていた。ボタンがはじけとんだだけでなく、場所によっては生地に穴が開いてしまった部分もあった。
「狂ってる…。」
本山はついさっきまで繰り広げられていた惨劇を思い出し、身震いする。
いやな予感は須磨が出社し始めた朝から感じていた。確かに須磨のやっていることは間違っているし、そのままでは同僚達もおもちゃにされてしまうとも思っていた。だからこそ、思い切って告発したのだ。
しかし、自分の身の安全は誰にも守ってもらう事はできず、頼れそうな吉野は今日に限って欠勤だった。
尼崎にも、告白するべきだったんだ。妙な意地を張って、彼女の手を借りずに解決しようとしたのがまずかった。
本山は唇をかみ締める。殴られた頬は腫れ、耳の前あたりに指輪か何かが当たったらしい切り傷もあった。
午後、出先から帰ってきた本山は、玄関ホールで須磨に行く手を阻まれた。そして、今日は自分と一緒に来いと言われたのだ。本山の予定など、聞く気はまったくなかった。
「今までにも写真はいっぱい撮らせてもらったし、僕の体験談をみなさんにお話してもいいんだよ。
本山さんは、どんなことされるのが好きかとか、どんな声を出すのかとか、ね。」
「や、やめて…」
今まで見たこともないような表情の須磨は、じっくりと獲物を追い詰める野獣のようだ。身の危険は感じるものの、どうにも逆らう事はできなかった。
見慣れたホテルの看板が、こんなに禍々しいと思ったことはなかった。あと腐れのない関係で、うまく遊んでいるつもりだった。先日までの対等だと思っていた関係は、もうここには見当たらない。肩をつかまれたまま部屋に連れて行かれる。このままではまずい。
尼崎が不思議そうな顔をしたのを思い出した。美海の見舞いを断ったときだ。本山は心から後悔した。
尼崎さん、どうか気付いて。助けに来て!
本山は、無理と知りながらも祈らずにはいられなかった。しかし、部屋の鍵がかけられたとたん、須磨は豹変した。ゆっくりと頬を撫でていた優しい手は凶器へと変貌し、躊躇いなく本山の頬を打った。ショックで声も出ない本山を、なおも執拗な暴力は続く。
突然、携帯電話が鳴り出したが、須磨があっさりと電源を切ってしまった。
服は剥ぎ取られ髪をわしづかみにされて振り回された。反抗には容赦のない平手打ち。抵抗する気力を失った本山に待っていたのはプライドを粉々にされるような行為だった。
須磨はまるで王のように振る舞い、奴隷と化した本山に欲望の限りをぶつけた。そして、一人さっさとシャワーを浴びると、すっかり今までの顔に戻って微笑んだ。
「今日は楽しかったよ。また遊ぼうね。」
そう言ってサイドテーブルの上にあったレコーダーからDVDを取り出してにやりと笑った。
激しい怒りは沸いてくるが、本山にはそれを奪う体力も気力もなかった。男がさっさと部屋を抜け出しても、女の視線はそれを追おうともしない。鏡張りのその部屋の壁には、屍のような目をした女が一人、肢体を隠そうともせずにベッドに倒れこんでいる姿が映っているだけだった。
それからどのくらい経っただろう。本山は部屋に散らばったワンピースのボタンを床にはいつくばって探し始めた。8個あるはずのボタンは4つしか見つからない。それでも、手の震えを抑えながら縫いつけ、髪をとかしつけて化粧をした。
ボタンの足りない部分はカバンを胸元で抱えるようにして隠したが、どんなにつくろっても派手に腫れた頬の傷は隠せなかった。
帰らなくては、どんなことがあってもとりあえず家に帰らなければ…。蹴り飛ばされていたサンダルを履くと、ヒールがかかとからポロリと外れてしまった。
美海と尼崎は途方にくれていた。勢いづいて尾行してきたものの、先の二人があっさりとホテルに入っていってしまうと、その後のことはどうすることも出来なかったのだ。
「どうしましょう。」
「彼女が嫌がっていたら止められたんだけど、まさかあんなにあっさりと入っちゃうなんてねぇ。」
尼崎は呆れたように首を振っていた。
「でも、もし脅されていたら? 怖くて抵抗できなかったら?」
「吉野さん、何か知っているのね?」
「はい。あそこで待ちませんか?」
美海はホテルの玄関が見える手近な喫茶店を指差した。同意して喫茶店の前まで来た尼崎だったが、ふと立ち止まってやめようと言い出した。
「ここは、やめましょう。あの道向かいのカフェにしましょうよ」
美海にはその意図がわからなかったが黙って尼崎に従った。不思議な事に、道路を渡ってしまうと普通のビジネス街に戻ったような感覚を覚える。そして振り向いたとき、愕然とした。
さっきまでいたエリアはホテルが乱立していたのだ。二人を追うのに夢中でそんなところに来ていたとは気付きもしなかった。道路に面したビルはさすがにビジネスホテルのように繕ってはあるが、一筋脇に入ればギラギラとしたネオンが建ち並んでいた。
カフェはビルの2階にあり、うまい具合にホテルの入り口が見下ろせる。窓際に座ると美海はふうっと大きなため息をついた。
「ふふふ。吉野さんって、もしかしてああいうところに行ったことないの?」
「ええっ! 尼崎さんはあるんですか?」
尼崎は一瞬驚いたような顔をして、その後楽しそうに笑った。
「そうね。少なくとも、私は吉野さんより少し年上だから、その分の経験はあるわよ。」
「そういうもんなんですか。」
そうは言ったものの、眉が八の字になったままで、またしても尼崎を楽しませてしまった。
「ところで、本山さんのことだけど。話してくれる?」
「はい。実は…」
二人はサンドウィッチをつまみながら事実確認を進めた。
「バカねぇ。相談してくれれば私だって協力したのに。本山さん、大丈夫かしら。」
尼崎は改めてホテルの入り口を見つめ、悔しがった。
「尼崎さん、申し訳ありませんでした。私がもっと早くに相談するべきでした。」
