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I just …  作者: しんた☆
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第2章 靄の中の恋模様

恋に不慣れな美海にも、やっと春の来たの?なんだか釈然としないまま、時間は過ぎていきますが。。。

 須磨との付き合いが始まって10日ばかり過ぎた頃、美海は階下の主婦に苦情を訴えられていた。


「あのね。貴方はまだ若くておしゃれしたり夜遊びに出たりとお忙しいお年頃かもしれませんが、うちは子どもが小さいのよ。せっかく寝付いたと思ったらお宅の洗濯機の音でしょ? 子どもには怖いみたいなんですよ、あの音。

 今まであんな時間に洗濯なんてしてなかったのに、どうして?なんだか服装も派手になっちゃって。お帰りも遅いし、余計なお世話かもしれませんけど、生活が乱れてるんじゃないですか?」


 主婦の目には敵意すら感じられ、美海をたじろがせた。


「ごめんなさい。最近帰りが遅くなってしまって。これからは気をつけます。」


 素直に頭を下げられ、主婦は怒りの矛先を失って自分の部屋へ引き返して行った。


 確かに毎日のように須磨の誘いがあり、美海はすっかり自分のペースを見失っていた。恋をして幸せなはずなのに、気持ちが安らぐことがない毎日。次の日、美海は初めて寝坊してしまった。


「ねえ、どうしちゃったの?恋やつれ? 最近随分きれいになったと思ってたら、なんだかお疲れ気味なのねぇ。」


 尼崎が心配げに声を掛けてきた。


「尼崎さん、恋と生活の両立って、どうすればいいんですか?」

「なにそれ? 吉野さんって、ほんとに真面目なのねぇ。」


 尼崎は楽しそうに笑うと、しばらく落ち込んだ様子の美海を見つめ、そして思い立ったように言った。


「そうねぇ、吉野さんと同じ一人暮らしだから、言わんとするところは分かるわ。私はね。洗濯や掃除や食品の買出しをする日は予定を入れないって決めてるの。どうしてもって時は午前中だけデートするとかにしているわ。気をつけてね。恋をすると夢中になるけど、自分の生活を犠牲にするような恋なんてありえないんだから。」


 美海ははっとした。自分より一人暮らしの長い尼崎の言葉は説得力があったのだ。二人の会話を知ってか知らずか、綾部が声を掛けてきた。


「吉野さん、体調でも崩しましたか? 今まで遅刻なんてしたことなかったのに。気をつけてくださいよ。一人暮らしする者にとって、病気は天敵ですからね。」

「ふふ、そういえばこの前の出張以来、チーフもひどい目に合われたようですもんね。」


 綾部は苦虫をつぶしたような顔になり、尼崎は楽しげに笑っていたが、美海には意味がわからなかった。


「あら?吉野さんにも回覧回ってたでしょ? チーフが風邪で熱を出されたから、有志でお見舞いに行ったのよ。確か、あの日は吉野さん都合悪いって聞いたけど。」

「あれ、そうだったんですか? 私、見落としてたのかなぁ。」

「それがね、私達がレトルトのおかゆを持っていってなかったら、チーフったらもうちょっとで餓死しちゃうところだったんですって。」


 尼崎の楽しげな話は続いていたが、美海は回覧が故意に止められたことに気付いて居心地の悪さを覚えた。



「今日はどうしたの?随分お久しぶりね。」

「ちょっとね。だけどもう限界だ。ほら、さっさと脱げよ。」


 男は気ぜわしく女の服を剥ぎ取ってベッドに押し倒した。女はそっぽを向いたまま体を預けている。


「吉野さん、最近随分きれいになったわね。」

「なんだよ、ヤキモチか?」

「まさか、もう?」


 女は胸をまさぐる男の腕をつかんだが、そのセリフの続きは男の唇にふさがれた。


「心配しなくても、お前は充分に魅力的だよ。」


 男は女の赤くなった耳元で囁くと、そのまま首筋に口づけながらじわじわと体をずらせてゆく。熱っぽいため息が女の口元から零れ落ち、二人は夢中になって己の欲望を満たしていった。



「まだ何もしてないよ。」


 タバコに火をつけて一息つくと、男は何事もなかったように言った。

 けだるいまどろみの中にいた女は、ふっと冷静な表情になる。


「結構ガードが固いんだ。そのくせ気ばっかり使って。こんなに手こずったのは初めてだよ。だけどその分楽しみだね。いつか絶対、あいつの口から僕が欲しいって言わせてやるよ。」

「可哀想だと思わないの? あの子、きっと初めてよ。」

「じゃあなおさら、相手は上手な男のほうがいいんじゃないの?」


 男は自信ありげににやにやと笑っている。


「私、そろそろ帰るわ。」


 冷たい一瞥を投げかけ立ち上がる女を男の腕がしっかりと引き止めた。


「ダメだよ。もう一回。 がっついてる姿は見せられないからね。それに、お前の体は最高だよ。10日間もがまんするのは大変だったんだ。」

「あん!悪いおと・こ…」


 言葉はいつの間にかあえぎ声に変わっていった。


 その頃、美海は洗濯物を所狭しと干していた。部屋干しの洗濯物は柔軟剤のやさしい香りで部屋中を満たしている。エアコンをドライにして窓を閉めようとすると、階下から小さい子の笑い声が聞こえてきた。


「よかった」


 心がほっと温かくなった。今まで通り早めに洗濯も終えられたし、尼崎に教えてもらってシリコン製の台を敷いたので、洗濯機の音も少しは静かになった。

 ご飯を炊く。魚政で買ったさわらを焼いて青菜を添え、味噌汁と冷奴を準備する。小さな声で頂きますと言うと、やっと自分らしい食事ができるんだという安心感が満ちてくる。


 食事の片づけをしていると、母親から電話がかかってきた。


「どうしてる?風邪ひいてないかい。」

「うん、大丈夫だよ。あ、母さん。私…」

「どうしたの? まさかあんたまで彼氏ができたとか言うのかい?」


 言い当てられて言葉がみつからない。


「あはは。まさかねぇ。あんたは昔から臆病だったから、恋愛は無理なのかもしれないね。

 そうそう、雅美おばちゃんが久しぶりにあんたに会いたいって言ってたわよ。もしかしてお見合いの話じゃないかしら。あの人顔が広いから。」


 母親は楽しげに話し続けていたが、美海の心は沈んでいくばかりだった。なんとか電話を切ると、小さなテーブルに突っ伏して考える。


 どうして自分は母親に須磨とのことを話せなかったんだろう。何度か重ねたデートでは、須磨はいつも優しくて、見栄えのする須磨と腕を組んで街を歩くとすれ違う女性達の視線を感じた。服装やメイクのことも須磨はたくさんのことを教えてくれた。それなのに…。



