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屋烏の愛  作者: みなきら
エピローグ
33/34

春風駘蕩

 加代子が琴を鳴らしていると、ひょうと笛の音がしてくる。


 一悶着あった女子会は罔象女神の采配もあり、腕を掴まれた以上の事は起こらず、凛が多少ご立腹だったものの、それも「罔象女神も内密にして下さると言ったでしょう」の一言で押さえ込んだ。


 一曲、弾き切ると、ふわりと春風と一緒に雅が「どうしたのです?」と御簾を押し上げて入ってくる。


「どう、って?」

「この曲を弾く時は、心迷っている時でしょう? 転調するところも、少し遅れましたし。」


 加代子は「思い出しながら弾いていたからだよ」と誤魔化してみたものの、雅は確信を持っているらしく、漆黒の吸い込まれるような瞳で見つめてくるから、最後の方は口籠ってしまう。


「琴の音は加代子さん自身よりずっと雄弁ですよ?」


 雅が寄り添うに加代子の傍に座れば、加代子は心の内も見抜かれた心地がして、琴に手を伸ばせば、雅にその手を取られて引っ張られる。


「小笹、控えているなら人払いを。」


 雅が言うと「恐れながら」と几帳越しに小笹の声がする。


「紫苑より、こちらに橋姫がいらしたと報告を受けましたので。」

「なるほど、それでですか。」


 ああ、これは小笹からのお小言が始まるな、と思ったのだが、雅は「あとはこちらで聞いておきますから、今夜は下がりなさい」と小笹に話して人払いをした。


 几帳の陰に見えた小笹は少し心配そうにしたが、一礼すると膝行り去っていく。そうして、二人だけになると加代子は「ああ、叱られる」と覚悟を決めた。


「本当に予想外の事をなさいますね――?」

「ごめん・・・・・・なさい・・・・・・。」

「反省はなさってるんですね?」

「うん・・・・・・。」


 その言葉に雅は加代子を後ろから抱き締めるようにすると、大事そうに首筋に顔を填めてくる。


 いつもの伽羅の香りと、僅かばかりのお酒の匂いが鼻腔を擽る。


 そして、雅がその唇で六花の烙印のあった辺りを這わせれば、加代子は擽ったさに「んん」と声を漏らした。


「みや・・・・・・び・・・・・・?」


 返事の代わりに同じところをきつく吸われる。やがて、赤く痕が残ると、雅は「橋姫から何を聞き出したかったのです?」と耳元で訊ねた。


()の話を聞きたかったのですか?」


 結果としてそうなってしまったが故に黙っていると、雅の巻きついた腕の力が強くなり「沈黙は肯定と取りますよ」と耳元で囁かれる。


 加代子は今度は首を僅かに横に振った。


「昔の自分が重なったの・・・・・・。」


 加代子はぽつりと呟き、それからすぐに「会ってみたら、全然、大丈夫そうだったけど」と話す。ただ、目の前に巻かれた雅の腕に掴まると、自ら離れまいと絡みついた。


 淋しかった――。


 思い出してしまったら、どうしようもなく。


 この手を離し、苦しくて淤加美神の元へ逃げ込んだ事。


 それでも、五十鈴姫を手放した事を後悔した事。


 そして、自分の居場所は豊玉姫が補っていて、打ちひしがれた事。


 一人、残された須勢理毘売命は、それを後悔しながら、あちこちあてどなく彷徨い歩いた。


 綺麗な衣は脱ぎ捨てて、煩わしい髪は守り刀で切り、ぼろぼろの恰好で山の中を進んで、辿り着いたのは幽世とこの世を隔てる伊吹山の大岩の前。


 ああ、気吹戸の向こうへ行きたい――。


 けれどもどんなに爪を立てても、合鍵である玉璽を持たぬ状態では固く封じられた岩戸は開くことはなく、どうしようもない哀しみに打ちひしがれた。


 空っぽになった心に、哀しみ、苦しみ、辛さが満ちていき、何もかもを呪いたくなる。


 淋しくて、哀しくて――。


 そして、それは「島崎 加代子」としても、同じ心地を味わっていた。


 橋姫の口振りだと、結果として策略にはまってしまっただけのようだが、雅が亨のように去っていくのを想像しただけで、崖っ縁に立たされた時のように背筋の凍る思いになる。


「私ね、心が空っぽになるような、あんな感覚はもう嫌なんだよ。」


 一度、穿たれた胸の内の穴は、抱き締めてくれる彼と、何度、唇を重ねても、肌を重ねても、完全には満たされない。


