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屋烏の愛  作者: みなきら
愛、屋烏に及ぶ
12/34

宇治の橋姫

⠀晴明の生み出している常春の庭に嵐は来ない。ここはいつだって穏やかで、ここはいつだって平和だ。


「晴明、どうなってる――ッ!?」


⠀しかし、突然吹き荒れ出した雨風に、紫苑が加代子を庇いながら叫ぶように訊ねても、晴明は一意に呪を唱えるばかりで返事はしなかった。


⠀俄に野分立った庭からは雨が激しく吹き込んでくる。それでも辛うじて斎が護符で結界を張ってくれていたから、調度類が倒れてきても、弾き飛んでいく。


 既に蔀戸や遣戸は意味をなしておらず、下手すれば邸ごと飛んでいきそうな空模様に、斎も「結界もそんなに長くは持たない」と叫んだ。


⠀晴明はそれでも呪を唱えていたが、「分かっている」と言わんばかりに眉間の皺が深くなる。


「小笹。」


⠀加代子が小笹を引き寄せて話せば、小笹はひとつ頷いて篠笛のネックレスへと戻る。


 雲は飛ぶように早く、雨は弾丸のように鋭い。加代子は大烏に変じた紫苑の陰に隠れていたが、それでも身体のあちこちが痛かった。


「結界が破れるッ!」


⠀斎が叫ぶと、大きく何かが布が引き裂かれるような音がして、庭の空間に亀裂が走った。


 紫苑は大きく羽根を広げて、三人の姿を隠す。


「晴明ッ!」


 呪詛返しに失敗したからか、晴明は血の気が引いてその場に伏せる。斎がそれを支えるとぼそぼそと何かを耳打ちしたらしかった。


「罔象女神の神域に、何奴ぞッ!」


⠀大烏と変じた紫苑は地響きの如く叫ぶと、亀裂からにゅっと鋭い爪の生えた手がさらに引き裂くようにして伸びてきて、男とも女ともつかないくぐもった声で何かを言っている。


 雨と風と、それから、酷く()えた匂いにぐっしょりと濡れた袖で加代子は口を覆う。助けを求めるように斎を見れば、口に人差し指を宛てがい、静かにしてるようにジェスチャーされた。


「罔象女神の神域がどうした? ここには憎きあの女の臭いがしている・・・・・・。」


 濡れそぼった髪を振り乱し、黒い靄のようなものを纏った女は、やがて巨大化し、般若の面のような顔に変わっていく。


「口惜しや――。あの女がいる気配がするのに姿が見えぬ。さては、晴明、隠しおったな・・・・・・。」


 ギラギラとした目で、辺りを見回し「八咫烏、女をどこへ隠した」と喚く。


 黒い靄に絡み取られると、紫苑は苦しそうに数度羽根をばたつかせて動かなくなり、その陰にいた斎も苦しそうな表情になると「ごめん」と告げて琵琶の姿で転がった。


「ここに確かにおろう? 臭う、臭うぞ――。こそこそ隠れておらず、出て参れえぇぇぇッ!」


 咆哮のような声と共に生臭い息が吹きかかってくる。加代子は恐怖のあまり、身体中の毛穴が開いて、総毛立ったのを感じた。


 怖い――。


 加代子の口の中は干上がり、滝のような汗が身体を伝ってくる。


 残されたのは、未だに自分を探す鬼女と自分だけ。手元に武器になるような物もなく頼れる人もない。


 それでも逃げなくてはと思って、徐々に自分に迫り来る黒い靄から逃げるようにして後退りすれば、あちこち見回していた鬼女と目が合った。


「臭う。こちらの方にいるだろう?」


 赤い燃えるような目に見据えられて、わなわなと身体が震え出す。途端に思い出されたのは、複数の「赤」だった。


 自分を支配せんとする淤加美神の眼。


 検非違使の赤い衣。


 橋姫の憎々しげな眼。


 自分の胸を貫いた紅玉の無邪気な眼。


 ああ、そうだ、渋谷で胸を貫かれた時も犯人の眼も充血していて赤かった。


 「赤」、「赤」、「赤」――。


 自らから零れる血の、大量の「赤」の中に沈むようにして、意識が途絶えた瞬間を思い出す。


 「赤」の先にあるのは「死」だ。


 そう思ったら居ても立っても居られなくなって、加代子は()けつ(まろ)びつしながらその場を逃げ出した。


(重たい――。)


 雨に濡れ重たくなった平安衣装ではそう長い距離は移動できずにすぐに転ぶ。しかし、ここで洋装に変ずれば見つかってしまう。


 ひとまず上の衣を脱ぎ捨てて身代わりとし、部屋の奥へ、奥へと逃げ込めば、物音に気が付いたのか、鬼女が「そちらにおるな?」と一直線に近付いてくる。


「衣だけか・・・・・・。だが、近くには居ろう?」


 加代子は必死に叫び出しそうになるのを、口を覆って堪えた。


「観念して出てまいれ――。今なら、苦しまずにひと噛みで殺してやろう。出て来ぬなら、腹を割いて苦しむ事になるえ・・・・・・?」


 無邪気に弄び、虫の脚を引き千切る子供のように嬉しそうな笑みを浮かべる鬼女の様子に、加代子はどうしたら良いか分からなくて身を縮めた。


(助けて・・・・・・。)