 答えが見つからないまま、美海は平日をやり過ごした。須磨からの誘いは体調が悪いと断り続けていた。しかし、それにも限界がある。週末は須磨と会う約束になっていた。

 

 週末がきて、美海は久しぶりに須磨と海岸沿いの公園を歩いていた。夏が近いせいか、日差しが強くなっている。しかし、いつもは笑顔を絶やさない須磨が、その日はどうも様子が違う。平日のデートを断ったのがいけなかったのだろう。覚悟はしていたが、不安な気持ちが広がっていく。

 須磨はまっすぐに前を見つめて歩いていたが、急に立ち止まって振り向いた。小走りに後ろを歩いていた美海はよろけ、須磨に抱きとめられる。ごめんなさいと言いかけた美海だったが、抱きしめる腕の強さに戸惑った。


「じらせ過ぎだよ。」


 須磨はそう言うと、不意に美海のあごを引き上げてあっという間にその唇を奪ってしまった。


 初めてのキス。もっと甘くて切ないものだと思っていたのに。


美海はどうしようもなく悲しくなって、あふれ出る涙を止められなかった。


「え?泣いてるの?キスぐらいで泣くなんて、25の女のすることじゃないよ。」

「ごめんなさい。」


 たしなめるように微笑んだ須磨に、美海はただ謝ることしかできなかった。


 違う。何かが違うのだ。説明のつかない違和感が美海を襲っていた。自分はここに居るべきではない。心の中で何かが叫んでいる。

 じわじわと体が後ずさっていく。早く何処かに逃げ出したい気分だった。


「どうしたの?」

「ごめんなさい…」

「ちょっと!」

「ごめんなさい…」


 気がつくと、海岸沿いの公園を通り抜け、ショッピングモールの中までたどり着いていた。ふりむいても須磨の姿はなく、どうやらパニックになって振り切ってしまったようだ。

後悔はするが、どうしようもない何かを感じていた。



―ジブンハ ドウシテ イツモイツモ ニゲダシテバカリナンダロウー


 自己嫌悪で頭がくらくらする。そのまま駅に向かうと、無意識のうちに美海は故郷に向かう電車に乗っていた。


「ちぇ。逃げられたか。」


 海岸を見渡せる公園のベンチに座り込んで、男は携帯電話を取り出してせわしなくメールを打ち出した。


『やっとキスまでたどり着いたよ。まったく、手間のかかる女だね。だけど、信じられるか?25にもなってキスだけでガチガチに緊張してたんだぜ。しまいには泣き出すしさ。昔のお前を思い出しちゃったよ。まったくかわいい女だよなぁ。

ヒマになったから、今から出て来いよ』


 送信されてほどなく、男の携帯が鳴り出した。


「アンタって、かわいそうな人ね。悪いけど、今日は会えないわ。じゃあ」


 電話は一方的に切れてしまった。


「困った女だね」


 男はのんびりとタバコをふかした。



 故郷の町まで帰ってきた美海は、あてもなく海沿いの道を歩く。同じ海ではあるが、その色も潮風の感じも全く違うと思う。

 

 懐かしさを覚えながらのんびりと歩いているとコンビニの前に行き当たった。とたんに空腹を覚える。美海はコンビニで昼食を買い求める事にした。


「やぁ! 元気でやってるかい?」


 驚いて顔を上げると、高校時代のアルバイト先の店長が目の前で笑っていた。ぼんやりと歩いていて気付かなかったが、その店は美海のバイト先の店だったのだ。


 時計を見るともう2時を回っている。この時間帯は客も少なく、バイトをしているときはいつも休憩タイムをもらっていた時間だ。

 店長も休憩中だったのか、店内の見える事務所の机に飲みかけのコーヒーが置いてあった。


「なんだ?お前さんがこんなところに来るってことは、何か悩み事でも抱えてるのか?」

「え?」


 美海が戸惑っていると、店長はコーヒーを飲み干してちょっと声を潜めた。


「ちょうどよかったよ。お前さんには言っておかないといけないなぁっと思っていたことがあったんだ。覚えてるだろ?9年前のあの事故のことなんだが。」


 事故と聞いただけで、美海の体は緊張した。はやり町の人々にも知れ渡っていたのか。しかし、続く言葉にもっと驚かされる。


「あの時のバイク野郎、実はうちの甥っ子だったんだ。あの日以来、どうも様子がおかしくてね。親にも何も言わないらしくてしばらく様子をみていたんだが、とうとう辛くなったらしくて、俺んところに相談に来たんだよ。」


 店長は、今相談に乗ったばかりのように眉間にしわを寄せてタバコに火をつけた。


 店長の話によると、慣れないバイクに乗って走っていた店長の甥っ子は、海の方でかもめが騒いでいるのが気になってちょっと余所見をしてしまったんだそうだ。事故はその直後に起こったらしい。気付いたときには目の前に少女の怯えた顔があり、それをとっさにかばった少年と衝突してしまったというのだ。


「じゃあ、私が飛び出したせいで事故が起こったわけじゃなかったんですか?」

「ああ、違うよ。甥っ子はじきに警察に出頭して大目玉を食らったよ。仲間に乗ってみろと勧められて、半ば強引に乗りなれない他人のバイクに乗せられてしまったんだそうだ。免許取立てだっていうのに。ばかだよ。