「吉野さん。これは私の勘なんだけど、もしかしたら須磨くんはある種の人格障害かもしれないわ。」
「人格障害? ですか?」
尼崎はホテルの入り口から目を離さないまま続けた。
「そう。私は須磨くんとほぼ同じ時期に入社したの。だから今までからかすかに違和感を覚える事はあったんだけど、お金持ちの一人息子だからなのかなと思っていたの。でも、本山さんや吉野さんにしたこと、ちょっと常識からずれていると思わない?」
「確かに…。」
美海は素直に納得できなかった。自分が須磨にしてもらったことはあまりにも他の女性達とはかけ離れているように思える。しかし気丈にしながらも須磨の謹慎が解けたことに不安を覚えていた本山の顔を思い出すと、認めざるを得ない。
「暴走していなきゃいいんだけど…。」
「暴走、ですか?」
「ええ。 あっ! あれ、須磨君じゃない?」
尼崎の声に美海も思わず身を乗り出した。確かに、ホテルから背の高い須磨が出てくるのが見えた。しかし、本山は出てこない。
美海は尼崎の腕にしがみついて頼んだ。
「尼崎さん! すぐに行きませんか?」
「そうね。」
すぐさま席を立った二人は、道路を渡ってきた須磨と出くわした。
「須磨君。どうしたのこんなところで?」
「やあ、尼崎さん! これからご飯でもどう? あれ、吉野さんも一緒なの?」
「そうよ。ところで、本山さんを探しているんだけど、知らない?」
いつもの笑顔のままではあるが、尼崎の目に力が篭る。須磨もその気迫に気付いたらしく観念したように脱力した。
「本山さんなら、そこにいるよ。いやだなぁ。僕らのプライベートにヘンな口挟まないでよ。大人のお付き合いなんだからさ。」
「部屋はどこ?」
「一番上の階の一番奥の部屋だよ。僕は1番上しか使わないんだ。」
「吉野さん、行くわよ!」
「ちょっと、僕の話も聞いてよ。今日はいろいろあったんだ。彼女の事はそっとしておいてよ…」
尼崎は須磨の言葉を無視するようにすり抜けて走り出した。美海もそれに続く。後ろで須磨が騒いでいたが、もう二人の耳には入らなかった。
建物の中に入ると、フロントらしいカウンターがあったが人は誰もいなかった。そのまま尼崎に続いて通り過ぎ、エレベーターで最上階まで上がる。ドアが開くと目の前に重厚な扉が見えた。
「あの部屋だわ」
エレベーターを降りると手前のドアが開いて初老の男と若い女性が出てきた。美海は思わず尼崎にしがみつく。
「気にしないの。人は人でしょ。それより本山さんよ!」
「はい!」
二人は廊下の奥にある部屋の前まで来ると、深呼吸してノックした。室内からは返事がない。
どうしよう。そっと見上げると、尼崎がぎゅっと唇をかみ締めていた。最悪の場合も覚悟しなければならない。
「本山さん!」
尼崎の声にかすかに驚いたような息遣いが聞こえた。生きている!尼崎と美海は顔を見合わせて頷きあった。
「大丈夫ですか? 私達、心配になって…。怪我してるんじゃないかと。」
いざ声をかけようとすると、美海にはなんと言っていいのかわからない。今は、本山の返事を待つより他なかった。
「本山さん、開けてもらえないかしら。」
「ダメっ!!」
怯えたような声が飛んだ。尼崎はしばらく考えて、そして穏かに声をかける。
「分かったわ。でも、私達、貴方を助けたくて来たの。私達で力になれることはない?」
しばらく返事がなかった。静かに流れる音楽の合間に快楽をむさぼる声がもれ聞こえて美海は耳を塞ぎたくなる。しかし尼崎は、小さな声も漏らさず聞き取ろうとじっと目を閉じて聞いていた。そしてついに本山の返事を聞いた尼崎の目には涙が溢れだした。
「もしも、聞いてもらえるなら、あの。。。洋服と靴を。。。」
尼崎の後ろに控えている美海には聞き取れなかった。ただその後姿を見つめる事しかできない。
「わかったわ。20分だけ待って。」
尼崎に従ってホテルを後にした美海は何も聞けずにいた。勝気で明るい尼崎のまつげに光るものが見える。
二人はまっすぐに道路を渡ってファッションビルに駆け込んだ。尼崎はさっさととある店に向かい、何の迷いもなくワンピースと靴を買った。それと、大き目のマスクも。
再びホテルに向かう後姿を追いながら、美海は尼崎を先輩に持ったことを誇りに思った。あのワンピースは間違いなく本山に似合うだろう。そして、彼女の傷ついた心を刺激しない優しいデザインになっている。
再びドアがノックされた。今度は覚悟を決めていたのか、すぐさま返事が帰ってきた。
カチっと鍵の開く音が聞こえ、ほんの少しだけドアが開いた。
「サイズはそれでいいかしら。」
「ええ、ありがと…う。」
最後は嗚咽とともに聞こえてきた。尼崎はあえていつものような調子で声をかける。
「じゃあ、もう行くわ。須磨くんならさっき下で出会ったから、今頃自分ちにでも逃げ帰ってるでしょう。私達もうしばらく道路の向かいのレストランにいるから、もしよかったら顔見せてよ。」
「わかった。気が向いたら、ね。」
その後、長い間レストランにいた二人だったが、結局本山は現れなかった。駅で尼崎と別れたまま、美海は自宅にもどることにした。本山を待っている間に、美海は尼崎の昔話を聞いた。それは美海の想像を絶するような壮絶なものだった。
人はどうして自分の大切な人までも傷つけてしまうのか。尼崎は母親の人格障害に振り回され、虐待された少女時代を送っていた。しかし、今の彼女からはそんな過去は見えてこない。
「早めに一人暮らしを始めたのには、そういうわけがあったの。でもね。自分で生きていく力をつけるのには一人暮らしが最適よ。辛いときもあるだろうけど、吉野さんもがんばってね。悲しい事や辛い事をたくさん知っている方が、人の優しさには敏感になれるものだから。」
母のような、姉のような暖かな眼差しが思い出される。私も、あんなふうに暖かい表情が出来る人になりたい。美海は素直にそう思えた。
