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屋烏の愛  作者: みなきら
愛、屋烏に及ぶ
14/34

神楽歌(かぐらうた)

⠀常春の庭の大嵐の後、加代子たちがひと心地つけたのは、夕陽傾く頃だった。


「私たち、何か手伝わなくて良いのかな――?」


 罔象女神や少彦名命から《気》を分けてもらい回復した晴明は、加代子たちに一室を設けてくれた後、「ごゆるりとお過ごしください」と挨拶し、すっかり姿を消してしまった。


 慌ただしく行き交うのは晴明の式神だろうか、まだ騒々しさが残っている雰囲気なのに、雅はどこ吹く風といった感じで、琵琶の姿に戻ってしまった青山(せいざん)を奏でている。


「こうして音楽を奏でることが手伝う事になっていますから、問題ないと思いますよ?」


 柱に寄り掛かるようにして、琵琶を掻き鳴らしている雅が答えれば、加代子はきょとんとした表情になった。


「それで、手伝っているの――?」


 俄には信じがたかったものの、雅の傍に控えている紫苑も頷き、「神遊びすることで、罔象女神の《気》が、この音に乗って邸内に行き渡りますから大いなる手助けをしていらっしゃいますよ」と話す。


 加代子が「神様の《気》とはそういうものなのか」と訝しがっていると、雅がくすりと笑った。


「《遊び》は大事なんですよ?」


 一旦、青山を奏でる手を休めると横に置く。


「それって、リフレッシュしろとか、そういう事?」

「いいえ、そういう訳ではなく。元々《遊び》は神事だという話ですよ。」

「神事――?」

「ええ。そうです。」


 そう言うと雅は「あ」は接頭語、「そぶ」は「ぶ」だと話す。


「元来は、国を統べるための旗をはためかせ、神の力をその旗に下ろす神事が《遊び》であり《神楽》なんです。」


 雅は「今頃、晴明は神楽の準備をしていると思いますよ」と話した。


「加代子さんも神楽歌の管弦に参加なさってはいかがですか?」

「え・・・・・・。」

「最近は和琴を習っていらっしゃると風の便りに聞きましたよ?」


 加代子が言葉に窮していると、傍に控えていた小笹が代わりに答える。


「長秋卿から庭燎(にわび)阿知女(あちめ)をお習いになられて、先日、火産霊神にご披露なさいました。あと、時折、明星あかぼしもお弾きになられています。」


 それを聞くと雅は懐かしげに「明星ですか」と呟いた。一方、加代子は慌てる。


「そ、それは博雅さんに習ったわけではなくて・・・・・・。」


 何度か過去の自分を見ている中で、印象深かった曲だから、試しに弾いてみただけだ。


「ですが、長秋卿も、一番、お褒めになっていらっしゃいましたよ?」

「え・・・・・・、あれ、聞かれていたの?」

「ええ、さわりのところをお弾きになられてるのを聞いて、心に染み入るような演奏だと仰っていらっしゃいました。」


 それを聞くと雅も「少し弾いてみてくださいませんか」と強請(ねだ)り出す。小笹も「河霧を長秋卿よりお借りしてまいりましょう」と膝行いざり去っていってしまった。


 加代子はますます目を白黒させる。


「明星は本当にさわりのところだけしか弾けないのに。時折、須勢理毘売命として弾いていたのを思い出したから、試し弾きしただけなの・・・・・・。」


 雅は「それでもいいですよ」と言い、「私には聞かせてくれないのですか?」といつになくせがんでくるから、加代子は困り顔になった。


「《明星》はちゃんと弾けるようになってから聞かせたかったんだけど、もう少し練習してからじゃ、だめ?」

「そんなにお嫌ですか?」

「ううん、嫌じゃないんだけど――。」


 加代子は「明星は《大事な曲》だから」と答えると口籠った。


 明星あかほしは 明星みょうじょうは くはや 此処なりや 

 何しかも 今宵の月の ただ此処に坐すや

 ただ此処に坐すや――


 須勢理毘売命が《月影の君》こと大己貴命を想う時、彼女は「今宵の月の」から口遊みながら、撫でるようにしてそっと和琴を奏でる。


 順掻き 逆掻き 片掻き 折手――。


 その音色はとても切なくて、須勢理毘売命の意識に囚われながらも、気持ちは同調してしまって物悲しくなる。


 加代子が浮かない顔をすると、雅は加代子の傍へと移動した。


「何か悲しい事を思い出すなら、無理にとは言いませんよ。」


 加代子の傍に腰を下ろすと肩を抱くようにして引き寄せられる。低いよく通る声で「気に病まないでくださいね」と囁かれると無性に泣きたくなるから不思議で唇を噛み締める。


「ただ加代子さんが大事だと感じているように、大己貴命にとっても、明星は思い出深い曲だったから聞いてみたかったんです。」


 そう言うと、雅ももう何千年も前の事だというのに、月明かりの中で楽しそうに琴を爪弾いている須勢理毘売命の姿が、ついこの間の出来事のような気になって物狂おしい心地になる。


「大己貴命としての記憶は、正直、どれもこれも悲しく辛い事ばかりなんですが、あの日の事だけは思い出して良かったって思っているんですよ。」


 須勢理毘売命が爪弾く度に、その一音、一音が自分の心の琴線に触れ心が震える。


 自分を月に例えると言うなら、彼女はまさに明星あかほしで、今も心を離してくれない明星みょうじょうだった。


 どこか遠い目をして昔を懐かしむ雅の様子に、加代子はふと《大己貴命》に取って代わられて《雅》が消えてしまいそうな心地になって不安になり、「さわりを弾くだけなら」と口走っていた。


