春や昔の春ならぬ
少彦名命は渡殿を進む足を止め、常春の庭の景色を眺めた。百花繚乱な庭は白、桃、萌黄と春らしい色で埋め尽くされ、在りし日の瑞穂の国の庭のようだ。
「この庭はあの春の頃のままなんだな――。」
罔象女神は少彦名命の隣に寄り添うと「こうしているとあの頃のようですね」と応えた。
確かにこの庭を眺めていると、主要な交通網も張り巡らされ、各種の制度も整って国づくりも一段落した頃のように思えてくる。
あの頃は、大己貴命がいて、須勢理がいて――。
たしか幽世に封じられる少し前の春には、大己貴命も姫御子とはいえ待望の須勢理の子が生まれた頃だったように思う。
特に大己貴命は須勢理の懐妊の兆しを知ってからは、遠出するのは建御名方や事代主に任せて須勢理の局に居続けの状態だったから、女房の若竹が「もっと早くお仕事を建御名方命や事代主神に委任なさっていたら、もっと早く御子にお会いになれたのでは?」と皮肉を漏らしていたのさえ、つい昨日のことのように思われた。
「あの春は、いっとう幸せな春だった――。」
過ぎ去りし日々に思いを馳せると、未だに「何故、あのように悲しい結末になってしまったのか」と思われる。
「もしも、あの春に戻れるなら、なんだってするというのに・・・・・・。」
ビジネスパートナーとして一緒に長年過ごす中で、大己貴命は富や名誉、権力などには終ぞ興味を持たなかった。
沼河比売の時は須勢理に似た容貌、雰囲気であったから、恋しさのあまり絆されたようだが、それを除けば誰に対しても誠実な《まめびと》で、実子といえば五十鈴媛の他に建御名方くらいであった。
他は木俣神と同様、天若日子を亡くした下照姫の保護や、木花知流比売の嫉妬を懸念して八嶋士奴美が保護を頼んできた鳥取神などで、形ばかりの婚姻だった。
彼の願いは徹頭徹尾、「須勢理毘売と穏やかな日々を過ごしたい」の一つだけだったのに。
その為ならば、東に戦乱があれば貿易交渉や武力で平定し、西に荒れた土地があれば土の改良と効率の良い生産方法を広め、北に暴れ川に流された土地があれば治水、灌漑を施し、南で病が流行れば薬の調合をし被害の拡大を抑えるために尽力、奔走をした。
そうして行脚する途中でも街の荒くれ者を八嶋士奴美神と取り締まり、天若日子と道を整備し、自分が居なくても各機構同士で動けるように連絡網を作り上げて、各分野の専門家に仕事を託しては潔く一線を退いたのだ。
それなのに――。
高天原は大己貴命が生み出した瑞穂の国が富栄えると、大己貴命自身を危険だと判断し、彼から一切合財を奪い去ったのだ。
ようやく作り上げた国も――。
愛する妻子も、何もかも――。
少彦名命はそれを思うと春の盛りの景色の眩しさが目に染みるような心地がして、目を細くして唇を噛み締めた。
罔象女神はきつく握り締められた少彦名命の手を取るとそっと両手で包み込む。
「我が背は、大己貴命が本当にお好きなのですね。」
「少し妬けてしまいます」と言われれば、一息吐いて「《好き》とは違うと思うけどな」と答える。
この感情の出処は「祈り」に近い気がする。
「俺は努力したのに相応しい幸せを、大己貴命に手に入れて貰いたいだけなんだよ。」
大己貴命と二人、共に東奔西走して国作りをする中、上手く行ったこともあれば、同じくらい上手く行かなかったこともあった。
共に知恵を出し合い、何日も考えあぐねいた日もあれば、失敗を何度も繰り返してようやく思っていた通りの結果に二人で大喜びした日もある。
「いくら高天原が天孫だと言って瓊瓊杵を天下らせても、あの苦難を経験していない輩に、大己貴命と同じ成果が手に出来るわけがないというのに。」