アパートの近くまで帰ってくると、向こうから男性が一人、とぼとぼと歩いてくるのが見えた。
以前の嫌な思い出が甦って美海は身構えた。少しずつ近づいてくるその影をぱっと街灯の明かりが浮かび上がらせた。
「チーフ!」
街灯に浮かび上がった人物はぼんやりと顔を上げ、相手が美海だと気付くとすぐさま駆け寄ってきた。
「吉野さん!大丈夫なんですか? 昨日怪我したばかりなのに、どこに行ってたんです?」
綾部の言葉にはっとした。そうだった。自分は怪我をしたので仕事を休んでいたのだ。まずいところで綾部にあってしまったと後悔するが後の祭りだ。
「すみません。尼崎さんと一緒に晩御飯食べることになって。」
「やっぱりあの時見かけたのは吉野さんだったんですね。これ、落としたでしょ?」
綾部は上着のポケットから携帯電話を取り出した。まさかとカバンを確かめるが美海の携帯は見つからなかった。
「慌てて声をかけたんだけど、すぐに人ごみに紛れてしまって…」
ああ、なんてドジ。さっきまでの高揚した気持ちがあっという間にしぼんでゆく。
「どうも。」
携帯を渡されても、なんとなく素直に謝れない。自分が悪いのは分かっているのに。どうしてこう自分はいつも素直じゃないんだろう。情けなさが鼻の辺りまで溢れて、ツーンとなる。
大きなため息が聞こえてきた。やっぱり呆れられたんだ。昨日は昨日でチーフの話も聞かないで自分のことばっかり聞いてもらおうとしていたし、その上怪我して病院に運んでもらってたのに、今日はちゃっかり出歩いて。ああ、しかもこんな時間。
美海が腕時計をみると、すでに10時を回っていた。走り回った割には本山を助ける事も出来なかった自分に嫌悪感すら覚える。恥ずかしい、消えてなくなりたい。こんなところでは泣きたくなかったが、じわじわと涙が溢れそうになってきた。
「吉野さん。あんまり無理しないでくださいよ。」
「チーフ…。勝手ばかりして、すみません。」
やっとの思いで言葉を搾り出した。綾部の手がふいに額に触れて、胸がきゅんと音を立てる。
「傷口、落ち着いているようですね。なんでもなければそれでいいです。僕は、僕はただ…」
躊躇いがちに紡がれる言葉を、遮るように携帯電話が鳴り出した。一瞬困ったような顔をして、携帯を取り出すと、美海にちょっと手を上げて申し訳なさそうに電話に出た。
電話の相手とはなにか真剣な話をしているようで、綾部は終始真剣な表情をしている。そして電話が切れると、再び美海に向き直った。
「吉野さん。今日は大変な働きだったんですね。今尼崎さんから電話を頂きました。本山さん、大変だったんですね。僕は、恥ずかしいです。同じ男として彼の異変にもっと早く気付くべきでした。」
「私、少しは役に立ったのでしょうか。」
「もちろんです。だけど、やっぱり無理はしないで下さい。」
ほんの一瞬だったが切なさを覚えるような瞳の色を見て、どきりとしてしまう。しかし
綾部は何事もなかったように屈託なく笑う。美海はそんな笑顔に癒されるのを感じた。
「室長には僕から伝えておきます。もしかしたら出張の予定を繰り上げてもらうことになるかもしれません。」
「須磨さんの生い立ちと何か関係があるのでしょうか。」
「どうでしょうね。でも、それは僕達が考えるべき事ではないでしょう。とりあえず、今日は早く休んで、明日に備えてください。」
逆らえないような優しさとゆるぎない何かを感じ、美海は素直に帰ることにした。じゃあとその場を離れてアパートに向かって歩き出す。振り向くとさっきの場所で綾部が見守っている。
なんだろう。この心地よさ。
気持ちがどんどん穏かになっていく。美海はぺこりとお辞儀をして、部屋に帰った。
翌朝、いつものように出社してお湯を沸かしベランダの花の手入れをした。みなの机を拭いていると、事務所のドアが開いた。
「おはようございます。」
振り向きながら声をかけた美海は意外なその顔に驚いた。三宮室長だったのだ。
「おはよう。やっぱり早いね、吉野くんは。」
三宮は少し疲れたような影を秘めながらも笑顔でベランダに向かった。そこで1つ深呼吸すると、美海に向き直って深々と頭を下げた。
「すまん。出張中の事とはいえ、君たちにまた迷惑をかけてしまった。私もうすうす気付いてはいたんだが、そこまでひどい状況だったとは思いも寄らなかった。淳也は、いや、須磨くんには昨日付けで退職してもらったよ。本山くんから被害届は出されていないが、軽視するわけにはいかない。しばらくカウンセリングを受けることになるだろう。」
深く刻まれたしわが一層際立って見えた。三宮は手近なイスに腰掛けて、両手で顔をこするようにした。
「そうですか。」
手に持っている雑巾を手持ち無沙汰に握り締めて、美海はソフトクリームを差し出してくれたときの須磨の顔を思い出していた。
「私もこの夏で退職だ。今までいろいろとありがとう。」
「室長!どうして室長まで辞めちゃうんですか?」
美海は少なからずショックを受けた。しかし三宮は笑って答える。
「いやなに。どうせ定年退職まで1年足らずだったんだ。ほんのちょっと早くなっただけなんだ。
淳也が言ってたよ。君と話をしているうちに、もしかしたら自分がやっていることは間違っているんじゃないだろうかって思うことがあったと。
今まで一度も自分を振り返ることなどしなかったのに。」
三宮はふと優しい表情をして何度も何度も小さく頷いていた。
「すまないね、忙しいときに。ただ、吉野くんには先にお礼を言っておきたかったんだ。詳しいことはまた朝礼のときに話すことになるだろう。じゃあ。」
三宮はゆっくりと立ち上がると、室長室へと消えていった。
朝礼が終わってそれぞれが仕事を始めると企画室内は噂話でざわめいたが、須磨と本山、二人の席が空いたチームAは口を閉ざしていた。