 脳裏に閃くのは、いつだって自分を守ってくれる雅の姿だ。


《雅信と呼んでください。そしたら、直ぐに傍に行きますから。》


 黄泉の国に囚われているはずの彼に助けてと言ったって、届かないに決まってる。


 でも、まだ、こんなところで消えたくない。


 じりじりと距離の狭まる現実に、加代子は震える声で「雅」と呟く。その声に呪は解けて閉まったのだろう、鬼女と目が合い、「見付けた」とニタリと嗤われた。


 助けて――。


 かもじを結んだ髪を引っ張られ、引き倒されてもんどりを打つ。


 長い爪が迫ってくる――。


 加代子は大きく息を吸い、目を瞑ると、あらん限りの声でその名を呼んだ。


「雅信――ッ!!」


 暴風の中でその呼び声は掻き消え、鬼女が高笑いする。


「ここには誰も来ぬ。大人しく消されるが良い。」


 鬼女に取り押さえられ、加代子は「もう駄目だ」と悟る。


 喰われる――。


(雅、ごめん・・・・・・ッ!)


 自分が不甲斐ないばかりに、こんな所で消されてしまう。


 そう思って、加代子がギュッと目を瞑ると、一陣の風が通り抜けて、辺りに「ぎゃあああ」という叫び声が響き渡った。


 驚いて目を開けると、迫っていたはずの鬼女が後ろへと飛び退っている。


「生憎、鬼一口とはいかせませんよ?」


 加代子は頭上から降ってきた声に驚いて振り返った。


「な、んで・・・・・・ッ?!」


 紫の稲妻を帯びた大鎌――。


 黒く長い外套姿――。


「み、やび・・・・・・?」

「《何で》とは心外ですね。呼んだのは加代子さんでしょう? お怪我はないですか?」


 そう言って、いつものように柔らかく微笑む雅の瞳は、橋姫と同じ赤い色をしているのに、とても穏やかに見える。加代子がゆっくり首を横に振ると「間に合ったようで良かった」とにこりとする。


「もう大丈夫ですよ。」


 天鵞絨のように滑らかな低い声で、暗示をかけるように言われると、あんなに怖かった感情が薄れていくから不思議で、加代子も安心しきった表情になった。


「先日、贈り物をしたのですが、お気に召しませんでしたか?」

「へ?」

「小笹と凛に《直接渡しなさい》としかられまして。」


 雅は苦笑すると、「小笹、箱をいただけますか?」と話す。胸元の篠笛のネックレスが淡く光り、次の瞬間には雅の手の内に小箱だけがあった。


「気を利かせて下さってありがとうございます。」


 雅はそう言ってくすくす笑うと小箱の封を解き、中から指輪を取り出す。


「加代子さん、左手を出してください。」

「左手?」

「ええ。」


 そして、腰を抜かして動けないでいる加代子を支えるようにして、左手の薬指に指輪を嵌めてくれる。


「遅くなりましたが、結婚指輪です。」


 プラチナだろうか銀色の指輪には、一周ぐるりと細やかなダイヤがあしらわれたパヴェの指輪で、加代子はただ呆気に取られていた。


「ああ、やはり似合いますね。華奢な感じがお好きかなと思ったんですが、いかがです?」


 指輪のデザインの事は確かに自分好みではあったが、今は単衣に袴だけの姿、しかもずぶ濡れの状態で言われても、ムードも何もあったものではなかったから、加代子はくっと相好を崩した。