 相手の親御さんの方にも謝りに行ったそうだが、その親御さんてのがいい人でね。誠意を込めて謝っていたら、示談にしてくださったんだそうだよ。」


 しみじみと店長は語っていた。その相手の人というのは綾部だったのだろうか。聞き出したい気持ちをぐっと抑えて、店長の次の言葉を待った。


「それがね。2年ぐらい前だったかに、実はあの場所に吉野君がいたって言い出したもんだから驚いたよ。しかし、考えてみたら次の年はアルバイトには来てもらえなかったし、あの年も、後半はちょっと元気がなかったよな。年頃の娘なんだし、怖い思いをしてたんじゃないだろうか、自分のせいだと自責の念にかられてるんじゃないだろうかってね。気になってたんだ。相手の男の子は救急車で運ばれていったきりだったしな。」


 店長はそういいながら店の奥から缶コーヒーを1つ持ってきて、美海に差し出した。


「とりあえず、元気そうでよかったよ。おかえり。よく帰ってきたね。」

「私…。ちょっと落ち込んでて、知らないうちにこの町に帰ってきてたんです。でも、今日店長さんに会えてほんとに良かった。」


 美海はその缶コーヒーを大事そうに受け取ると、横の棚にあるサンドウィッチを取ってお金を払った。事故のことについては、あえて何も言わなかった。今はまだ驚きすぎて混乱している。


「また気が向いたら帰っておいでよ。」

「店長さん、ありがとうございました。」


 自分には、まだ居場所があった。 美海はほっこりとした気持ちで店を後にした。



 故郷の海はいいな。ほっとする。たまごサンドをほおばって、海からの暖かな風を胸いっぱいに吸い込むと、体の中にまで太陽の輝きが入ってくるような気持ちになる。

 夏が近いから海辺には子供連れやカップルの姿もある。だけど、疎ましさなど感じることはなかった。笑い声が潮騒に混じって浜辺をはじけ回っている。それがここの海なのだから。


 遠くで小さな叫び声が聞こえた。目を向けると、高校生ぐらいのカップルがしゃがみこんで砂浜に落ちた缶ジュースか何かを眺めている。女の子の嘆く声、軽快に笑う男の子の声。二人はそのまま立ち上がって、美海の前を通り過ぎていった。


「もう、サイテー! せっかく買ったのに。」

「しょうがないじゃないか。わざと落としたわけじゃないんだし。また買えばいいよ。」

「そういう問題じゃないでしょ! せっかく買ってあげたのに。」

「なんだよ。せっかく海まで来たのに、怒るなよ。」


 二人の押し問答は美海の前を通り過ぎても続いていた。美海は関係ないといった様子でサンドウィッチの最後のひと片を口に入れると店長にもらった缶コーヒーでのどを潤した。冷たいコーヒーがのどから胸へと広がっていく。


「そういう問題だったんだ。ジュースはまた買えばいいし、怪我は治っていくものだった。」


 店長の話が甦ってくる。


「甥っ子は大学進学を諦めてすぐに就職したよ。示談金を親に返すんだって、がんばってる。相手さんにもお中元やお歳暮なんかを送っていたらしいよ。あいつなりのけじめなんだろうな。けど、それもしなくてよくなった。」

「え? どうして?」

「相手のおふくろさんが甥っ子に手紙をよこしてくれたんだ。息子も就職して元気にがんばってるから、いつまでも過去のことを気にしていないであなたも前を向いて歩いてくださいってね。」


 美海は水平線の向こうにあの日の自分達を見ていた。あそこからここまで、9年もかかったんだ。


「あれ?姉ちゃん!?」


 振り向くと弟の芳雄が立っていた。美海が言い訳を思いつく前に、弟はすばやく口撃を仕掛けてくる。


「うわ、なんか変! とうとう都会の毒がまわったな。そんな派手な服、この町には似合わんし、姉ちゃんらしくないぞ!」


 そういう弟はさっぱりとしたTシャツとジーンズ姿。よく見るとブランド物を身につけているのだが、なにより弟らしかった。美海はふとおかしくなって、ケタケタと笑い出した。


「なんだよ、それ。」


 呆れながら、芳雄も一緒に笑い出した。


「ん、確かに派手だよね。さて、そろそろ帰るか。」

「寄っていかないの?」


 弟の言葉に残念そうなニュアンスが含まれていて、美海はちょっと嬉しくなった。


「うん、気まぐれに来ただけだからね。」

「企業戦士の休日ってやつ?」

「まあね。」


 二人はまた屈託なく笑った。


 弟と別れて駅に向かう。いつもの街までの切符を買って電車に乗り込んだ。ドア際にもたれて外の景色をぼんやり眺めていた。ほんの少し陽が傾いて、海の色が変り始めている。


 電車が動き出す。すぐにコンビニが見えた。続いて事故現場も。あっという間に通り過ぎ、遠くへ、遠くへ、押し流されていく。


 いつもの街の主要駅に降り立ったときには、休日の外出帰りの人々で大変な混雑になっていた。乗り換えの通路を歩いていると、売店の近くで小さな子どもの泣き声が聞こえた。


「ママー! ママー!どこなの?」


 迷子かな。 人が多いからはぐれたんだろうか。


 美海が子どもの方に行こうとすると、先に駆け寄る大人の姿があった。


「大矢、さん?」


 ぞろぞろと通路を行き交う人々の流れの向こう岸で、4歳ぐらいの女の子の前にしゃがみこんで話しかけるその姿は大矢に違いなかった。あっけに取られる美海の存在など知らない様子できょろきょろと母親らしき人物を探す大矢。通りがかった駅員に少女のことを話したあとも、しばらくそばにつきそっていた。

 

 ほどなく母親がやってきて、しっかりと女の子を抱きとめると、大矢に何度も頭を下げて、どこかのホームに去っていった。


 大矢さん、やるなぁ。。


 美海はなんとなく声を掛けそびれたまま、人々の流れの中に飲まれて行った大矢を見送った。


 美海の降り立つ山田漁港駅は小さな駅ではあったが、駅前商店街は活気に満ちている。美海は夕ご飯のおかずを買い込むと、足早にアパートへと向かう。


 ご飯を炊く、洗濯物を取り込む、食事をすませる、入浴する。地味だが、それが美海の生活の基本なんだと実感する。窓を開けて日の暮れる様子をぼんやりと眺めていると、ふぅっとため息がこぼれた。