「いい加減にしないか! 須磨君は迷惑をかけていたことに違いないが、病んでいたというのだから仕方がないだろう。責任を取ってやめたのだから、それ以上笑いものにする必要はない。」
企画室内がしんと静まった。声を上げた本人は、言うだけ言うとそっと席に戻って表の色塗りに集中した。その時、ノックが聞こえ、西宮が入ってきた。
「ごめんなさい。大矢さん、室長室までおいでください。」
のっそりと立ち上がった大矢が素直に西宮に従った。背中を丸めた後姿が消えると、美海は一抹の不安を覚えた。室長が退職する前に、大矢の進退について何らかの結論が出されたのかもしれない。大矢は普段は表の色塗りばかりしているが、それは本当の姿ではないはず。それは以前須磨が伝説の営業マンだと話していたことからも想像がついた。
それに…。 美海は故郷からの帰りに駅で見かけた大矢の意外な一面を思い出す。迷子の子どもを保護していたときだ。
午後になっても大矢は席に戻らず、時間だけが過ぎていった。3時になってコーヒーを淹れていると、今度は綾部が室長室に入っていくのが見えた。
何かが変ろうとしているのかもしれない。三宮の今朝の表情から考えて、悪いようにはならないだろうと予測はついたが、誤解されやすい大矢の進退だけが気がかりだ。
企画室に戻ってコーヒーを配り始めると、大矢がのんびりと帰ってきた。いつものように背中を丸めていたが、その手は机の上の書類をかき集めて片付けている。
何があったんだろう。
美海はそっと大矢の机にもコーヒーカップを置いた。
「いつも、ありがとう。」
「えっ?」
驚く美海を不慣れな笑顔が包んだ。
「私もまた、がんばるよ。」
そういうと、慌てて席を立ち、今までの営業ファイルを何冊も引っ張り出して読み始めた。美海は、なぜか心が浮き立ってくるのを感じていた。きっとこれが大矢の本来の姿なのだろう。
その日を境に大矢が室長室に入り浸るようになってきた。日に日に顔つきも明るくなってくる。時には室長室から笑い声が漏れることさえあった。
本来大矢が在籍していたチームBは、猫背の中年男を戦力と見なしていなかったので、仕事に支障が出ることもなく、不思議なぐらい平穏な毎日が続いている。しかし、その進退がどうなるかという噂は一向に流れては来なかった。
アパートに帰ると電話が鳴っていた。慌てて靴を脱ぎ捨てて受話器を掴み取る。
「もしもし」
「あ~んた! なにやってるのよ。もうすぐお盆休みでしょうに、なんで連絡してこないの? 父さんがアンタの予定を聞けってうるさいのよ。」
「ごめん。いろいろと忙しかったのよ。そうねぇ、休みは12日からだから11日の夜から帰れるかな。でも、あてにしないで。一昨年みたいに急に仕事が入ることもあるから。」
会社のことばかり考えていたら、いつのまにか夏季休暇が目の前まで迫っていた。父が予定を聞くということは、旅行にでもいくつもりなのだろうか。
美海は、一昨年急に入った仕事で夏季休暇が9月になるまでもらえなかったことを思い出していた。父は普通のサラリーマンなので、休みもきちんともらえるようだが、近所のお土産物屋でパートタイムの仕事をしている母や顧客からの依頼でどうしても動かざるを得ない状況が生じやすい自分はそうもいかない。
母はできるだけ夫の意向を汲もうとしているようだが、そればっかりは付き合うこともままならない。
「もう、アンタはノリが悪いねぇ。芳雄なんて二つ返事で旅行に行こうって言ってたのに。」
「芳雄がぁ?」
大学生にもなって親と旅行に行きたいなんて、あやしい。
「あの子は片道だけよ。向こうでどうしても調べ物がしたいんだって。勉強熱心なことよねぇ。あははは。」
「やっぱり…。何の勉強してるんだか。」
「片道だけでも荷物持ちしてやるよって言うんだもの。親孝行だよ。」
まったくおだて上手なやつ。
美海は旅の行き先とすでに予約された日程をメモして電話を切った。
「はぁ、尼崎さんはフィジーで本山さんはハワイ。塩見さんは御主人のご実家がある北海道に行くって言ってたのになぁ。なんで私だけ千鳥山温泉なのよ。オマケにお宿はまるきち旅館。毎年おんなじ場所じゃない。」
千鳥山温泉は熱海のような隆盛を誇った時代はないが、同じぐらい歴史の古い温泉地で、わびさびを求める大人が好んでいく温泉だ。レストランや喫茶店は70年代の雰囲気を色濃く残し、美海らのような若者には退屈な場所でもある。
毎年の事ながら、実家からこの類の電話が入ると、美海はブルーな気分で出社することになる。こんなことなら、いっそのこと仕事が入ったほうがずっと気が紛れるというものだ。
その日も黙々と掃除を済ませ机を拭いていると、綾部が出社してきた。険しい表情からなにかトラブルがあったらしいと美海も身構えた。
「吉野さん、お盆休みの予定は決まりましたか?」
突然の話に美海は思わず首を振った。
「申し訳ないのですが、先日のうちの企画にちょっとした問題が生じてしまって、どうやらうちのチームからも誰か現地に行かなければならないようなんです。僕は当然行くとして、もう一人連絡係をお願いしたいのですが、頼んでもいいでしょうか?」
「その企画って、本山さんが先日ぼやいていた…」
綾部は肩を落としてため息をついた。
「そうなんです。顧客のやり方が強引だったので心配していたのですが、やはり想像通りの結果になりました。ただ、本山さんは旅行の予約が入ってしまったということですし、元々の担当は須磨さんでしたから、困り果てていて…」
「わかりました。承ります。」
美海は半分やけっぱちで了解した。千鳥山温泉より仕事の方が、気が紛れる。綾部はほっとした表情になって礼を言った。その表情に随分と救われた気分になる。