「加代子さん?」


 あははと声を立てて笑えば、雅は目をぱちくりとさせる。


「雅ってば、やっぱりデリカシーに欠けてるよ。」

「気に入りませんでした?」

「ううん、雅らしいって思っただけ。可愛いデザインで気に入ったよ。」

「なら、よかった。護りの呪も掛けてありますから、そのまま身につけていてください。何よりこれだけの瘴気だとかなり息苦しかったのでは?」


 言われてみれば、指輪を嵌めてもらってから、さっきまでの饐えたような臭いは幾ばくかマシになり、こうして雅と話していても苦しさを感じない。


「確かに緩和されたけど、そういう実利の為の指輪なの?」

「いいえ、正真正銘、結婚指輪としてお贈りしていますが、何事も実利は大事ですよ? いい子だから、肌身離さず、身に付けていてくださいね。」

「そんな飼い猫に首輪をつけるみたいな事を言って・・・・・・。」


 それを聞くと雅は「ああ、それもいいですね」と言い、「今度は猫耳をプレゼントしていいですか?」と笑う。


 あんなに緊迫した状況だったのに、雅が現れてからは不思議と肩の力が抜けて、自分の全部を雅に預けたくなってくる。


 加代子はわざとむくれてみせたが、雅が「少しからかい過ぎましたかね?」と楽しげに言うから、加代子もようやくふっと笑みを零した。


「ありがとう。大事にするね。」

「では、結婚指輪も渡せたことですし、続きはあちらを片付けてからにしましょうか。」


 雅の視線の先にある「あちら」を目で追えば、腕を切り落とされた女が蹲って呻いている。不思議と零れ落ちる血は黒く、まるで墨が広がっていくようだった。


「小癪な奴め。一度ならず、二度までも――。」

「加代子さんを狙うなら、何度だってお相手しますよ?」


 雅が余りに和やかに話していたから気が付かなかったが、よく見れば鬼女の周りには何層もの透明な板みたいなものがあって、こちらへは干渉できないでいるようだ。


 橋姫は髪を逆立てて、切り落とされた片腕を反対の手で持ち、雅の事を憎々しげに睨み付ける。一方、雅の方も柘榴石のような目を細めると、橋姫を見据えて薄く笑った。


「さて、次はいかがしましょうか? もう一度、殺り合いますか?」


 橋姫の髪はゆらゆらと靡き、逆巻き、怒りに震えているのが見て取れる。


「貴様、何故、このような力を使える?」

「恐らく貴女と同じ理由ですよ。ですが、貴女に流れていた力は御方様や淤加美神とは違いましたね。いったいどなたに()()()()()()をお借りになったのですか?」


 雅が訊ねれば、橋姫は「我が簡単に口を割ると思うてか?」と答える。


「いいえ。ですが《鳴かぬなら鳴かせてみよう不如帰》という試しもございますし。やる事だけはやってみましょうか?」


 雅は「() (ふう) 見よ 慈くむ名や (くくる)たり」と九字を切るようにして呪を結ぶ。


 すると、呪詛返しをするかのように、橋姫は「万霊(よろづち)も 常葉(とこは) ()えむ いつの世か」と呪を唱え始める。


 紫の雷と橋姫の黒い靄がまるで生き物のように蠢き、渦となり、互いを打ち消しあっていく。そして、雅の張った結界に一つ、また一つとひびが入り、ガラスが壊れるかのように崩れ去っていく。


 と、空から一枚、小さな鳥の羽根が落ちてきたかと思うと渦の中心に落ち、「(さん)ッ!」という声と共に霧散した。


 雲間から一筋の光が差し込み、小さな水の輪が出来ると少彦名命が姿を現す。しかし、驚いたのは加代子達ではなく、少彦名命の方であった。


「なッ?! なんで、大己貴がここにッ?!」


 心底驚いたような顔の少彦名命に、雅はにっこりと笑い「ご無沙汰しております」と手を振る。


「な、何故、お前がここにいる?」


 すると、雅は目を細めて「加代子さんと同じ事を聞くのですね」と楽しげに笑う。


「おちょくんな!」

「おちょくってなどいないですよ。ここには加代子さんに呼ばれて来たのです。」


 その言葉に少彦名命は顔を引き攣らせて、加代子を見る。


「よもや人魑魅の身で黄泉からお前を呼び戻したとでも言うのか? それを信じろと?」

「そうなんですよ、驚きですよね。まあ、加代子さんは色々と規格外(イレギュラー)な方ですからこれぐらいが通常運転なんですけど。」

「今、サラッと酷いこと言ってない?」


 加代子が再びむくれて見せたが、雅は微笑むばかりだ。少彦名命は二人の掛け合いを雅の言っていることが真実だと受け入れたのか、「マジかよ」と頭を抱える。


「一体、どうなってるんだ? お前にしても、須勢理にしても、そこまで神威を使えるもんじゃないだろう?」

「そうですねえ。国つ神の時ですら、ここまでは使えてませんでした。関係するとしたら、龍にとって()()()()()ことでしょうか。」

「時が満ちた・・・・・・?」

「ええ、しかし、それはまた後ほどにしませんか?」


 長閑(のどか)に雅と少彦名命が話している合間にも、パリパリという音ともに結界が破れていく。


「そろそろ、橋姫様が最後の結界も破ろうとしていますから。」


 あっけらかんとして話す雅に、加代子は「それってまずいんじゃ」と話す。


「ええ、破られたら、三人とも恨みをかってますから一溜りもないでしょう。なので、まずは先にあちらを片付けませんか? あなただって罔象女命を連れていらっしゃったのでしょう?」

「いや、俺は逆に引っ張ってこられて、押し込まれた口なんだけどな。」

「そうなんですか? 罔象女神も意外とやりますね。」

「それは・・・・・・、まあ、いい。それで、俺はどうすればいいんだ?」

「ここは彼女の神域です。アウェイな我らよりホームとしている彼女に祓って貰えたら嬉しいのですがお願いできますでしょうか?」


 少彦名命は「お前、自分でやるのを面倒がってないか?」と言って、一瞬、頬を引き攣らせたが、ビキビキと最後の結界が音を立て始めたのを見て、鷦鷯(みそさざい)の羽根を宙へと投げ放った。

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