暗雲、低迷す
瑠璃色の光が部屋を満たす。東京大神宮の神域で水占をしていた高皇産霊神は眩さに顔を背け、水盆から手を離した。
天狐に変じた晴明の姿は消え、水鏡には僅かに波紋が残るだけだ。
(もう少しで捕らえられそうだったというのに、口惜しや・・・・・・。)
晴明のその先にいる須勢理毘売の気配を見つけ、魂呼ばいして手繰り寄せたはずなのに、あと一歩というところで糸が切られてしまった。
(あの様子では雉子も一羽失ったか――。)
言葉には出さなかったものの、その事実が高皇産霊神の眉間にいつもより深く皺を刻む。
「申し訳ございませぬ。橋姫は捕らえられ、須勢理毘売には逃げられました。此度は失敗に終わったようにございます。」
「そう――。」
御簾越しにか細い声で応じたのは、天照大神、その人だ。
「されど、須勢理毘売の居場所は掴めましたゆえ、次こそは呼び寄せられましょう。」
その言葉に「高木の神よ」と天照大神が声を掛ける。
「お主は《龍》ではないでしょう。仮にあの者の《流離の力》を得られたとして、その後、いかがなさるのです?」
燈火の火にゆらりと影が揺れる。高皇産霊神は表情を崩すことなく「新たなる天疎向津媛として栢の木を撞く心づもりです」と答える。
「栢の木を?」
「ええ、その木はこの穢土の地の澱みきった水を吸い上げて浄化しましょう。」
「あの者が新たなる天疎向津媛に相応しいと?」
「ええ、あの者は、元々、八岐大蛇の贄の魂です。心の太柱の人柱として申し分ないのは彼女だけでしょう。」
そして、「悪しき龍共の龍穴を塞ぐにもちょうど良いかと」と話せば、天照大神は「素戔嗚尊の反発や住吉の者達への影響はどうでしょうか」と訊ねる。
「もちろん多少はございましょう。」
しかし、その反発を受けるのよりも龍穴を塞ぐ方が利があると高皇産霊神は説く。
「素戔嗚尊は我が娘がその魂の糸の端を掴んでおります。それに塩土老翁もへそを曲げられるやもしれませぬが、姫様の神威がこれ以上削がれる事を言えば、あの方々とて、神皇産霊神との盟約ゆえ強くは反対出来ぬかと。」
龍穴をこのまま放置すれば、龍の力は増し、天にあっては雲が生まれ日を隠し、地にあっては濁流となって若木を倒す。
「封印を施す《籠目の呪》を施し、この穢土も幾度となく火で祓って参りましたが、澱みは晴れず、姫様の御力は削がれるばかり。」
日の光なくば、木は育たず、地は荒れるばかりだ。
「住吉の神の申し出もあり、大己貴命の一族との和議を結ぶべく、大物主神の娘、媛蹈鞴五十鈴媛を磐余彦の正妃に受け入れましたが、今は受けいれるべきではなかったと悔いております。」
媛蹈鞴五十鈴媛を介して、大己貴命の血脈は、磐余彦の子々孫々として保護されて、天つ神のそれと同じように繋ぎ繋がれ今に至る。しかも、愚かなる葦原中国の民草が、幽世から大己貴命の封印を緩めたことで、一部の社で大己貴命を祀るようになり、果ては「源 雅信」などという新たな火種も生まれ出た。
「葦原中国をいくら禊しても大己貴命の気配が消えぬまま。しかも、この五百年ほど余りに至っては、龍穴も力を増しております。」
この一千年、転生して見失ってしまわぬように、元「大己貴命」の魂を飼い慣らしてきたというのに、時が経てば経つほどに比例して龍穴は大きくなっていく。
初めは出雲に生まれた小さな泉サイズの龍穴は、塞げば塞ぐほど、京へ、尾張へ、江戸へと移り、今は皇居一体のサイズとなり大きな籠目の呪を施しても龍の気が漏れ出る。
「対して我ら加羅の民の力は弱まるばかり。特に先の日食からは姫様も龍の気に当てられておいでです。」
高皇産霊神は「式年遷宮で我らが拠り所こそ、昔のままとして力を保持していますが、それもいつまでも持たぬでしょう」と話し、水盆に触れて三界の様子を映し出す。
