常春の庭と庭燎
春風に乗って雅の笛の音が聞こえてくると、少彦名命は「始まったか」と呟き、罔象女神も「思うたより、時間がかかりませんでしたね」と囁いた。
二人のいる局は、加代子たちの局から少し離れており、目の前には中庭が広がっている。晴明が言うには、この中庭は常春の庭の礎になっていて、眼前に聳えるようにして生えている大きな桜の木がその要なのだそうだ。
晴明は目を覚ました後、辺りの有り様に溜息をつきつつ、罔象女神に丁重に謝った。それから、立ち枯れてしまったか桜の木の根元に方陣を描き、真ん中に祭壇を設けて四方には篝火を焚くと罔象女神を言祝ぐ祝詞を用意した。
「ねえ、晴明? かなり大掛かりな仕掛けのようだけれど、あまり畏まらないで欲しいの。そういうのって出来る?」
⠀困ったように話す罔象女神の申し出に、晴明は一礼し「神のまにまに」と言うと、祭壇の上に置かれた大きな幣を手にし祝詞を簡易版で読み読み上げ始めた。
⠀水の神⠀罔象女神の坐わすところ
⠀渦の幣帛を⠀井輪に取り刺して⠀祈り給い⠀
⠀御祝ぎ申す事を⠀所聞こし召して
⠀水満たし⠀八百万の神諸共に
⠀平けく安けに⠀し給う事⠀畏み申す
⠀伏し目がちに静かに祝詞を上げる晴明は、神の目から見ても好ましく、とても人魑魅のそれには見えない。
「須勢理毘売命から偏諱を受けて、益々、良い男になったわね。」
罔象女神が褒めれば、晴明は「お褒め下さりありがとうございます」と微笑む。
彼女の中に巣食う蛟龍は、元は毒蝮が五百年以上経てなったものであり、本来なら、千年経てば龍となる。しかし、いまだ龍にはなりきれないのは、彼女の神気が封じられ、人魑魅へと堕ちたからに相違ないだろう。
「しかし、須勢理毘売命の力を使おうとすると、大きく膨れており、制御がなかなかに骨が折れます。」
須勢理毘売命の力を代行して使用しようとすると、前の感覚のままだと上手く扱えない時がある。現に橋姫と一戦交えている合間も、晴明はすぐにも暴走しそうな須勢理毘売命の力を抑えるのに必死だった。
それも《火》の力が酷く弱まり、《金》の力が大きくなり過ぎているせいでもある。
「金の気は《艮》の気。その力が強まれば、火を侮り、水は生じ続け、木を剋す。しかし、金を剋する事を水は憂う。」
名を「清明」ではなく「晴明」としていたのは、罔象女神の加護を受けても水の気に呑まれぬようにと師である賀茂忠行が付けてくれた名だが、須勢理毘売命の偏諱を受けてしまった後は水の力がやけに強まっていた。
(それにしても、なんと危うい力か・・・・・・。)
制御の代行役を買って出てはいるが、加代子のままでは器から力が溢れ出てしまうのも道理だ。そして、それは周りへ影響も出始めるし、彼女への反動も大きくなる。
「水の神よ、どうか私めに須勢理毘売命の水を制御するだけの御力をお分けいただけないでしょうか?」
晴明が頭を垂れて話す頃には、春風のように心地よい横笛の演奏は、ぽってりと八重に咲く桜のように含みのある篳篥の演奏に変わり、辺りに鳴り響き始めている。
罔象女神はその音をなぞるように口遊み、それから「少彦名命はどう思う?」と訊ねた。
「水司の力、晴明に幾ばくか渡してもいいと思うているのだけれど。」
少彦名命はせっかく整えた頭をガシガシと掻く。
「安全装置として晴明が機能しない方が困るんじゃない?」
「それはそうだが、晴明の器が耐えられるだろうか?」
少彦名命がそういえば晴明は「ご心配には及びませぬよ」という。そして、呪を唱えれば、その姿は淡い光に包まれ、つり目は変わらぬままに白金の髪に金眼の姿に変じた。
「お主、その姿・・・・・・。」
「はい、私も空狐を飛び越えて天狐になるとは私も思うておりませんでしたが、余程、相性が良いのでしょう。」