 むしろ、こうしてしがみつくようにしていても、胸の内に生まれた虚無感に捕らわれて、気を抜けば心惑ってしまう。


「いつだって貴方が足りないの。」


 こんな恨み事を言いたいわけじゃない。


 何千年前の事を今更口して、彼を責めたいわけじゃない。


 だけど、胸が張り裂けんばかりに苦しくて、加代子は苦悶の表情を露わにすると「そばにいて欲しい時に限って貴方はいないの」と小さな声で恨み言を口にした。


「それで、嘆く橋姫を見ていられなくて、彼女に会われたのですね?」


 加代子がこくりと頷くと、雅は「そうですか」と話し、再び甘えるようにして首筋に顔を填めてくる。そして、肩口に唇を押し付けるようにして口付けると、耳元で「加代子さん、半分こにしません?」と提案してきた。


「半分こ?」

「ええ、辛いのも苦しいのも半分こ、と仰ったのは加代子さんでしょう?」


 雅が「約束を違えるのですか?」と囁けば、加代子はますます泣き出しそうな顔になる。


「気丈な貴女は泣かないと言うけれど、やはり山跡の一本(ひともと)(すすき)のように泣くでしょう?」


 遠い昔、須勢理毘売命に歌い掛けた歌をこういう時に織り交ぜてくるのは、流石といえばいいのか、それとも狡いといえばいいのか分からなくなる。


「今はこんなにも傍にいると言うのに、何を恐れているのです?」


 雅は加代子と向かい合わせになるように場所を少し移動すると「今はこうして傍におりますよ?」と、緊張のためか血の気が引き、冷たくなった加代子の手を自分の頬にあてがった。


 琥珀色の瞳がますます不安げに揺れる。


 雅は加代子の口が声を発っそうと開き、躊躇して塞ぎ、けれど、また何か言おうとして開くのをしばらく黙って見ていた。


「上手く、言えないんだけど・・・・・・。」


 そう前置きした上で、加代子はようやくぽつりぽつりと不安な心情を口にする。


「雅を好きな気持ちも、いつか変わってしまうのかと思ったら、怖くて仕方なかったの。」


 亨と過ごした日々を思い出して、自分の心変わりをまざまざと自覚した。


「心変わりしたのは()ではなく、貴方に会った()だった。」


 それに気が付けば淤加美神への申し訳なさと、雅への後暗さに胸が痛む。


「あと、雅を好きなのは加代子(私自身)のはずなのに、この気持ちも実は須勢理や琴子の気持ちを代弁しているんじゃないかって不安になる。」


 加代子が「だから、今だけでいいから離さないでいて」と言えば、雅は拍子抜けしたように「それだけですか?」と訊ねた。


「それだけ、って。」


 ムッとして雅を睨めば、雅は慌てて「いや、もっと、無理難題を言われるものだと身構えていたので」と苦笑する。


 雅は加代子の酷く思い沈む様子に、「てっきり今度は高天原と黄泉の国も平定しなければ、離縁させられるのかと思っていたから心底安堵した」と口にした。


「なんで、そんな極端な話になるの?」


 加代子が目を丸くして、まだ心の整理が付かぬままに訊ねれば「あの素戔嗚尊ですよ? 有り得る話でしょう?」と雅は真顔で答えてくる。


 そう言われてみれば、大己貴命が須勢理を連れて葦原中国へ逃げ出した時、「生大刀と生弓矢を使って葦原中国を平定し、大宮殿を建てて、須勢理を正妻と据える事が条件だ!」と言われていたなと思い出して「確かに」と納得する。


「だから、かなり身構えてしまいました。その点、加代子さんの心変わりくらいなら、簡単な事ですよ?」

「簡単って・・・・・・。」


 悩んでいたのに、と、口を尖らせれば、その様子さえ愛おしいと言わんばかりに、雅がニコリと笑う。


「簡単ですよ? 何度だって惚れ直させて上げれば良いのでしょう?」

「はい?」

「ですから、心変わりも出来ぬほどに惚れ直させれば解決です、とお伝えしているのです。」


 雅が同意を求めるように「ね?」と言うから、加代子も何だか悩むのが馬鹿らしくなって「雅が言うと惚れ薬でも盛られそう」と苦笑した。


「惚れ薬が作れるなら、すぐにでも使うんですけどねえ。」


 何故か長い時を経て、国事を決めていた「神諮り」がいつの間にやら「縁結びの会議」としていて定着し、自分が縁結びの神になっている事に違和感を覚えると話す。


「名前が増えるごと、まことしやかに言われるご利益が増えるごと、神は様々な神威を使うことが出来るようになりますが、伴ってやらねばならぬことも増えるのだから本当に嫌ですね。」