「今日はなんていう日だったんだろ。 須磨さんには、きちんと謝らないとだめだろうなぁ。 だけど…」


 もっとさかのぼって言うならば、あの時の少年にも助けないで逃げ出したことを謝らなければならないと、美海は感じていた。


 翌朝、美海は意を決して出社していった。ベランダの花に水をやっていても、どこか顔がこわばってしまう。しかしそれは自分の責任なのだ。安易に好意を受け止めてしまった自分が悪いのだと言い聞かせて、須磨の出社を待ち構えた。


 次々に仲間が出社してくるが、いつまでたっても須磨は出社してこない。昼休みも終盤になって、尼崎が美海に声を掛けてきた。


「ねえ、須磨くんどうして来ないのかしら。何か聞いてる?」

「いえ、何も…」

「おかしいわよね。いくら遊び人の須磨くんでも、無断欠勤なんてめずらしいわ。」


 誰に聞いても須磨からの連絡を受け取ったものはいなかった。みんなが首をかしげる中、一日が終わろうとしていた。


 湯飲みを集めて洗い始めていると、西宮がやってくる。


「ご苦労様。いつも一人でやってくれてるのね。他の子たちにも回していいのよ。」

「いえ、もう慣れましたし。」

「そう? あ、そうそう。それが終わったら、ちょっと室長室まで来てくれる?」

「あ、はい。わかりました。」


 湯のみを片付けに事務所内にもどると、事務所はがらんとしていた。みんな帰ってしまったようだ。いそいで室長室に向かう。ここに入るのは入社試験以来はじめてだ。



ドアの前に立つと、内側からドアが開けられた。西宮が奥へと促す。


「やあ、仕事が終わっているのに呼びつけて悪かったね。今日はちょっとプライベートな事で来てもらったんだ。」


 三宮が大きなディスクの向こう側のイスから立ち上がって来客用のソファへと美海を勧めた。戸惑っていると、今度は綾部がやってくる。


「お呼びでしょうか?」


 室長は綾部にもソファを勧め、二人が座るのを見計らって自分も向かい側に落ち着いた。西宮は室長室の隣のディスクで、まだなにか書類を作成している。普段、この室長室に入ってしまう西宮なので、その仕事ぶりを見ることが稀な美海は、思わずその手元の優雅さに目を奪われてしまった。


「実は、須磨くんには自宅謹慎してもらっているんだ。まずは順序だてて説明しなくてはならないね。」


 慌てて視線を戻す美海が見たものは、いつものどっしりと構えている室長ではなく、肩を落とした初老の男の姿だった。


「須磨は…、淳也は、私の息子なんだ。別れた妻に引き取られたので、須磨と名乗っているんだよ。妻の実家は大変な資産家でね。淳也は好き放題にさせてもらっていたようだ。

 学校を卒業するに当たって、あまりの横暴ぶりをとめることが出来なかった妻は、私に泣きついてきた。ここで雇って社会人としての常識を叩き込んでほしいとね。

 いろいろ話し合いもしたし、資格も取ってがんばって仕事はするようになっていたが、だらしない性格だけは直らなくてね。」


 深いため息をついて、三宮はタバコを取り出した。


「失礼。普段はやめているんだがね、アイツの話になるとどうも吸いたくなるんだよ。」


 上着のポケットから小さなライターを取り出して火をつけると、大きく吸い込んではぁっと吐き出す。


「実は昨日の午後、ある女性から電話がかかってきたんだ。おたくの会社の須磨という人物がどれだけひどいことをしているかご存知か?っとね。

 無理やりではないにしても、女性をそそのかしては関係を持っていたらしい。そうして、それを自分の趣味だと笑い飛ばしたというのだ。父親として情けない話だが、否定できなかった。

 女性は、自分も愛人になっていると打ち明けたうえで、吉野くん、君に毒牙がかかろうとしていると心配していたよ。」


 唐突に自分の名前が出て、美海はたじろいだ。室内にいる3人の視線が一斉に自分に注がれているのが分かる。美海は体中の血液が逆流するような緊張を覚えた。しかし、言葉がうまく出てこない。


「確かに、最近の須磨さんは随分吉野さんが気になるようでしたね。」


 それまで黙って聞いていた綾部が納得したようにつぶやいた。


「昨日の夜のうちに、本人に問い詰めたら、全て白状したよ。随分とひどいことをしていたようだ。だが、今までの女性たちについては、相手も了解の上の大人のお遊びだと本人が主張するので、とりあえず、君にだけは謝らなくてはと思ってね。

 本人も吉野君にだけは、悪いことをしたと謝っていたよ。強引なことをして申し訳なかったと。」


「私…。ほんとは今日、私の方が須磨さんに謝ろうと思って覚悟を決めていたのです。それが須磨さんの遊びだったのかもしれません。でも、優しい言葉をかけてもらって、きれいな服やアクセサリーを買ってもらったり、おしゃれな洋服の着方や、ヘアスタイルの合わせ方なんかもいっぱい教えてもらったんです。私、なにも奪われたりしていない…」


 そういいながら、前日の悲しいキスを思い出した。あれだけは、奪われたというべきか。しかし、と美海は思った。


「優しくしてもらってすっかり有頂天になっていたけれど、やっぱり私は須磨さんとは合わないってわかったんです。だから、私、今日は須磨さんにお付き合いを解消してもらおうと思っていたんです。それだけなんです。」


 三宮は深く頷いてほっとした表情になったが、綾部は目を伏せた。


「綾部くん、君にも気分の悪い思いをさせたね。どうも吉野君のことでは張り合っていたらしい。」

「いや、僕は別に…。 須磨さんは仕事に関しては真面目でしたし、時々は先走る事もありましたが、気になるほどではありません。」


 無理して笑っているのが、美海にも分かる。一時の突っかかり方はひどいものであったし、致し方ないのかもしれない。



 三宮に頭を下げられて恐縮したまま、二人は室長室を出た。そのまま玄関ホールまで出ると、急に綾部が声を上げた。


「あ~あ、緊張していたせいかお腹がへりましたね。ねえ、吉野さん。一緒にご飯食べに行きません?」


 美海が返事する前に、タイミングよくお腹がぐ~っと返事をした。思い悩んでも空腹には勝てない。素直に綾部に従ってレストランに向かった。


 ともすれば沈みがちな美海を励まそうと、綾部はあれこれ楽しげな話をする。空腹が満たされ、綾部に励まされて、肩に入っていた力がすっとぬけていくような感覚を覚える。美海はこれまで須磨がしてくれたこと、自分が感じたことをあれこれ告白した。綾部に打ち明けるうちに、自分の中で整理がついてくるのがわかった。


