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屋烏の愛  作者: みなきら
愛、屋烏に及ぶ
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澪標(みおつくし)

 加代子がふと目覚めると、辺りはすっかり真っ暗だった。なんだか長い夢を見ていたようにも思えたが、素戔嗚尊や晴明に見せられた時のようにしっかりは覚えておらず、朧気な感覚だけか残っていた。


 段々と目が慣れてくれば、すぐ側で自分を抱き枕のようにして眠る雅の姿が見えてきて、すうすうと心地よさそうに眠っている息遣いに意識がゆく。加代子が寝返りを打つようにして身動ぎすれば、重なり合った二人分の衣から薫き染められた伽羅や白檀の香りが入り交じって甘く香った。


 ここは一体どこなのだろう――。


 壁際で僅かに揺れる灯明の光と几帳で囲われた空間ではここが根の堅洲国の邸なのか常春の庭の邸なのか判別がつかない。加代子は雅を起こしてしまわぬように気をつけて上体を起こしかけたが、腰に回されていた雅の腕に急に力が入ると、逃がすまいとするかのように反対の腕も伸びてきて捕らえられた。


「ちょっと、雅――?」

「ようやくお目覚めですか?」


 雅はうっそりとした様子ながら、まるで蛇が絡みつくようにして抱え込むと、その存在を確かめるかのように加代子の髪に顔を埋める。


「雅、重いよ・・・・・・。」


 それでも抱き締めている片腕の力は緩まる気配はなく、甘えるように擦り寄られる。


「なかなかお目覚めにならないので心配したんですよ?」


 互いの熱を交換するかのようにぴったりとくっついて「目が覚めたようで良かった」と言われると無碍にその腕を払う気にはなれなくて、少し凭れるようにして雅を見上げた。


「そんなに眠ってた?」

「ええ、あれから三日三晩経ってます。」


 殻にこもるようにして、加代子が珠の状態に戻ってしまったので、常春の庭の邸の一室を借りて留まり続けているらしい。


「小笹をお借りして、根の堅洲国にも連絡済みです。」


 それから少彦名命に叱られた話と、素戔嗚尊にも叱られるであろう話をしてくれる。


「八嶋士奴美神と紫苑にお願いして宥めてもらっていますが、離縁させられないか心配ですよ・・・・・・。」


 そう言って困ったように笑うから、加代子もふふっと笑みを零した。


「なにか怖い思いをしたり、気分が悪くなっていたりはしないですか――?」


 雅は沈んだ声で「出来るだけ悲しい思い出は見せまいと思ったんですけど、貴女を助けるには気を流すしか方法がなくて」と話す。雅の問いに首を傾げれば「私の持つ記憶が多かれ少なかれ流れ込んだでしょう?」と言われた。


「気を流せば、大なり小なり、流し手の意識が流れ込みますから。」

「流し手の意識が流れ込むの?」

「ええ、小笹を人型に戻したり、維持したりする時、その姿を思い起こすでしょう?」


 それと同じ理屈で、雅は加代子の魂を抱き、日がな一日、嫌な記憶は出来るだけ見せないように心掛けて精気を分けていたと話す。


「肉や物に宿っていない魂だけの場合、その姿は《記憶》や《信仰》にて維持されています。」

 

 雅によれば、今の加代子の姿は「自分は加代子だ」と意識していることと、また、周囲も「加代子はこの姿だ」と承認しているからこそ、成り立っているらしい。雅は「だからこそ、《名》は大切なのですよ」と話した。


「むやみに明かしてはならぬ名、だっけ? そんな話を夢で見たかも・・・・・・。」

「《真の名》の事ですね。」

「真の名――?」

「ええ、《魂そのもの》に対する《名》ですよ。」


 それは、例えるならシステムの根幹にアクセスできる管理者権限のようなもので、それを知るものはその魂の有り様に大きく干渉できる。


 一方、《雅信》や《琴子》、《加代子》の名はその上に乗ったソフトウェアのユーザアカウントのようなものだと言う。


「じゃあ、字名はハンドルネームみたいなもの?」

「ええ、そんな感じですね。」


 そう言われて、ようやく雅が《華世》と名乗れと言ったのかの合点がいった。一方で雅の憂い顔は晴れず、「遠隔で真の名を使ってまで貴女に干渉してくるなど思ってもみなかった」と零す。