根の堅洲国に戻ってきて、自分が幽世に閉じ込められている合間の話を聞きながら、大己貴命と纏め上げた瑞穂の国が、しゃぼん玉が弾けるような儚さで呆気なく消えたことは、容易に想像出来た。
「《国譲り》など聞こえの良い言葉にして、自分たちの非道を耳障りよくしたのかもしれないが・・・・・・、それを堂々と豪語するあの厚顔無恥さが俺はどうにも気に食わない。」
その話を聞きながら、決意に満ちた少彦名命の表情を見ると、罔象女神は心配そうな表情になり少し手を強ばらせた。
「どうか、お一人で高天原に赴こうなど思わないでくださいませ。」
「急にいかがした――?」
少彦名命が訪ねても、罔象女神に袖を引き「お約束してくださいませ」と縋られる。
「ここより出でれば、高皇産霊神の思うつぼでございましょう。彼奴らはきっと貴方も狙います。」
「しかし、あの二人の件は神皇産霊神や八嶋士奴美神に会って、お知恵を借りねばなるまい。」
この邸にいる中で使者として立てるなら、適任は晴明だが、生憎、今は不安定な須勢理の力の制御とこの邸の維持を頼んでいるから、この上、負担は強いれない。
「分かりました。ですが、こたびは包み隠すことなく、私めにもお手伝いさせてくださいませ。」
そして、「お約束頂くまでは動きませぬ」と言って腕に絡んでくる。少彦名命は罔象女神の我武者羅なまでに約束を取り付けようとする様子に「分かった」と答えた。
「俺とて、もう一度、幽世に閉じ込められたくはない。それに高皇産霊神が油断ならぬのも、身をもって知ったしな。」
そう言って少彦名命が「真の名に誓ってもよい」と言い添えれば、罔象女神も安堵した様子で縋るようにしがみついていた力を抜く。
「神皇産霊神に連絡を付けるのであらば、熾久に間に入ってもらうのが良いかと存じます。」
「ああ、そうだった。熾久がいたなッ!」
すっかり失念していた《加代子の兄》の存在に、罔象女神は「もちろん危険は生じますが火産霊神の状態を考えれば、東京大神宮に行くのも、日枝の社に行くのも比較的自然でしょう」と話す。
「何より木を隠すなら森の中と申します。」
少彦名命や罔象女神がどんなにその身を窶して葦原中国に赴いたとしても、元より人の世に生きている柊吾には適わぬだろう。
「それはそうだが、取り急ぎ火産霊神の分の加護を施しただけで、媒介になるものをわたしそびれているのだが。それでも連絡は着くのだろうか・・・・・・?」
「昨日、愛宕の社に戻った際に、丁度、火産霊神の様子を見に来ていらっしゃったので、ちゃんと川蜷の殻のついた首飾りを渡しておきましたよ。」
その上「潮満玉と潮干玉も晴明が預かっています」と言えば、少彦名命は「やはり罔象女神には頭が上がらないな」と小さく肩を竦める。
「その調子だと大己貴命と須勢理を逃がす件、大山祇神と話が付いていたりするか?」
何気なく訊ねれば、罔象女神はにこりとして「晴明と博雅もいるのです。月読命とも話を付けてございます」と言うから、少彦名命は目を丸くした。
「徒らに何千年も過ごしてはおりませぬ。いつまでも殿方ばかりに頼ってもおれませんでしょう?」
そう言ってするりと手を引き抜くと「ささ、こちらへ」と歩み出す。
千年以上経って変わったのは、記憶を無くしている大己貴命と須勢理毘売命ばかりと思っていたのに、どうやら記憶があっても変わってしまうものらしい。
空には白っぽい月が浮かんでいて、春の景色に霞んで見える。しかし、罔象女神の微笑んで、「晴明が状況をご説明します」と言う姿を見ると、「月やあらぬ」と嘆くにはならなかった。
春は昔の春ではない。
罔象女神の目に映る自分も、昔の自分とはどこか違っているのかもしれない。それでも変わらず、自分を支えてくれて、傍らにいてくれる彼女に少彦名命は目を細めた。