午後になって、本山が美海の元にやってきた。
「吉野さん、ごめんね。お盆休みの予定はよかったの?」
申し訳なさそうな本山だったが、美海には好都合だった。
「気にしないで下さい。たいした予定もなかったし。」
「ありがとう。綾部チーフは貴方に譲るわ。」
楽しげに笑っているが、無理をしているのがわかる。頬の腫れは引いたが、心の傷は残っているのだ。それでも美海にはその心意気が嬉しかった。
それからの日々は、あわただしく残務整理に追われた。気がつけば夏季休暇前日。同僚たちが楽しげに帰って行った企画室に、ぽつんと綾部と美海が残った。美海は綾部から渡された書類を見て唇をかみ締める。出張先の千鳥公園美術館は千鳥山のふもとにあり、両親が向かう千鳥山温泉に向かうには必ず通る場所だ。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ。実は、うちの両親は毎年夏になるとこの千鳥公園のすぐ近くの温泉地に行くんです。子どもの頃は、私や弟もずっと付き合わされていたんですよねぇ。」
「へぇ。家族で毎年温泉に行くなんて仲がいいんですねぇ。素敵なご両親だなぁ。」
でも毎年同じ古い旅館ですよ、と心の中で毒づく。
ある程度打ち合わせが進んだところで、西宮が顔を出した。
「ごめんなさい。そろそろ戸締りしたいんだけど、いいかしら。出張に持っていく書類、忘れないでね。」
「じゃあ、続きはご飯でも食べながらにしましょう。」
綾部はそういいながらさっさと書類を片付けた。美海もそれに従って慌てて企画室を出る。
「じゃ、いい夏休みを!」
「ありがとう。お二人には申し訳ないわねぇ。休み明けに代替の休暇を申請してね。」
西宮はそういうと足早に帰っていった。足取りが軽やかなのは、何か計画があるからだろう。
食事をしながらの打ち合わせは簡単なものだった。
「イベントの日程は4日ですが、準備がありますので前泊してもらいます。あと1日だけ予備日があります。スムーズにいけばイベントが終了しているはずなのですが、アクシデントがあったときのためにとってあります。」
「つまり、ちょうど夏季休暇の日程とぴったり一致しているわけですね。」
「もちろん、その間に土日が入りますので、その分の代休は夏季休暇とは別に取っていただいて結構です。」
申し訳なさそうに答える。しょうがない、がんばるか。休んだとしてもこの会場のすぐ上で温泉に入るだけで、あとは死にそうに暇な時間をやりすごさねばならなかったのだから。
部屋に帰るとスーツケースに荷物を詰め込んだ。これが恋人との夏の旅行だったらどれだけ良かっただろう。ふとそんな思いがよぎる。しかしそれも仕事ではしょうがない。おしゃれの必要もない出張だ。荷造りはあっさりと終わった。
朝になると美海はせっせと洗濯した。かんかん照りのお天気ならどんなに干してもお昼までには乾いてしまうだろう。柔軟剤の香りがふと心を和ませる。空を見上げると大きな入道雲がそびえたっていた。
午後になって洗濯物を全部片付けてしまうと、真っ白のTシャツとジーンズといういでたちに着替えた。今日は到着早々、会場での荷物運びなどの労働が待っているという。美海はスーツケースを抱えてまぶしい光の中に飛び出した。
「あら、旅行?いいわねぇ、OLさんは。」
階下の主婦が笑顔で声をかけてきた。
「いえ、仕事なんです。4,5日留守にします。じゃあ。」
あら、と少し驚いた顔をした主婦だったが、それでもにこやかに手を振った。駅前では魚政の政義に声をかけられた。魚政も翌日から3日間は休暇になるという。
「息子にせがまれちゃしょうがないや。ミッキーマウスと一緒に写真を撮るんだとさ。」
歳の割りに深く刻まれた額のしわをより深くして、語る表情は迷惑そうでもあり、嬉しそうでもあった。
政義がミッキーマウスと並んでいる姿を想像して、美海はクスッと笑ってしまった。
「親孝行してきなよ。」
手を振って歩き始めた美海の後ろからそんな言葉が投げかけられた。そうか、誰が見ても実家への帰郷と思うんだなと納得する。
電車に乗って主要駅まで来ると、綾部が向こうのホームで手を振っているのが見えた。思わず手を振り返してから周りの視線に気がついた。こんな時期にこんな年頃の男女がそれぞれスーツケースを持って別々に現れたら、どういう関係だと思うだろう。
改めて綾部を見ると、今日はジーンズとチェックのシャツ姿だ。準備があるというので、汚れてもいい格好をと指定していただけのことはある。自分もジーンズにTシャツ姿なのだから、仕事には見えない。
階段を上がって向こうのホームまで行くと、書類に目を通していた綾部がふと顔をあげてどぎまぎと視線を泳がせた。
電車が入ってくると、ざわざわと行楽客が吸い込まれていく。それに混じって綾部と美海も電車に乗り込んだ。綾部が先に進み、それに美海が続く。指定席に収まると二人の荷物を綾部が荷台にあげた。前のシートでも男女が座り、男が荷物を荷台に上げていた。
「ここからだと2時間はかかりますね。」
「ゆっくり休んでてくださいね。向こうに到着したら最終打ち合わせに参加して、そのまま大道具の運び込みを手伝う事になりそうなのです。吉野さんは備品の準備をお願いします。リストはこれです。」
渡されたリストに目を通していると、前のシートからは楽しげな笑い声が聞こえてきた。合間には昼間の公の場にはふさわしくない声も混じる。こちらは仕事だというのにいい気なものだ、と顔を上げると隣では書類で顔を隠しながらも耳が真っ赤になっている綾部がいた。
しばらく走ると電車はトンネルに入った。ガラス窓に映る自分の姿をみて、ふと昨日の電話を思い出す。
「あら、仕事なの?せっかく一緒に旅行に行こうと思ったのに。」
「ごめん。でも仕事だもん、しょうがないでしょ?」