「でも、須磨さんに急にキスされて。私、びっくりしました。」

「えっ…!」


 美海が我に返ると、綾部が水をひっくり返してあたふたしていた。


「ご、ごめん。手が滑ったんだ。」

「大丈夫ですか? あ、すみません。私こそ、自分の話しに夢中になっちゃって。でも、恋ってもっと幸せなものだと思っていました。気後れしたり、申し訳なく思えてきたり、悲しくなってくるなんて、思いもしなくて。」


 ハンカチでスラックスを拭いていた綾部が手を止めてつぶやくように言った。


「吉野さん。恋って、そんなに慌ててしなくてもいいんじゃないのかなぁ。自分の気持ちが盛り上がってこなかったら、無理に相手に合わせることはないと思うんだ。

 例えば僕には初恋の人がいて、その人の名前も顔さえも思い出せないけど、それでも他の人からどんな風に告白されても、その人より好きだなって思わない限り付き合わないと思うんですよ。」

「綾部チーフ、そんな人がいたんですか?」


 綾部は手の中にあるハンカチをじっと見つめながら話していた。


「ん。はっきり分からないんだけど、もう何度も夢に出てきているんだよ。その夢の中ではなんだかとても打ち解けていて、気さくに話をして。で、なぜか最後に大丈夫?って顔を覗き込んで来て、そこで夢が覚める。だけどどうしても顔がわからないんだよねぇ。」


 そういいながら綾部が顔を上げると、真っ赤になった美海がそこにいた。


「どうかしましたか?気分でも悪い?」

「あ、いえ。なんでもないです。」


 ああ、どうして言えないんだろう。せっかくのチャンスだったのに。きちんと確かめて謝りたかったのに。


 美海は自分の不甲斐なさに肩を落とした。


「さて、そろそろ帰りましょうか。須磨さんが来ないとなると、みんなの負担が少しずつ重くなりますね。明日からもしっかりお願いしますよ。」

「はい。がんばります!」


 綾部と美海はそのまま駅まで歩くと、手を振って別れていった。



 須磨の謹慎の噂はすぐに企画室内に広がった。しかし仕事が忙しくなってきたせいか、いつまでもその話をする者もなく、すぐにいつもどおりの平穏な毎日がもどってきた。


 女子社員たちが夏休みの旅行の話題で盛り上がり始めたある朝、美海はいつもどおりたっぷりと植木に水を与え、鉢を日陰に移した。日差しはそれほどに厳しくなっていた。


 給湯室でお湯を沸かしていると、誰かが企画室に入っていく気配があった。ポットにお湯を詰めて事務所にもどると、綾部があれこれ書類を出して、須磨に説明しているところだった。


 一瞬の沈黙の後、美海は元気に声を上げた。


「おはようございます」

「ああ、おはよう!」

「須磨さんも、おはようございます」

「吉野くん…。怒ってないの?」

「怒るなんて…。いろいろ教えてくださったのに、ごめんなさい…

 あ、コーヒー。入れてきますね!」


 美海が元気に席を立った。その隙に須磨はすばやく言った。


「綾部チーフ。吉野君は本当にいい子だよ。でも、うぶで危なっかしい。しっかり守ってやってくれよ。」


 綾部は急に言われて手に持っていた書類を落して慌てていた。しかし須磨は至極当然のように続ける。


「会社では上司だけど、会社を出たらただの一人の男なんだからさ。無理することはないんじゃないの。もっとも僕みたいに悪いことしちゃいけないけどね。本気なんだろ?」

「い、いや。僕はそんな…。」


 しゃがみこんで書類を集める耳の赤い綾部に、須磨はただ分かった分かったと頷くだけだった。そして、自分の復帰を快く受け入れる綾部に礼を言う。


「当たり前のことをしたまでです。須磨さんはうちのチームの要ですからね。これからもがんばっていきましょう!」


 朝日が差し込む事務所に、深い香りを伴って美海がやってきた。コーヒーを受け取った須磨は、「ありがとう」っと小さく言って、穏かな表情を見せた。


「おはよう! あら、須磨くん!出社許可が下りたのね!」


 尼崎があっけらかんと言う。一緒に出社してきた塩見も笑っていた。


「助かりました。これで仕事の分担が少しは軽減されますぅ。」

「そういうこと♪ 須磨くん、仕事は山積みよ。しっかりね!」


 尼崎が楽しげに言うと綾部も引き継いで声を掛けた。


「じゃあ、さっき説明した分は引き続きと言う事で、あと、尼崎さんが兼任してくれている佐々木プロダクツの仕事、引き継いでもらえますか?たしか担当はヤマダさんとタカダさんでしたね。」

「あ、タカダさんはお二人いらっしゃるから、タカダヒロトさんの方ね。」


 言いながらファイルを数冊集めると、はいっと須磨に手渡して尼崎が笑った。須磨は書類の束を揃えて、静かに笑った。


「がんばりますよ。実は、謹慎中って、遊べないことが不満でしょうがなくなるんだと思っていたけど、実際には仕事が中断した事が気になって気になって…。もしかして、僕って真面目?なんて思いましたよ。」


 事務所内がわっと明るい笑いに沸いた。


「おはようございまー…」


 遅刻ギリギリに駆け込んできた本山が、須磨の存在にほんの一瞬たじろいだ。


「おはよう、本山さん。これからは真面目にがんばるから、よろしくね。」

「ど、どうも。あ、やだ!塩見さんに借りてた本、返そうと思ってたのに忘れちゃったぁ。」

「いえ、明日でいいですって。急ぎませんから。」


 気のせいだろうか。ほんの一瞬だったが、本山の顔がこわばったように見える。美海はそれ以上本山を見ているのがいけないことのように思われて、仕事にもどった。

 