「弾いて下さるのですか?」


 心底嬉しそうに目を細めて笑う雅の様子に加代子は目を奪われる。それでも言いようのない胸騒ぎは消えなくて「ねえ、雅」と声をかけていた。


「何です――?」

「雅にとっての思い出の歌や曲はないの?」

にとって、ですか?」

「うん、《琴子》との思い出もあるでしょう?」


 雅は一瞬不思議そうな表情をしたものの、綿雪のようにふんわりと優しく微笑んで「もちろんありますよ」と答えた。


「その頃は、どんな歌や音楽が好きだったの?」

「そうですねえ・・・・・・。」


 雅はそろそろと近付いてくる他の人の気配を感じると、「ああ、それはまた二人の時に」と言いながら几帳を引き寄せ、庇から加代子の姿が見えぬように隠す。


「兄者、盗み聞きなさるのはいかがと思いますよ――?」


 雅の声に外へと目を移すと、「ばれてしまったか」と烏帽子の先が几帳越しに現れる。


「すぐそうして出し惜しみをするのだから。勿体ない。」


 お主が歌えば、この庭の花が開き、鳥も歌う勢いだろうにと言う。


「仕事の時は仕事の話しかしないから、村上の帝の御世に堅物呼ばわりされたりもしていたが、気の置けない者といる時くらい口遊めば良いものを。」

「管弦の遊びにかまけて、あれもこれもと仕事を押し付けていた兄者がそれを仰いますか?」

「む?」


 とぼけた声が聞こえてきて、雅は「それに先触れもなく渡っていらっしゃるとは失礼でしょう?」と文句を付ける。


「こちらには加代子さんもいると言うのに。」

「おお、それだ! 琴姫が弾くと聞いて居ても立ってもいられなくなって、こちらに来たのだ。音合わせをしようではないか!」


 「岩浪も河霧を持ってきたぞ!」と声を弾ませていう博雅は、晴明の危機と知ってか知らずか、酷い有様のこの邸にふらりとやってきて、雅を見るなり、おいおいと号泣し、泣き止むと同じ調子で音合わせをしようと騒いだ。


 そんな博雅に、雅は冷たい笑顔を浮かべて「こちらにいらっしゃっても邪魔です。晴明を助けたい、音合わせをしたいとお思いなら、葉二つと河霧でもお持ち頂けませんか?」と追い返したのが一刻半前。雅はその時と同じような笑みを浮かべ、また博雅を追い返しかねない顔になっていて、加代子は思わず雅の袖を引いた。


 口を開きかけた雅は加代子が首を横に振るのを見ると、ため息を吐く。


 いつの間にか加代子の傍に控え直していた紫苑はその様子にくすりと笑い、小笹はそっと河霧を加代子の前へと押し出す。いそいそと博雅は葉二つを取り出し、雅も半ば諦めて青山を取りに立ち上がると、もう一度調律し直した。


「こうしていると何やら千歳ちとせの時が流れたとは思えないな。」


 楽しげに笑う博雅の様子に、雅も「まあ、そうですね」にと懐かしげな声になる。


「あの頃がいっとう幸せな時でした。あの頃は、あのまま変わらずに日々が続くと信じて疑わなかったものですが――。」

「む? 何か変わったことがあるのか? こうしてまた三人で合奏するというのに。弾けばあの頃と何も変わらぬであろう?」


 その言葉に雅が目を見開く。


「晴明も《呪》などと頭の痛い話をしてくるが、俺にとっては花が咲いていても葉桜になっても桜は桜に見える。」


 博雅が「俺からすれば、お主は俺の持たぬ胆力と音楽の才を持つ男だと思うておるよ」と、真面目な顔をして言う。


「そういう兄者は相変わらず、気持ちのいい人ですね。」

「む?」

「鬼にも気に入られるわけです。」


 そう言ってくすくすと雅が笑えば「お主は鬼さえ、魅入られそうだと思うが」と博雅が続ける。


「葉二つの事にしたって、雅信が笛を奏していても、きっとあの鬼はこの笛を与えてくれたであろう? 俺の時は笙の音と西の空に五色の雲が出たと騒がれたらしいが、お主の時は天が泣き、韓神の音がし、花咲き乱れたと聞いていたのだが・・・・・・。」


 「いつの間にか、俺の分だけ逸話として残ってしまって、雅信の逸話は口に登らなくなってしまった」と話す。


「兄者の酔狂ぶりは当時の京にも知れ渡るところ。鬼も恐れをなせばこそ、葉二つを譲られたのではないでしょうか?」

「んなッ?! 酔狂とは・・・・・・、そんな風に俺を見ていたのかッ?!」

「何度、伯母上から《雅信がうちの子なら良かった》と言われたと思っているんですか?」

「ぐぬぬ・・・・・・。」


 まるで兄弟のようなやり取りをする二人に、几帳の陰で加代子達もくすくすと笑う。


「晴明と言い、雅信と言い、もう少し年長者を敬ったらいいと思うが・・・・・・。」

「そういう事は年長者らしい事をなさってから仰ってくださいね。」


 そんな歯に衣着せぬ応酬をしている二人に、加代子は不思議と懐かしさを覚えた。


 不意に琴子の時の記憶が蘇ってくる。


 ああ、そうだ――。


 琴子()はこの心地よい輪の中にいた。


 元服前、父の元に音楽を習いに来ていた博雅と雅信は、よく琴子の局の近くの庭で蹴鞠をし、父の飼う鷹と戯れていた。


 加代子はそっと河霧に手を伸ばすと、当時と同じようにその弦を爪弾く。途端に騒がしくしていた二人は大人しくなる。


 加代子が庭燎の冒頭部分を弾くと、雅が横笛で、博雅が篳篥でそれに応え始める。加代子はその音に酔いしれた。

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