「あ~あ、まさかアンタからそんなセリフを聞くとは思わなかったわ。」
諦めたようなあっけらかんとした口調で母親は笑っていた。
「なにそれ?」
「母さんのお父さんはね、仕事人間だったのよ。だから、父親と一緒に出かけた記憶なんて殆どなかった。母さん、それが寂しくてねぇ。結婚するときはちゃんとカレンダー通りに休みをもらえる人にしようって決めてたのよ。それなのに、まさか娘から言われるとはねぇ。」
「ごめん…」
もっと捲くし立てられると思っていた美海は肩透かしを食らった気分だった。
「しょうがないわね、仕事だもの。だけど父さんはきっと寂しがるわよ。アンタもそろそろお年頃だから、あと何回一緒に旅行に出かけられるだろうなぁって、昨日もそんなこと話していたのよ。」
何事もないようにそのまま電話は切れてしまったけれど、心に何かが引っかかったまま、美海は仕事に出かけていた。
会場に到着すると、荷物を解く暇もなく、すぐさま打ち合わせに参加した。出迎えたのは顧客である美術館の広報部長の元町だ。彼は日本人らしからぬ鼻の高さと鋭い眼差しが特徴で、担当者に全て任せてあると言いつつ細部まで口を挟む気難しい男だ、ということは本山から確認済みだ。
本山が手配した業者の人間やスポンサーも立会い、結構な人数が集まって最終打ち合わせが行われた。それが終わると、綾部は業者に混じってイベントの大道具の準備にかかり、美海は元町の秘書だという姫路という女性の手伝いに駆りだされた。
やるべきことが与えられると時間はあっという間にすぎた。準備が終り、部屋に帰ったのは夜9時を過ぎた頃だった。
ベッドに寝ころがって一息ついていると、小さなノックが聞こえた。
「吉野さん、もう晩御飯食べましたか?」
綾部の疲れた声がしていた。そういえば忙しさに紛れて忘れていた。美海は慌てて身なりを整えて綾部に合流した。
ホテルのレストランはそれぞれのテーブルの真ん中に小さなキャンドルをともし、街のレストランとはちょっと雰囲気の違う時間を提供していた。しかし、なれない力仕事をした綾部にはそれを楽しむ余裕もないようだ。
食事が終わった綾部に、念のために持参していたドリンク剤を手渡し、「あと4日!がんばりましょう!」と励ます美海だった。
それから4日間は時間が飛ぶように過ぎていった。そろそろこの作業にも慣れてきたと美海が思い始めた頃、イベントは無事終了した。
予想以上の来客数に元町の頬はゆるみっぱなしだ。
「皆さん、ご苦労さまでした。今日は館長からお許しが出ているので、打ち上げパーティーを開催いたします。隣のホテルの広間に集まってください。」
みながその言葉に従って大広間に行くと、すでにしっかりと宴会の準備がなされており、館長の乾杯の音頭とともに打ち上げパーティーは始まった。
「本当は夏休みだったんでしょ?申し訳なかったですねぇ。」
すっかり打ち解けた姫路が美海に声をかけてきた。休暇を返上しているのは姫路も同じであろうと美海が健闘を称えあう。居合わせた人々と達成感を味わいながら、美海はこの仕事を引き受けてよかったと思った。
夜も更けて、それぞれが引き上げていく。美海も姫路が席を立つのにあわせて退散した。部屋に帰るとどっと疲れが押し寄せる。部屋の窓から見下ろす景色はぽつりぽつりと灯りが見えるだけで簡素なものだ。そんな中で等間隔に光っているのはロープウェイのライト。その上にあるささやかな光の集まりは、千鳥山温泉の集落だろう。
今頃両親ものんびりしているだろうか。私が仕事だと聞いて残念そうにしている父の顔が浮かんで胸が痛んだ。
シャワーを浴びてジャージに着替えているとにぎやかな声が聞こえてきた。声の感じからそれが元町部長と大道具の担当だった塩屋だと分かる。これから綾部の部屋で飲みなおそうとでも言うのだろうか。
すると、急にドアがノックされ「吉野さーん!」とご機嫌な合唱が響き渡った。美海は恥ずかしさでパニックに陥った。
慌ててドアを開けると、真っ赤に茹で上がった中年男が二人、べろべろに正体をなくした綾部を担いで立っている。
「すまんねぇ。コイツ、思ったより弱くて歩けないんだよ。ちょっと見てやってくれないか。」
そういうと驚いて絶句している美海にそれとばかりに綾部を投げ渡した。そして、二人は楽しげに、「綾部くん、がんばれー!」「ファイトだー!」などと叫びながらエレベータホールへと消えていった。
美海は驚きのあまりどうすることもできないまま二人を見送った。酒の匂いがぷんぷんしている綾部は完全に泥酔状態で、ともすればバランスを崩して倒れてしまいそうになる。
とにかく、ソファに座らせて水でも飲ませなくちゃ。
美海は引きずるようにして部屋の奥へと酔っ払いを運んだ。
「チーフ!しっかりしてください。」
「ああ、吉野さん。僕は悔しいんですよ。元町部長に意気地がないなんて言われてたまるかー! 僕だって、言うときはちゃんと言えるんですから。よ、吉野さん。僕はねぇ。僕は…」
「チーフ、しっかりしてください。ほら、そこのソファに座って…。きゃっ!」
ふらふらした綾部の足が美海の足と絡まって、二人は折り重なるようにベッドに倒れこんだ。
「吉野さ~ん。酔っ払ってしまいましたぁ。せっかくかっこよく告白しようと思ったのに、残念でありまぁ~す。」
「チーフ…。く、苦しい」
綾部は緩みきった顔をゆっくりと上げ、美海がすぐ下にいるのに気づいた。
「吉野さん…。」
「えっ?!」
美海が驚いている間に綾部が唇を押し付けてきた。
暑苦しい息が顔面にかかる。うっ!お酒臭い!それなのに、体の奥から温かな感情が沸き起こってくるのはどうしてだろう。
再び顔を上げた綾部は、そのまま隣に倒れこんで静かな寝息を立て始めた。体を起こして、美海は自分の唇にそっと手を当ててみた。心臓がバクバクと音を立てている。夢なのか?いや、夢ではないだろう。気持ち良さそうな寝顔がすぐとなりにある。