「貴女の真の名を知るのは、今は素戔嗚尊と私、それから、天照大神と高皇産霊神。」


 加代子が上目遣いに見つめれば、雅は沈んだ声のまま「天照大神や高皇産霊神に貴女の真の名を奪われたのは、大己貴命(わたし)のせいなのです」と話した。


 高天原に攻め込まれて、捕らえられ、殺されかけた時、須勢理は大己貴命の助命として逆らわぬ意思を示すために加羅の地に送られる事とその名を明かす事で恭順を示した。


「あの時、真っ向勝負を、ほんの一瞬、躊躇ったが故に・・・・・・。」


 悲しげに話す雅の様子は大物主神と被る。


「その時のこと、今でも後悔してるの――?」


 加代子に訊ねられれば、雅はそれ以上は語らず、抱き締める力を強くした。


「過ぎたる欲は身を滅ぼします。貴女を争いごとに巻き込む将来(さき)が見えていたのに、愚かにも私は貴女を望んでしまったんです。」


 望めば不幸にしてしまうと知りながら――。


 すると、加代子は寝返りを打つようにして身体の向きを変えると「出会わなければ良かったって思ってる?」と訊ねてきた。


 答えに窮する。


 すると、加代子はするりと腕を雅の背に回して抱き締め返して、ぽつぽつと話し始めた。


「雅は怒るかもしれないけれど、私はね、この身が過ぎたる欲で滅んでも、貴方の傍に一分一秒でも長くいるためなら、滅んでもいいって思ってるの。」


 月を頼り飛ぶ虫が、吸い込まれるように火に入ってしまうのと同じように。


「須勢理の記憶を見て、貴方が居なくなる事の方が怖いと知ってしまったから。」


 そして、須勢理の時の事はおおよそ思い出している旨と、琴子の時の事も断片的に思い出している話をする。


「もう喪いたくないのよ、誰も。」


 それに須勢理としての記憶が蘇ってくる中で、慈しんでいた()()()()()()()も思い出していた。


「あの時の須勢理(わたし)は、やむを得ない事情とはいえ、貴方とのかけがえのないものまで手放してしまった。」


 流れ込んでくる「須勢理」の記憶は段々と「加代子」の気持ちを侵食していく。このどうしようもないほど悲しい懺悔の気持ちは、「加代子」の記憶に発するものではないのに、胸をきつく締め上げる。


「だから、一緒に取り戻そう?」


 失ってしまったものをひとつずつ。


 そう話せば、雅は加代子の髪を撫で梳き、慰めるようにそっと額に唇を寄せる。その優しい口付けに、加代子は雅もきっと自分と同じで、大己貴命の記憶にその感情が侵食してされて苦しい思いをしているのだろうと思った。


「これからも傍にいて下さいますか?」


 こくりと頷けば、雅が今にも泣き出しそうな顔で微笑むから、加代子は胸が苦しくなって擦り寄る。


「お願い、もう、離さないで。」


 懇願して、互いの唇を重ねても、一向に切なさが消えなくて、激情のまま溢れてきた涙を、雅が丁寧に親指の腹で拭ってくれる。


 一方、雅は潤んだ目で自分を見つめてくる加代子の様子に、このまま抱き潰してしまいたいような、それでいて聖人に許しを乞うようにして全てを捧げて殉じたいような心地になって苦しくなった。


 加代子を縫い止めるように覆い被されば、泣き顔のまま、幸せそうに笑うから、愛しさと苦しさが重い吐息となって口から零れる。


《もし賭射に勝てたなら――?》

《そうですね、その時は・・・・・・。》


 全てを捨てて、自分と一緒に地の果てまで逃げて欲しい。

 

