宝玉の姫
雅が少彦名命に招かれて出ていってから、暫くして罔象女神が紫苑を連れてやってきた。生憎、小笹を維持できるほどは回復していなかったこともあり、代わりに女房姿の凛が対応してくれる。
「殿方は殿方同士で酌み交わしているようですから、我らは我らで甘味でもと思いまして。」
昼間とはまた違い、葡萄染の小紋の入った上衣を着て現れた罔象女神は、春の代名詞「佐保姫は斯くやあらん」といった雰囲気だ。
御簾の内にお通しして近くに座ってもらえば、動きに合わせて衣から梅に似せ香がふわりと香って、優しげににこりと微笑まれると、女なのにドキドキさせられる。
小笹は雅に本調子になるまで本体である笛を取り上げられてしまい、休んでもらっている合間、代わりに凛がそばに控えているのだが、加代子が罔象女神に見蕩れているとこほんと咳払いをされた。
「ご機嫌麗しゅうございます。すぐに座を用意致しますゆえ、少々お待ちくださいませ。」
凛は間に入って代理で応対してくれる。
「有難うございます。」
そう答えたのは罔象女神の傍に控えた紫苑で、その様子はいつものようなくだけた風ではないから、加代子は一人でソワソワと落ち着かなかった。
「お久しゅうございます。須勢理毘売命。」
小笹の指南によれば、こうした時は「雅やかになさいませ」と言っていたように思うが、「雅やか」と言われても何と答えたらいいか分からない。
しかし、分からないままにここのまま黙っているのも、それはそれで失礼な気もしてきて、加代子は腹を括ると明るく「先日はどうもありがとうございました」と答えた。
そのハキハキとした受け答えに、凛と紫苑が僅かに眉を潜めたように見えたが、扇越しの罔象女神は朗らかに微笑み「お加減はいかがですか?」と訊ねてくる。
「お蔭様でこうして日常を過ごすくらいには回復致しました。」
「ああ、それは安心致しました・・・・・・。私を言祝いですぐに、あのような事態に陥りましたでしょう? 昼間はご無理をさせてしまったのではと心配していたのです。」
加代子が目を覚ますのと、おおよそ同じくらいの時に橋姫も目を覚ました。しかし、回復は加代子の状態に比べると思わしくないらしい。
「生きる気力と申しましょうか、何やら覇気を失ってしまい・・・・・・。何を訊ねても、黙ったままで。」
命を狙ってくる相手なのだから、加代子としては大人しくしてくれている方がいいのだが、何故か罔象女神に聞いた橋姫の様子が雅に会う前の自分のようの様子に思えて心傷んだ。
空っぽで今まで生きてきたことが何の価値も見出だせないような虚無感と、ただ昼から夜へ、夜から朝へと空の色が変わっても何のやる気も出てこない喪失感。
雅が聞いたら、「何を酔狂な」と言うかもしれないが、加代子はそのことを我が身を持って知っていたから、酷く橋姫に同情した。
「お目覚めになっているのであらば、橋姫もこちらへお呼びしませんか?」
加代子の申し出に凛と紫苑がギョッとした顔をする。慌てて「今の橋姫は罔象女神に従うのですよね?」と言葉を添える。しかし、口を真一文字に引き結んだ凛の様子に「これは雅と小笹に確実にお小言を食らうな」と思った。
一方、罔象女神は柔らかな笑みを湛えたまま、「それも良いかもしれませんね」と話す。
「紫苑、お連れしてくださる?」
「で、ですが・・・・・・。」
「責は私が負いますから、ご安心なさい。」
加代子の命に凛をちらりと見ながら言葉を濁した紫苑だったが、罔象女神にそう言い切られると、それ以上、強くは言えないようで、渋々ながら局を出ていく。一方、加代子は凛の無言の抗議に耐えていた。
「凛、思うところがあるのは分かるよ。だけど、罔象女神もお許しくださったわけだし、そう危ない目には会わないと思うから・・・・・・。」
耐えかねてそう言えば、「私めには判断を下す権限はございませぬ」と冷ややかに応じられる。困ってしまって罔象女神を見れば、楽しげに肩を震わせていた。