なんとか頭を冷やしたくて、アイスボックスを持って部屋を出た。ガラガラと氷を詰め込んで部屋に帰るが、綾部はさきほどの格好のまま寝入ってしまったようだ。棚にセットされたグラスに氷とミネラルウォーターを入れて一口飲んでみる。
冷たい感覚がするするとのど元を通り過ぎ、胸の奥までもきゅんと締め付けた。エアコンの効いた部屋は寝るには肌寒い。どうにも起きそうにない困った酔っ払いの隣にそっと横たわり、美海は綾部の寝顔を見つめた。酔っていたとはいえ、綾部のキスは美海の心を大きく揺さぶったようだ。
だけど、と美海は視線を落とす。9年前のあの事故のことを話しても、綾部は気持ちを変えずにいてくれるのだろうか。それを考えると目の前がゆらゆらと波打ってくる。シーツの端で涙を拭うと、綾部の肩にそっとタオルケットをかけた。
朝方、綾部はぼんやりと目を覚ました。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。頭を上げようとして、ひどい頭痛に呻いた。
しまった。昨日は元町部長に随分と飲まされてしまったのだ。あれからどうなったんだろう。カーテンの感じからすると部屋まで運んでもらったのだろうか。
ゆっくりと寝返りを打ってその手に何かが当たって驚いた。ズキズキする頭をゆっくりと起こして見るとどうやら誰かが隣で寝ているようだ。元町部長かと目を凝らすと、それが女性だとわかって愕然とする。
よくよく見ると、何処かで見た覚えがある。そこで綾部は息を呑んだ。隣に眠っているのは間違いなく夢に出てくる彼女なのだ。やっと美海に集中しようと決心したのに、どうしてこういうときに現れるんだ。綾部は頭を抱え込んだ。
どういう理由でどうなって同じベッドに眠っているのか、さっぱり分からない。まさかと身なりを整えるが、余計なことはしていないようだ。ほっと胸をなでおろしたのも束の間、女性がかすかに目を覚ましかけている。
綾部は女性が目を覚まさないように、そっとベッドから抜け出して洗面所に向かった。
鏡に映った男は、二日酔いでひどく疲れた顔をしていた。無精ひげが伸び、どうにもみっともない。冷たい水で何度も顔を洗ってみたが、どうやら夢ではないらしいことがわかっただけだった。
そのまま窓辺においてあるカバンを取りに行こうとして違和感を覚える。昨日の夜置いておいたはずのカバンが見当たらない。改めて室内を見渡すと、そこが自分の部屋ではないことがわかった。
カーテンを少しだけ開いて外の景色を確かめると、どうやら自分の部屋からそんなに遠くないようだ。
ベッドに戻ってもう一度彼女の顔を確かめる。あどけなさの残るその寝顔は毎晩のように夢にでてくる彼女に違いないと確信する。顔にかかった髪をそっと後ろに流してやると、魔法が解けたように目を覚ました。
「ん…。 チーフ?」
「え? 吉野さん?!」
綾部はひっくり返りそうになって驚いた。やっぱりこれは悪夢か?夢に出てくる彼女だと思っていたのに、いつの間にかそれが現実の生身の女性にすり替わっていたのだ。
「すみません。チーフの部屋までお連れすることができなくて。」
美海はそういいながらベッドに座り込んで目をこすったかと思うと、あくびをかみ殺している。
「二日酔い、してないですか? 昨日は随分飲まされてましたね。」
「こちらこそ、ごめん。昨日は元町部長にいろいろ説教されて、その後どうなったのか、その…、正直覚えていないんです。」
「ええ!? 覚えてないんですか!?」
そんなぁ…。 こっちはすっかりその気になっちゃったのに。美海は泣きたい気分だった。
「もしかして、何か迷惑なことしちゃったでしょうか。」
ベッドの脇に座り込んで探るような上目遣いの二日酔い男にムッとする。そこで美海は取引を考えついた。
「迷惑な事、されました。」
「えっ!!」
「だけど、私も謝らないといけないことがあります。だから…」
「謝らないといけないこと?」
さっきまで青くなっていた綾部が不思議そうに聞き入っている。まだ頭はズキズキしているが、今はそれどころではない。
「そうなんです。だから、今から話すことと相殺してください。」
「わ、わかりました。伺いましょう、その話。」
綾部は意を決したように、イスをベッドの傍まで引き寄せて座った。美海は少し深呼吸して一気に9年前の事故について話した。
「これが、私が謝らなければならない話です。すみません。ひどいですよね。付き添いもせず謝りにもいかないで…。」
とりあえず言い終わったものの、美海は正座した膝の上に重ねた自分の手のひらから視線を上げる事ができなかった。
どんなに罵倒されてもしかたないかもしれない。
しかし綾部の反応はまったく逆だった。不意に両肩をがっしりとつかまれて、驚いて思わず顔を上げた。目の前には満面の笑顔の綾部がいる。
「ありがとう。この話は謝ってもらうことなんかじゃありませんよ。ずっと気になっていたあの夏のことが、ようやくわかったんですから。それに、夢の女性の事も!」
そういうと再びイスに座り込んで感慨深げにつぶやいた。
「そうか、その頃から僕は…。 あ、じゃあ。僕がやってしまった迷惑な事ってなんだったんでしょう」
美海は一瞬真っ赤になって言葉を失った。その様子をみて今度は綾部が青くなる。
「あの、言いにくいとは思いますが、お願いします。」
綾部はイスから降りて床に座り込んだ。そして、どんなバツでも受けますとばかりに地面に手をついて土下座した。
「昨日の夜。元町部長と塩屋さんが泥酔状態のチーフを連れてきたんです。それで…」
「それで?」
綾部が顔をあげる。眉が八の字になっていた。
「介抱してやってくれと言われて、とりあえずソファに座ってもらおうと思ったんですが、足が絡まってベッドに倒れこんじゃって…」