 「いっそただの風の神の《伊吹》に戻れれば良いのに」とぼやくから、加代子は「なかなか難しいだろうね」と笑った。


「ほら、斎さんも雅はラスボス級に強いって言っていたじゃない?」

「ああ、そんな事もありましたね。」


 ろくにセーブ出来ぬままラスボス戦に参戦中で、未だに攻略できていないし、立ち塞がる者は神様とか無理難題にもほどがある。


 それなのにこんな風に雅といれば何とかなってしまいそうな気がしてくる。


「ああ、もういっそこのまま、そっとしておいて下さればいいのに。」

「でも、ここにずっといるわけにもいかないんだよね?」


 加代子が問えば、雅も「そうですね」と応じる。


「折を見て、現世に戻ろうかと思います。」

「現世って・・・・・・。」

「ええ、葦原中国です。灯台もと暗しと言うでしょう?」


 疑似的な身体に魂移ししてしまえば、身体を持っているがゆえに見つかったなら逃げ出すことは難しいが、他の魂との区別は一層つけにくくなる、と雅は話す。


「それに、高天原の御仁達が葦原中国の理さえ無視して干渉をしてくるなら、初めて会った時以上の(ひず)みがあちこちに生まれます。」


 一つの命を何度も護ろうとすれば、運命の歯車が狂って、他の命が奪われる。


「普通、奪われる命は《人》のものに限ってはいませんし、本来なら、蚊が一匹余計に叩き落とされるとか、あと数分生きられた命が助からなくなるとかそんな類の歪みなんですけどねえ。」


 轟の口振りだと加代子を助けた事で、かなりの命が失われた様子であるし、天津神が本気になって探したら、この箱庭(葦原中国)は簡単に崩壊してしまうだろう。


「また、イレギュラーな事態ってわけね?」

「まあ、そうですね。」


 雅は「さすがに慣れましたけど」と言いつつも「なので、それを逆手に取ろうと思います」と説明した。


「高皇産霊神は、どうか分かりませんが、少なくとも天照大神は箱庭(葦原中国)を壊す事を望まない。」


 瓊瓊杵尊を降臨させて、長い時間を掛けて作った箱庭を自分や加代子を見つけ出すためにひっくり返すような愚かな事はしないだろう。


「今の天照大神にとっての葦原中国は、壊れかけているとはいえ、彼女の存在を維持するための大事な仕組みですからね。」


 ご利益を信じて祀ってくれる者が多ければ多いほど神威の威力は増し、神として呼び名が多ければ多いほど神威の種類は増える。そして、またその逆も言えるのだと雅は話した。


「先の大戦以降、天孫の末裔が《自らは人の子である》と宣言してから七十余年。葦原中国は天照大神の望んだ国としては形骸化してきていますが、それでもまだ彼女にとっては大切な箱庭でしょうから、その中に逃げ込もうってわけです。」


 自分たちにもリスクはあるが、天照大神や高皇産霊神が加代子を探すのに少しでも時間が稼げれば、それだけ自分たちは有利になる。


「そんなわけで加代子さんの実家近くに新居でもと思っていますが、どの辺りがいいですか?」


 加代子は「家を借りるにしても、戸籍とか住民票とかどうするの?」と思わないでもなかったが、きっと雅の事だ、何とかしてしまうに違いない。それよりも「実家近く」を指定された方が気になった。


「なんで実家近く?」

「彬久・・・・・・じゃなかった、柊吾さんに護衛についてもらおうと思いまして。」

「はい? 柊吾兄ッ?!」

「口煩いお兄さんですけど、信頼にたる方なのは存じ上げてますから。」


 新婚生活早々、小舅ならぬ実兄付き。


 出来れば、遠慮申し上げたいのだが、雅の様子だとそうは問屋が卸さないらしい。


「隣駅くらいなら、全然大丈夫ですから。」


 そう言って、雅はにっこりと笑ったが加代子は肩を竦めるばかりだった。


 春の夜は今宵も更けていく。


 雅の温和な態度に救われながらも、まだまだ波乱な新婚生活になりそうだと吐いたため息は、暖かな春風に乗って霧散した。


(了)

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