 5時を回ると、美海はいつものようにカップを集めて片づけをはじめた。女性達は個々に化粧を直し、アフターファイブの準備に余念がない。

 須磨はよほど謹慎がこたえたのか、今は真面目に仕事に集中している。綾部との会話も多くなったせいか、チーム全体が仕事に打ち込む雰囲気が盛り上がってきてくる。


「ねえ、吉野さん。今日の帰り、ちょっとお茶しない?」

「本山さん? 珍しいですね。今日はデートじゃないんですか?」


 悪気のない美海の言葉に、本山は苦笑した。


「私、そんなにデートばっかりしていると思われてたの?」

「あ、そういうわけでは…。なにも予定がないので、おつきあいしますよ。」

「そう、じゃあ、玄関ホールで待ってるわね。」


 できる女という印象の尼崎と違って、いつも甘え上手で世渡りがうまそうな本山の背中が、ほんの少し頼りなげに見えた気がして、美海は戸惑いを覚えた。


 急いで片づけを済ませると、美海は玄関ホールに駆け出した。ぎこちなさを覚えながらも、二人はビルを出て、ショッピングモールへと向かう。


「ここ、来た事ある? パフェが最高においしいの!」


 パフェと聞いて、永らく口にしていないと気付いた。運ばれてくる華やかで愛らしいパフェを見て、本山のようだと思う。


「ごめんね。急に声を掛けたりして。吉野さんと二人でお茶するなんて初めてね。今日は特別におごっちゃうわ。」

「ええ?いいんですか?」

「ん、気にしないで! その代わり、ちょっとだけ話を聞いて欲しいのよ。」


 本山は、柄の長いスプーンでパフェの一番上に乗っているさくらんぼを引っ掛けたり転がしたりしている。片手で頬杖をついて少し甘えたようなすねたようなそんな表情は、会社では見せない顔だ。

 こういう表情で、ボーイフレンドを翻弄するんだろうかと、美海の思考は勝手に一人歩きをはじめる。


「須磨さんのこと、どう思う?」

「どうって言われても…」

「噂によると、散々女の子を食い物にしたっていうじゃない?どれだけ反省したのか知らないけど、なんだか危険なイメージがあって、抵抗を感じるのよね。」

「でも、反省したって認めてもらえたから、謹慎が解けたんじゃないんですか?」

「ん~、もう! 吉野さんったら、人が良すぎよぉ! じゃあ、もしも室長秘書の西宮さんを手に掛けて、自分の都合のいいように進言させてたらどうするの?」


 美海は物静かで大人な雰囲気の西宮を思い起こす。


「まさかって、思ってるんでしょ? でも、分からないわよ。」

「でも、まさか!」

「だって、一番そういうことから縁が遠そうな貴方だって…」

「本山さん…? それ、誰から聞かれたんですか?」


 本山の白い耳がぱっと赤くなったのを美海は見逃さなかった。


「確かに、私はほんのひと時だけ須磨さんとお付き合いしていました。だけど、須磨さんは皆が言うような遊び人ではなかったですよ。おしゃれにも遊びにもうとい私に、丁寧にいろんなことを教えてくださいました。

 ただ、私には須磨さんのそばにいることが辛かったんです。どんなに背伸びしても、迷惑をかけるだけで疲れ果ててしまって…。でも、もしも噂になっているように須磨さんが女性をもてあそんでいるんだとしたら、被害が多くなる前に止めてあげるほうがいいに決まっていますよね。


 本山さんだったんですね。室長に連絡を入れてくださったの。違いますか?」


 本山はおいしいと勧めていたパフェには手を出さず、じっとグラスの中の層の様子を見つめていた。



「まさかぁ!私にはそんな趣味はないわ。いやあねぇ。」


 本山はケラケラと笑ってみせたが、美海は痛々しいその姿に話を合わせることしか出来なかった。


 そっとパフェを口に運んでみる。見た目の華やかさからはちょっとかけ離れた甘酸っぱさに驚く。


「須磨さん、何がきっかけで謹慎が解けたんでしょうねぇ。考えてみれば、室長も出張中だし、不自然といえば不自然ですが…」

「室長が帰ってくるのは1週間後。それまで何もなければいいんだけど。」


 本山の表情は沈んでいた。自分の知らない須磨が、どこかで暗躍しているのだろうか。美海にはにわかに信じられない話だった。


 本山と別れて自宅にもどると、ゆっくりと考えをめぐらせる。何か、引っかかるものがあったはず。本山は笑っていたが、彼女が須磨の被害にあったのは間違いなさそうだ。先日、室長室に同席していたのは室長と西宮と綾部と自分だ。室長が出張中である以上、今日仮に須磨が勝手に出社しているとしても、そんなことなど知る由もないだろう。西宮も今日は企画室には顔を出していない。綾部は。。。

 