「そうしたところは、本当、お変わりございませんね。昔もそうして若竹殿に怒られておいででしたもの。」
しかし、加代子は言葉に窮すると、申し訳なさそうに「あの・・・・・・」と話しかけた。
「大変、申し訳ないのですが、そのあたりの記憶は実は曖昧でして・・・・・・。失礼のないように先にお話しておくと、私のことは初対面と思って接して頂くくらいで、ちょうど良いかと思います。」
すると、罔象女神は少し寂しげな目をしたものの「そうでしたのね、承知しました」と笑った。
「本当に申し訳ございません。」
そして、素戔嗚尊と、雅と、晴明。それぞれの記憶を分けてもらいながら呼び起こした記憶だから、どうやら偏った思い出し方をしているらしいと話す。罔象女神はふふっと笑みを零すと「それならば、こちらにいらっしゃるうちに私の記憶も覗いてみますか?」と話した。
「私とは大己貴命や少彦名命についての愚痴話が主でしたけど。」
加代子は「それなら楽しそうですね」と言いながら「ぜひお願いします」と言いかけて、凛の咳払いに言葉を飲み込んだ。
(う・・・・・・ッ。)
凛の目が三角になってきている。これ以上、何か余計な事を言えば、過保護な凛と雅のことだ。きっと罔象女神と楽しくおしゃべりは叶わなくなってしまうだろう。
加代子は一呼吸置くと「いったん、雅に相談します」と返す。罔象女神は百面相をする加代子の様子にくすくすと笑みを零した。
「罔象女神?」
「ごめんなさい、記憶が無いと言いながら、余りに昔通りだから・・・・・・。」
「そうなんですか――?」
「ええ、昔の貴女も《我が背はお伺いを立てておかないと、へそを曲げてしまうから》と仰っていたものですよ。」
加代子は「へそを曲げる」という表現が、なるほど、言い得て妙だと思えてふっと笑みを零した。
「そうですね。お伺いを立てておかないとへそを曲げてしまいます。」
その癖、雅は自分が規格外なのを棚に上げて、すぐに「加代子さんは規格外だ」と言う。
「それにしても、自分の《記憶》を取り戻すのに他人に《記憶》を分けてもらわねばならないとは、なんとも儘ならないものです。」
雅に同じようにぼやいたら「仕方ないことですよ」で片付けられてしまったが、罔象女神は「本当に難儀な事ですよね」と共感してくれた。
「少彦名命と離れて、一千年以上。長い時の中で、その記憶はどうしたって薄らぎ、揺らぎますもの。」
ここ何日か少彦名命と過していて、昔のままだと感じるところもあれば、言葉にはし難い、妙な違和感を感じるところもあるという。
「《時》は残酷で、それゆえ尊いものだと思いますよ。」
行く川の水のように、同じように見えて、けして同じ時はなく、しかしながら、その《川》という本質を思えば、やはり昔のままであるのと同じように。
「《水》も《記憶》も《魂》も。全て流転していくのが世の定め。」
そして、罔象女神は「少し昔語りをしましょうか」と言うと、「私にも実は前の世の記憶が幾許かあるのです」と話し、天疎向津媛命の話を始めた。
「天疎向津媛命?」
「ええ、その魂が我らの本当の始まり――。」
時は、天地開闢の頃。
罔象女神曰く「まだ天も地も定まる前」とされる御世は、実は別の《天》と、別の《地》があったのだと言う。
「別の《天》と、別の《地》?」
「ええ、そうです。その名残が幽世。そして、我らは四柱の祓戸大神の生まれ変わり。」
しかも、その神は加具土命の死から淤加美神や罔象女神が生じたように、天疎向津媛命の死から生じたのだと罔象女神は言う。
山を雪が雪崩るが如く、また、滝が高きところから濁流するが如くして、瀬織津姫が古き天地を破り、津波が川を遡上し、海の渦潮に全て呑み込むが如く、速秋津比売が大洪水を引き起こす。
「この地は高皇産霊神らのお膝元ですから上手く話は伏せられて、すっかり廃れてしまいましたが、西の地に残る《ノアの方舟》の話は、まさにその時の話なのです。」
「《ノアの方舟》って聖書の、あれ?」
罔象女神は頷き「あの時、それまでの世界は滅びました」と話す。