晴明は「呪符が無くても、狐火くらいなら使えるようになりました」と青い火を作る。
「ですが、この力は《火》の力。須勢理毘売命の《水》の力の前には剋されてしまうのです。」
普段ならまだしも今日のように加代子が力を使ったなら、須勢理毘売命の力は抑えきれない。
「大山祇神に《土》の力をお借りして剋する事も出来ますが、出来れば《水》の力をお借りして比和させられればと存じます。」
晴明は「今の我が身であれば、罔象女神の御力も受け入れる事が出来るでしょう」と話す。
少彦名命は「器が大丈夫なら、問題なかろう」と話せば、罔象女神も「さあらば、与えん」と答える。
庭燎は和琴の独奏の調べに変わり、天狐の姿に変じた晴明は式神達に祭壇をいったん下げさせると、「人」という字で六芒星を作り「囲め、囲め」と静かに唱えれば方陣からは葛の葉が生うるようにして、白い光が立ち上る。
それはまるで籠のように晴明を囲うと、罔象女神は音もなく、ふわりと晴明の背後に浮かんだ。
加護の中の 十理は
五 五 で合う
そう節を付けて歌えば、庭燎の調べに乗せて碧翠色の光が立ち上り、葛の葉に色がついていく。笛の音、篳篥の音が和琴の調べに重なって、晴明が「深山には」と歌い始めればそれは一層鮮やかに染め変わっていく。
霰降るらし
外山なる――
春風が吹き、翻れば白く、戻れば碧色に輝く葛の葉に囲まれて、「かごめ」を唱え終えた罔象女神は「ひふみ」と数を数え出す。
晴明がそれに合わせて、青海波を舞うようにして袖を振れば、葛の花は鉾鈴のように花開き、風に揺れた。
震え ゆらゆらと 震え――。
晴明の身体を霰のような青い光が包み、やがて消えると、晴明はにこりとする。
「ああ、これならば、だいぶ操りやすくなりましょう。」
そう言うと晴明は、中庭の桜の幹に触れて、呪を唱え始める。すると、晴明を中心に春風がそよぎ始めた。
蕾がつき、膨らみ、綻び、匂い立つ――。
晴明の触れている桜の木を中心に、あたりは百花繚乱の景色となり、罔象女神も少彦名命もその美しい景色に「ほう」とため息を漏らした。
「なんとまあ、見事なこと――。」
罔象女神の感嘆の声をきっかけにしたかのように聞こえてくる曲調が変わり、雅信を本拍子とした阿知女が聞こえてくる。末方は博雅が務めているのだろうか、力強い声が聞こえてくる。
「ここまで浄化されれば、葦原中国に悪しき影響は出ないでしょう。」
罔象女神はそう言ったが、少彦名命は「いや、逆の意味で影響が出るんじゃないか」とぼやいた。
「え?」
「やり過ぎだと言っている。立石の熊野の社は晴明がかけた呪のある所だろう? ましてや、ここには大己貴命と須勢理毘売命がおる――。」
幸い初夏の気が盛んな時期だからあまり目立たないかもしれないが、これが冬の時期であれば、今施した呪は真冬の只中にあって、一気に春に染め変えるような力を持っている。
「罔象女神の流転の力、須勢理毘売命の流離の力。その上、大己貴命の地鎮の力も働く。」
少彦名命が「な? やり過ぎだろう?」と言えば、晴明は「このくらいでは、この穢土の地は浄化しきれませんよ」と笑った。
「龍穴の封を解いて言祝がれるなら、あるいは仰ったような浄化が施されるやもしれませんが・・・・・・。」
そうなったなら、雪解け水が鉄砲水として押し寄せるのにも似た大きな反動が起こる。
「龍穴を解けば、それこそ八岐大蛇が出てもおかしくない状況です。結び目が解けぬことを願うばかりですよ。」
東京と名を変えて《土》の気ばかり溜まったこの土地では、一部は東京湾に注いでいるものの、その多くの《水》は行き場を無くして溜まるばかりだ。
「それにもし彼の方が《大峠》を求めるなら、我らには止められませぬ。この地は秩序を失い、混沌に飲み込まれましょう。」
深い無秩序の世界に。