 朗らかに笑う綾部の顔を思い浮かべる。須磨とはまったくタイプの違う綾部だが、若くしてチーフになったには理由があるはずだ。美海は一人、頷いていた。


 翌日も、須磨は何食わぬ顔で出社し、ごく普通に仕事をこなしていた。時計が5時を指し、女性達が席を立つと、覚悟を決めて立ち上がった。


「あの、チーフ…」

「あ、吉野さん。悪いんだけどコーヒー入れてもらえるかな。」

「須磨さん。まだカップに残ってますよ。」

「いや、悪いんだけど冷めちゃってさぁ。」


 肩を落として須磨のカップを受け取る。一大決心をした美海は、出鼻をくじかれた気分だ。

 その後も、なぜか綾部に声を掛けるたびに、何かと用事を言いつけられる。湯飲みを片付けながら、美海は焦り始めていた。


「吉野さん。」

「え? あ!チーフ。」

「何か用事があったんじゃないんですか?さっきから、声を掛けてもらっているようですが。」


 洗い物をしている背後から声を掛けられて、美海は驚いてしまった。


「あ、いえ。あの。なんでも…」


 いいながらすぐさま後悔した。


「今日、時間取れますか? よかったら、晩御飯一緒にどうです?」


 美海が言うはずのせりふは、綾部の口から出てきた。


「はい!じゃあ、玄関ホールで。」


 二人はなんとなく須磨の妨害に感づいて、小さないたずらを実行する子どものようにこっそりと頷きあった。


 事務所にもどると、淡々と湯飲みを片付け、美海はさっさと事務所を出た。そのまま1階に下りると、スタスタとビルを出てすぐにビルの脇にしゃがみこんだ。

 気分はかくれんぼだ。


 しばらくすると、ツカツカと早足な足音が近づいてくる。美海は慌てて携帯電話を天気予報に合わせて耳に当てた。


 すぐに長身の須磨が通り過ぎるのが見えた。前の通りできょろきょろと見渡し、駅に向かって走り出す。

 かくれんぼ、成功! 大人になるとかくれんぼがこんなにドキドキするものだとは知らなかった。


 美海は人気の引いた冷たいホールに引き返す。ぞっとするほどの静けさの後、フォーンと穏かな音が響く。エレベーターが開いて綾部が下りてきた。



「須磨さんは?」

「駅のほうに走って行きました。」

「そっかぁ。とりあえず、この前の店にいきますか?」


 綾部はさりげなくビルの周辺を気にしながら、すたすたと歩きだした。美海もそれに続く。歩きながら思う。綾部は須磨の様子になにか感じているのかもしれないと。


 レストランは混雑し始めたばかりだ。数組の客が長いすに座って待っていた。綾部は店員に声を掛けると、なにやら話をしている。そしてしばらくすると、用意が出来たと声を掛けられて美海たちは先に客席へと通された。


「ここ、個室があったんですね。」

「うん、前に取引先の人を連れてきた事があったんですよ。須磨さんのことも気になるし、ここの方が落ち着くでしょうしね。」


 個室の中央にはやや大きめのテーブルがあり、その下は掘りごたつ式になっていた。ドアがしまると客席からは見えないし、窓には障子が入っていて、外から見られる心配もなかった。


「今日は、急に呼び立てたりしてすみません。どうしても話しておきたいことがあって…」

「私…、私もそうなんです! 須磨さんが急に出社されたのがどうも腑に落ちなくて。」

「えっ? 須磨さん、ですか?」

「はい、須磨さんのことです。どうして出社許可が下りたのかなって、女の子の間で噂になっていて…」


噂になってはいなかったが、綾部に協力してもらうには大げさぐらいでちょうどいい。


「須磨さんが始めて出社されたとき、綾部チーフもご一緒でしたよねぇ。」

「ああ、あれは須磨さんから連絡が入ったからなんですよ。室長が出張の準備で忙しくて、連絡できないからとかいうことだったのですが。以前と違って随分丁寧に話すようになったし、少しは反省したんじゃないのかなぁ。仕事には真面目に打ち込んでいるでしょ?」

「確かに、お仕事には熱心になられたと思いますが…」


 言いよどんでいると、綾部がまずは食べましょうと陽気に声を掛けた。


 結局、せっかく須磨のことを確かめるチャンスだったのに、何も聞けないままになってしまった。

 店を出ても美海はなんとかその話をしようと話しを振るが、どうも今日の綾部は乗ってこない。上の空といった感じだ。話しを聞いているというより、じっと見つめている感じなのだ。


「綾部チーフ、ちゃんと話を聞いてください!」

「危ない!」

「あっ!!」


 小さな路地から車が飛び出してきた。とっさにつかまれた腕は思いのほか強い力で引っ張られ、美海はバランスを崩して倒れてしまった。

 車はそんなことなど気付かないのかさっさと大きな通りを走り去ってしまう。


「吉野さん!吉野さん?大丈夫ですか? あっ!血が。。」



 美海が意識を取り戻したとき、辺りはしんと静まり返っていた。遠くでスタスタと歩く足音が響いている。何かの機械の音がかすかに聞こえてくる。

 ゆっくりと目を開けると、どうやらそこが病院だと気付いた。頭の奥に鈍い痛みがある。そうか、あの時倒れた拍子に頭を打ってしまったんだ。ふうっと深いため息がでる。

そっと周りを確かめると、ベッドの横に綾部が座っているのが見えた。どうやら自分は意識を失って綾部に病院まで運んでもらったようだ。綾部は仕事の疲れが出たのか、パイプイスに座ったまま転寝している。こっくりこっくりと頭が揺れているのをぼんやりと見ていると、グラッと大きくゆれて美海の布団の上に倒れこんできた。


美海はそっと上体を起こす。


「チーフ。綾部チーフ! 大丈夫ですか? 風邪引きますよ。」


うっすらと目を開けたかと思うと、綾部は急に起き上がって美海の両肩を握り締めた。


「君は!! あの時の!!」


 そこではっきりと目が覚めたらしく、はっとした表情をすると慌てて自分の手を離してあたふたと謝った。


「あ…、ごめん。 あの、怪我は大丈夫?」

「ええ、少し頭が重いような感じですが、大丈夫みたいです。それより、ここまで運んでくださったんですか?ありがとうございます。」


 綾部は照れくさそうに笑うばかりだったが、ふと何かを考え込むような表情をしたかと思うと、独り言のようにいつも見る夢の話を始めた。


「バカバカしいと思うでしょう? 夢で見た女性を想い続けているなんて。名前もわからないし、顔もはっきりしないというのに。だけど、夢で見ている間は、本当にすぐそばにいるようで、気配もするし息遣いも感じるです。