 あの時、思い描いたのは春の穏やかな陽だまりの中で須勢理が穏やかに笑い過ごす風景で、彼女に似た似た(つぶら)な瞳の女児が自分の周りを戯れる景色で、それはあともう少しで手に入ったであろう光景でもあった。


 鳴女という雉子が、須勢理と生まれたばかりの娘を狙って邸に侵入したのを討った天若日子を高皇産霊神の返し矢で弑されるまでは。


 雅はほんの隙間が出来るのさえ惜しいと言わんばかりに加代子を抱き締めた。


「もう、離しません。」


 そして、見えない互いの傷を舐め合うように加代子の唇を求める。


(このまま、溶けてしまえればいいのに。)


 得も言われぬほどに幸せなのに、それがいつか訪れる別れの時を感じさせて、無性に不安に駆られる。雅はその不安に溺れてしまいそうで、加代子を強く抱き締めた。


「雅・・・・・・?」


 いつになく殺気立った雅の様子に、加代子が心配して声をかけてくる。


 甘く自分を労わるような優しげな声。雅はその声にすら、息が詰まり、ぎりりと奥歯を噛み締めた。


(落ち着け・・・・・・ッ。)


 このまま欲望のままに振る舞えば、自分は彼女を壊してしまう。


 猛獣が唸って威嚇するように、加代子を見据えれば、彼女の瞳には戸惑いが見られて、それがいっそう彼女を追い詰めたい心地にさせる。


 雅は加代子を見据えると「()()()」と呼び掛けた。


「あ・・・・・・ッ?!」


 真の名で縛られて、加代子は驚きに目を見開く。雅は驚いた様子の加代子の耳元に唇を寄せると、「どうか願いを聞き届けてください」と

囁いた。


「ね、がい・・・・・・?」

「ええ、我が罪を在らじと、許してくださいませんか?」


 懇願にも似た雅の声に寒気に似た感覚が背筋から腰へと走る。と、同時に優しく、それでいて琴を奏でるように肌に触れられると、擽ったさに吐息が漏れる。


「ちょ、雅、待って・・・・・・。」

「残念ながら、そんな余裕は残っておりません。ただ()と仰ってください。」


 耳を食むようにして雅の声が霞がかかった頭に響く。


「是・・・・・・?」

「ええ、身を滅ぼすと分かっていても、恋わたる私を許す、と。」


 それなら「おあいこ」だと思いながら、「分かった、許すよ」と答えると、雅は嬉しそうな、それでいて切羽詰まったような表情になり、噛み付くようにして口付けた。


 ああ、壊わされる――。


 今までの「島崎 加代子」では無くなる。


 心も、身体も、今までの価値観も。


 雅に求められると、そんなものどうでもよくなって、ただ彼の為にありたいと願ってしまう。


 指先を絡め合い、縫い止められるように押さえ込まれれば、逃げることも出来ない。


 ひと ふた み よ。


 いつ む な や。


 ここのたり。


 雅の願いを受け入れれば、心は震え、埋め火を起こすようにして、身体の芯も熱くなっていく。


 振るえ、ゆらゆらと奮え――。


 身を滅ぼすと分かっていても恋わたるのは自分も同じだ。


 彼に罪などない。


 もし罪があるのだとしたら、彼に平穏な夢すら見せてくれないこの世界の方だ。


 ならば、この世界の方を祓うのが筋だろう。


 祓いたまえ、清めたまえ。


 惟神(かんながら) 魂霊(たまち) 栄えさせたまえ。


 苦しい冬が続いても、春が来て種が芽吹くように、草が繁るように。


 そして、やがて花が咲き乱れ、実を結ぶように。


 私は何度だって愛しい彼の名を呼ぶ。


()()・・・・・・。」


 加代子がその名を呟けば、途端、辺りは瑠璃色の柔らかな光に包まれる。


 そして、再び目を開けた時、雅の瞳は出逢った頃のように、漆黒で、いつになく穏やかな眼差しをしていた。

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