そこには逃げ惑う葦原中国の民草、同じ位相にある高天原の崩れ落ちる様子が映し出された。
「新たな龍穴の発生に、高天原の地は端の方から崩壊をし始めております。このままでは、姫がお隠れ遊ばした時と同じように天は暗くなり、地は水火に壊されましょう。」
海神も一枚岩ではない。塩土老翁ら古参の者こそ、大山祇神と同じように付かず離れず、高天原と一定の距離を保っているが、星の神などは積極的に高皇産霊神に賛成している。
「表筒男命、中筒男命、底筒男命は海神ではありますが、むしろ龍穴は彼らにとっても害。彼らから言われれば、塩土老翁とて黙らざるを得ないでしょう。」
水盆に映し出される景色に天照大神は立ち上がり、崩れ始める高天原の地を眺める。
「どのくらい保ちますか?」
「正直に申して、一刻の猶予もございませぬ。葦原中国の時でもって三年といったところでしょうか。」
それよりも早くに崩れるやもしれないと高皇産霊神は天照大神に話す。
「天之御中主は中立の立場を崩されず、神皇産霊はこの事態を逆に面白がっている節が見受けられます。」
大己貴命が幽世に送られて以降、神皇産霊神はまつりごとから離れ、葦原中国をふらふらとしていることの方が多い。そして、珍しく社に戻っていると思えば、火産霊神は人魑魅の眷属を連れてくる始末だ。
「天之御中主にこちら側に付くように、今一度仰っていただけないでしょうか?」
そうすれば「多少はまつろわぬ者どもと拮抗でき、もう一度、須勢理毘売を得る機会が取れるであろう」と訴える。しかし、天照大神は「それは難き事」と呟く。
「天之御中主が間に立ってくださって、今の任那の長たる神皇産霊神が妾の話を聞いてくださっている状態。それを崩せば黄泉との諍いに加えて高天原でも内乱となりましょう?」
「しかしながら・・・・・・。」
「事を急いては事を仕損じます。味方につけるのであらば、何も天之御中主に拘らなくてもよいのでは?」
その言葉に「姫様には何かお考えがあるのですか?」と高皇産霊神が訊ねる。
「ええ。火産霊神と入れ替わります。私は伊邪那岐命どころか、自分自身が見間違うほどに彼の神と瓜二つ。猶予のない今、あの奇策に出る他ありますまい。」
「入れ替わられて何をなさるのです・・・・・・?」
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、というではありませぬか? 須勢理毘売が愛宕の社に行くのを雉子が見ていたのでしょう?」
「よもや御身自ら須勢理毘売にお会いに行くつもりですか?」
「ええ。たとえ私が大己貴命から須勢理毘売を奪い去ってしまえば、形勢は逆転しましょう。」
「しかし、それはあまりに危険な賭けかと。」
「ならば、私が危険にさらされぬよう、策を考えてくださいませ。」
天照大神が何を言っても覆す気がないことを感じ取ると、高皇産霊神は「御心のままに」と頭を垂れる。天照大神は衣擦れの音をさせて、静かに退席する。一方、部屋に残された高皇産霊神は、次にどう動くかを思案した。
日の神を火の神に化けさせて、須勢理毘売を拐かし、栢を撞き、常世に沈める。
(それと、淤迦美神と大己貴。奴らも常世へ沈めねばなるまい――。)
チャンスは一度きり――。
須勢理毘売を常世へ送り、彼女を助けようとする淤迦美神と大己貴命を共に岩谷戸の向こうに押し込めて、奴らが戻る前にきっちり岩谷戸を閉じられるかどうかが肝だ。
(彼奴らを全員幽世に送り、龍穴を塞ぐことが出来れば、まだ望みはあるやもしれぬ。)
「思兼神と建御雷神を我が局に呼んで参れ。」
拝殿を後にしながら言えば、どこからともなく「は」っと返事をする声がする。
「瑠璃の珠姫は素戔嗚尊らにとって宇迦の姫。用心して事にあたるが良い。」
「承知しました」という声は闇に消える。高皇産霊神は美しい瑠璃色の光を放つ魂に思いを馳せた。