 僕はただ、ただ彼女に会いたくて。だけど夢で会えたときでも、彼女の顔ははっきりしないんですよ」

「綾部チーフ…」

「いや、ヘンな話しになっちゃいましたね。なんだか吉野さんといるとほっとするっていうか、なんでも話してしまいたくなるんですよ。おかしいですよね。」


 敗北宣言でもするかのように、綾部は肩を落としてみせた。


「そんなことないです。素敵だと思います。ずっと夢に見てもらえるなんて、その人はきっとすごく素敵な人なんでしょうね。」

「本当にいるかどうかもわからないんですけどね。」


 しんみりとした空気にノックが割って入った。


「お見舞いのお時間が終わります。お見舞いの方はご退室ください。」


 看護師はそっとそれだけ言うと、すぐさま引き上げていった。


「じゃあ。 明日、もう一度診察があるそうです。それでなんでもなかったら帰れるそうです。会社には僕から伝えておきますので、明日はちょっとゆっくりしてください。」


 急に会社の顔になってそれだけ言うと、そのまま綾部は病院を出た。円を描くエントランスの車道のふちを歩きながら、振り向いた病院の窓には美海の寝ている病室の窓に明かりが灯っている。それを眺めながら、ふとそんな灯りの元にただいまと帰っていく自分を想像して慌ててしまう。


 自分が本当に大切にしたいのはどっちなんだろう。思い切って誘い出したのに、またしても何も伝えられなかった自分に落胆すら覚えてしまう。

 しかし、美海がそばにいるとどうしても夢の女性を思い出してしまい、打ち払って一本化することができない。

 綾部にはまだ結論が出せなかった。



 自分の部屋に戻ってきた綾部は、シャワーもそこそこにベッドに潜り込んだ。突然の謹慎でチーム内の戦力を失い、連日残業続きだった。須磨が復帰してからも引継ぎがあったり、取引先の担当者が故郷に帰るとかで打ち合わせをやり直したりとゆっくりする暇がない。

 美海の言うように須磨の復帰にはちょっとした違和感を覚えるが、今は考える余裕すらなかった。

 綾部は横になったとたん、眠りに落ちた。


 もやのかかった道を綾部はのんびりと歩いている。隣にはいつもの女性がいて、多くを話さなくとも気持ちが満たされるのを感じることが出来た。



「あのね。お金が貯まったら時計を買うの。ずーっと欲しかった物だから、アルバイトもがんばれるんだぁ。」


 そんな言葉が聞こえてくる。


よし、こっそりお金をためてプレゼントしてやろう。綾部は自分の思いつきに満足して、思わず笑みを漏らした。


「大丈夫? 綾部チーフ。」


 急に女性が心配そうに自分の顔を覗き込んでくる。


「え? どうして僕がチーフになったことを知っているの?」


 問いかけたとたん、綾部は目を覚ました。夢だった。

 

 カーテンの隙間から明るい日差しが差し込んでいる。深いため息をついて、綾部は諦めたようにベッドを抜け出した。


 会社に着くと事務所の鍵が閉まっている。そっか。今日は彼女が休んでいるんだ。


 綾部は今まで美海にまかせっきりになっていた雑用に着手した。お湯を沸かし、ベランダの花に水をやり、みんなの机を拭く。簡単なようで意外にも力の使う仕事だったのだと、今頃気がついた自分を恥じる。

 

 それが終わると昨日遣り残した仕事が待っていた。いつまでもしんっと静まった事務所は、綾部に無言の圧迫感を与える。

 ふと、昨日のことが頭をよぎる。エレベーターから降りたときに見た嬉しそうな顔、話しを聞いて欲しいと言う真剣な顔、眠り込んだ自分を心配そうに覗きこむ顔。

 

 綾部は慌てて両手で頬を叩いて気合を入れなおした。



「おはよう!あら? 今日は吉野さん、まだなんですか?」


 尼崎がやってきた。


「昨日、ちょっと怪我をされたので今日はお休みです。」

「怪我? どうしちゃったのかしら。チーフ、何か聞かれました?」


 綾部は昨日の出来事を当たり障りなく話した。


「おはようございます。」

「おはよう。あら、本山さんにしては早いんじゃない?」


 尼崎にちゃかされても上の空で、本山は何かを探す素振りだ。


「吉野さん? 怪我しちゃってお休みなんだって。」

「ええ! そうだったんですか。」


 本山の表情が沈んだのを尼崎は見逃さなかった。そっと肩を寄せると「なんかあったの?」と声をひそめる。


「今日、一緒にお見舞いに行きませんか。」


 本山の提案にちょっと右の眉を上げた尼崎だったが、「そうしましょう」と受け入れた。



 その日、美海は午前中に受診を終え、自分の部屋に帰ってきた。額の生え際辺りの傷は、出血は多く感じたものの、深いものではなかったという。前髪を下ろしてしまえばわからない程度のものだった。


 シャワーを浴びて汗を流すと生き返った気分だ。洗濯をして、ベランダに干す。階下から小さい子のはしゃぐ声が聞こえてきた。どうやらベランダで水遊びをしているらしい。日差しはきつく空は真っ青だ。思わぬ休日に気持ちがなごむ。

 

 美海は空に向かって大きく伸びをした。



 冷蔵庫からイオン飲料を取り出し、エアコンも掛けずに窓を開いて空を眺めた。故郷の町はそろそろかき入れ時か…。 

 

 のどを潤すと、夏の日が甦ったような錯覚に陥る。あの日も暑かった。綾部があの少年であることは間違いなさそうだが。たとえ夢の中の人とはいえ、誰かを好きになっていてくれたことにほんの少しだけ安堵を覚えた。 

 自分が断ってあんな事故になってしまって、もしもそのまま先に進めなくなっていたらどうしようなどとあつかましい心配をしていた自分がおかしかった。


 しかし、須磨の一件はそのままになってしまったし、考えてみれば綾部の話とやらも聞きそびれてしまった。


 お昼休みの時間を見計らって、美海は会社に連絡を入れた。電話口では尼崎が心配そうにしていて驚かされる。


「傷口が浅かったのが幸いでした。ご心配かけましたが、明日から出社できますので。」

「よかったわぁ。今日、本山さんとお見舞いに行こうかって話になっていたのよ。

 もし大丈夫そうだったら、こっちまで出てこない?本山さんも誘って3人でご飯でもどう?」


 話はとんとん拍子に決まったが、美海の元気そうな様子にすっかり気をよくした尼崎はさっさと電話を切ってしまった。


 まさかチーフに代わってくれとは言えないか…。


 美海は自分が思いのほか落胆している事に動揺した。


あーもーじれったい!!

そしてあーやーしーいー!

次回はちょっと大人な内容なのです。

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