「ベッドに、ですか。」
八の字の眉はそのままに頬がどんどん赤くなる。
「下敷きになって苦しくてもがいていると、チーフが顔を上げて、そのままその、キスを…」
「えーーっ!!」
頭の中が真っ白になっているのが美海にもわかった。
「だけど、私が怒っているのはそのことではないのです。」
「な、何をしでかしたのでしょうか。」
綾部はすっかり涙目になっている。美海はベッドからするりと降りて、自分も綾部の座り込んでいる床にぺたんと座った。
「覚えていないって言いましたよね。そのことを怒っているんです!」
理解できずにぼーっと美海の顔を見ている綾部に、ぐいっと顔を近づける。興奮しているのか鼻の頭が赤くなり、目は涙目になっていた。
「人をその気にさせておいて、覚えていませんとはどういうことですか!」
涙がゆるゆると揺れていた。それがぽたりと一滴床に落ちたとき、綾部はやっと我に返った。
「い、今、思い出しました!」
綾部はしっかりと美海を抱きしめて、ゆっくりとかみ締めるように言った。
「僕は、僕はただ、君に会いたいがために今まで生きてきたのかもしれない。だから事故のことは覚えていなくても君の事はずっと忘れなかったんだ。」
美海はそっと自分の腕を綾部の背中に回した。意外にしっかりとした体格に、今さらながらどぎまぎする。
二人がもう一度見つめあったとき、美海の携帯電話が鳴り出した。
「美海かぁ? おはよう。仕事は終わったか?」
「父さん!! ん、イベントは昨日終わったけど…。」
「なんだ、後片付けがあるのか? もし、早く終わりそうならこっちに合流しないか。ここの角煮は最高なんだよ。来られるようならごちそうしてやろう。」
「父さん…。私だって何回もその宿には泊まっているもん。角煮がおいしいのは知ってるよ。でも、まだ予定が立たないから、また連絡するね。」
電話を切ると、綾部が意を決したような顔で言った。
「お父さんからの呼び出しですか?」
「ええ。まだその先の温泉にいるから合流しないかと…」
「行きましょう! 千鳥山温泉はすぐ目の前じゃないですか。お父さん、さみしかったんですよ、きっと。」
綾部はすっかりその気になって、返事も待たずに慌てて自分の部屋に戻ってチェックアウトの準備を進めた。
荷物をフロントに預けて、ホテル内で綾部と朝食をとる。今日もまぶしい日差しが降り注いでいる。ブッフェスタイルの朝食をそれぞれ皿に盛って席につくと、ほとんどが同じ料理でおかしくなる。
料理を食べているときも、パンをほお張るときも、綾部の目はずっと美海から離れなかった。美海以外なにも見えないかのようだ。
「チーフ、お願いですから普通に食べてください。そ、そんなに見られていると、はずかしくて食べられないです。」
「えっ?! あ、ごめん…」
このまま綾部は自分と一緒に温泉地まで行く気なのだろうか。そうなるとして、自分は両親になんと紹介すればいいのだろう。
美海はじわじわと迫ってくる状況に戸惑っていた。
今朝、ステディになったばかりの綾部を恋人と紹介するべきなのか、それとも上司であると言うに留めればいいのか…。 もちろん、綾部にも何か考えがあるのだろう。今は夢見心地なこの若い上司が、自分の両親の前にでて、なんと自分を紹介するのか想像できなかった。
食事を終えると、コーヒーが飲みたくなる。これはいつもの癖だ。コーヒーメーカーのあるコーナーに行くと、自然とカップを2つ取り出してコーヒーを運んでいた。
「どうぞ」
綾部がテーブルの横に立つ美海を見上げて、ぱっと顔を赤らめた。
「どうかしましたか?」
「あ、いや。あの、もしも結婚したら、朝ごはんはこんな風に二人で食べるんだろうなぁって、そんなことを想像していたものだから。想像と現実がごっちゃになってどぎまぎしました。」
今度は美海が赤くなる番だ。
「だけど、ほんとにそうなればいいのにと思います。吉野さんはどうですか?」
まっすぐな眼差しが日の光のように美海を包み込む。心の中で何かが揺るぎないものへと変わっていった。
「チーフ、両親に会っていただけますか?」
「はい。」
美海はすぐさま携帯電話を取り出し、父親に連絡をとった。
「父さん、今からそちらに向かうわ。」
「そうかそうか。芳雄のヤツ、荷物だけ運んだらさっさと何処かに出かけたんだ。せっかくうまいもんを食べさせてやろうと思っていたのに…」
電話の向こうで父をたしなめる母の声がしている。年頃なんだからとかなんだとか…。
「それで…。彼と一緒でもいいかな。」
電話の向こうで大騒ぎしている声が聞こえてくる。美海は思わず笑顔になった。
ホテルを出て温泉地へと向かう。タクシーは山の上へとのんびり上っていった。膝に置いた手に、大きな温かい手が重ねられ、冷房の利いた車内にいる美海の頬を紅潮させた。
しばらくすると綾部の携帯電話が鳴り出した。真面目な様子で聞き入っていた綾部はゆっくりと笑顔になった。
「わかりました。では休暇を頂いた後、すぐさま打ち合わせをしましょう。がんばってください!」
電話を切ると、美海に向かってにっこりと微笑んだ。
「大矢さんが、次期室長に決定したそうです。これからもどうぞよろしくって。」
「そうなんですか。よかった。」
美海は迷子のそばで励ましていた大矢を思い出してうれしくなった。
「もうすぐ千鳥山温泉街に入りますが。」
運転手に目的の宿の名前を告げる美海の横で、綾部の顔がぐっと引き締まった。
おしまい
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回はちょっと大人テイストでした。
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