「今の世は高皇産霊神と神皇産霊神が作ったようなもの。」
高皇産霊神は天疎向津媛の神威を糧に産んだ心の太柱のに三千世界を生み出し、神皇産霊神はそれを牽制するかのようにして、祓えの水を海としこの星と縁を結んだ。
「本来、神皇産霊神はこの星に縛り付けられるような神ではありません。」
その力はとても強く、この星を消し飛ばすなど造作もないことなのだという。
「ですが、この星は神皇産霊神にとって、大切な方達の思い出の詰まっている星だからと、この星の海と縁を結ばれたのです。」
「この星の生みの親は神皇産霊神って事?」
「いいえ、真の主は国常立尊。」
「国常立尊・・・・・・?」
別天津神の位を辞し、この星を生み出し給うた天津神。
「彼の神については陽にして純なる男とするものと、葦芽のような角を持つ悪鬼とするものとあります。」
相反するイメージの国常立尊を、罔象女神は「そのいずれも国常立尊のお姿」と話す。
「そして、その方を怒らせた結果、八岐大蛇は生じ、元の世の天地は崩れ去りました。」
その力は強大で神皇産霊神の結界の中に逃げ込んだものを除き、生きとし生けるもの全てに滅びを与えた。
「元の世を生み出した国常立尊がおられなくなった結果、国常立尊が築き上げた美しき世界は崩れ、天は暗雲を覆い、地は荒野と化し、大気は毒に侵されたのです。」
辛うじて残ったのは国常立尊の邸のある天野香久山辺りだけで、神皇産霊神は事態の打開策の為に、祓戸大神を産霊し、その祓戸大神が主導し辛うじて生き残った者達に方舟を作らせたのだという。
一方、高皇産霊神は全てが終わった後、泥の男神から地の生物を、砂の神から海の生物を生み出すのだが、また、それは別の話だと罔象女神は話す。
「ともあれ如意宝珠の神は、高皇産霊神に賢木を撞かれ、その滅びと共に四つの祓戸の神が産み出されました。」
山から下る雪崩のように濁流して全てを押し流す瀬織津姫。
津波のように渦巻き、全てを海底に引き込むようにして消し去る速秋津比売。
竜巻のように吹きすさび、全てを風化させる気吹戸主。
そして、水底のように静かに浄め、全てを流離わせる速佐須良比売。
しかし、それらの力を持って大禊を行っても、宝玉を失って制御を失った八岐大蛇は、七日七夜の間荒れ狂い、その嘆きは地を震わせて、その悲しみは地を裂いたのだという。
「それでどうなったのです?」
加代子が問えば「分かりません。ただ、あの当時の私が見たのは二柱の神の姿」と話す。
速佐須良比売を抱えた異形の姿の国常立尊の姿。
国常立尊が大鎌を振り上げれば、重く垂れ込めていた暗雲が切れ、雲間から光が射し込んで行く。
逆巻いていた波や、吹き荒れていた風は凪ぎ、一瞬、国常立尊を中心に時が止まったかのように見え、その大鎌がゆっくり振り下ろされるにつれて、天の暗雲も、大気の淀みも消え、地は緑に覆われ花開いていく。
葦原中国から黒い妖気の気配が無くなったあと、国常立尊は気吹戸主神に幾つか言葉を交わし指さして速佐須良比売を連れて去っていく。
その後、気吹戸主神は大岩でこの世界と幽世の境として塞ぎ、瀬織津姫が道反しの神として、速秋津比売神がその道を封じる水門の神として封じると、各々その役目を終えた。
「そのように世界を滅ぼした八岐大蛇が復活するというのですか? 高皇産霊神が姫様に賢木を撞けば、この世界は・・・・・・。」
一緒に話を聞いていた凛が青ざめた顔で訊ねる。
「高皇産霊神が大切なのは高天原のみ。天照大神、月読命、素戔嗚尊は、元来、八岐大蛇を消し去る為に生み出された神々と聞きます。そして、それは素戔嗚尊が証明なさいました。」
国常立尊の定めた理を崩す天照大神の存在に目覚め掛けた八岐大蛇を、素戔嗚尊は龍吟の琴を用いて眠らせた。
「それゆえ、此度も同じように眠らせられるとお考えなのかもしれません。」
それが不確かな事と知りながら、縋るようにして心の太柱の強化に打って出ようとしているのだろう。
罔象女神は苦々しげな表情をした。




