口寄せの巫女
木漏れ日が若葉色に染まる季節。島崎 加代子は「伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり」と謳われる、港区芝の愛宕神社に来ていた。
と言っても「現し世」のものではない。
現し世のそれは、江戸の頃より火伏せの神としてオフィスビルの合間にある小高い山のお社として鎮座していたが、今、加代子のいる愛宕神社は火産霊神による神域であり、現し世と同じ場所に入口はあるものの、その内に入れば広さも荘厳さも桁違いの場所であった。
「加代子! お主、いずこへ行っていたのだ?」
オレンジ色のみずらを揺らし水干姿で加代子に飛び付いてきた齢十余りの少年こそ、このお社の主祭神、火産霊神である。
「あの騒ぎから、約一年、音沙汰無しであっただろう? 心配していたのだぞ?」
くりくりとしたオレンジ色の目を上目遣いにした火産霊神にそう言われると、加代子は「ご無沙汰してしまいごめんなさい」と話した。
「まあ、こうして元気そうな顔を見せてくれたから良いのだが・・・・・・。なんだか、雰囲気が変わったのう?」
相手は社を構える程の神様なのだから、本来は盛装して来ないといけないのだが、それでは身動きが取れなくなる。見苦しくない程度に小袿を着た加代子は「和装だからでしょうか」と話した。
「して、この一年、どうしていたのじゃ?」
「現し世に戻っていたのです。」
「現し世に?」
「はい、しかし、この度、人としての生を終え、ここひと月ほどは根の堅洲国に身を寄せておりました。ご報告が遅くなり申し訳ございません。」
その言葉に火産霊神は戸惑いの色を見せ、もう一度、加代子にむぎゅうと抱き着いた。
「形代をもう一度渡しておれば命を落とすような事もなかったろうに、そのような事になっていたとは・・・・・・。」
申し訳なさそうに話す火産霊神に加代子は「そういう天命だったのでしょう。お気になさらないでください」と話す。火産霊神は「加代子は人間が出来ているのう」と言って腕を解いた。
「加代子がこのような状態にあるというのに、雅信は何をやっているやら。雅信も根の堅洲国にいるのかえ?」
火産霊神の言う雅信は「源 雅信」の事で、今の通り名は「時任 雅」であり、加代子にとっては大切な人だ。しかし、火産霊神の問いに加代子は曖昧な笑みを浮かべただけで返事はしなかった。
「なんじゃ、喧嘩でもしたのか?」
加代子の様子に、火産霊神は後ろに控えていた女房の小笹に確認する。小笹はなんと答えたものかと加代子を見たが、加代子は首を横に振るだけだ。
「そのお話は昨年頂いた蝶の形代の御礼をお返ししてから、改めてご報告でもよろしいでしょうか?」
加代子の改まった申し出に火産霊神は小首を傾げながらも「良いぞ」と答える。
「ところで御礼とはなんのことじゃ?」
「一年前に琴を弾いてほしいと仰せでしたでしょう?」
「なんと! あの事であったか?!」
途端に火産霊神はふくふくとした笑みを浮かべて、早う、早うと加代子の袖を引き、奥の間へと誘い始める。
「よもや律儀に御礼参りに来てくれるとは思わなんだ。雅信なぞ、毎度、突拍子も無いことを頼みにきては、こちらからのお願いはいつも《いずれ》ではぐらかすからのう。」
すると、加代子もふふっと目を細めて「雅らしい」と笑う。
「そう言えば雅信と笛の合奏が聞きたいと思うていたのだが・・・・・・。」
「それは《いずれ》でございますね。」
「やはりか。そう言うところは夫婦で似なくて良いのだぞ?」
くつくつと笑いながら、火産霊神は「こちらへどうぞ」と加代子と小笹を部屋に通す。そして、その場に坐すと加代子は「それでは失礼して用意致します」と申し上げた。
小笹が一旦部屋を下がり、しばらくすると身長よりも大きな包みを抱えてもってくる。中には加代子の和琴が一張り入っていた。
「ほう、見事な琴だな。」
「お褒め下さりありがとうございます。今日は天詔琴を持って参りました。」
「なんと、それではそれが風の便りに聞く《龍吟の琴》か。」
六弦の琴の初めは天鈿女命が天香弓を六張り用意させて奏でたのに端を発すると言われているが、本当は逆で元々はこの琴の代用で弓を使ったに過ぎない。
「素戔嗚尊が高天原より持ち出し、それを須勢理毘売命が葦原中国に持ち出した琴にございます。」
他はともかく慣れ親しんだこの琴を手放すことが出来なくて、高天原由来のこの琴を持ち出したのは太古の昔。
その後、須勢理毘売命の帰還と共に根の堅洲国に戻り、高天原の者たちに奪われそうなる危機もあったものの、大百足の精の妙白の機転で室に隠され、それ以降、加代子が根の堅洲国に戻るまでの間、大事に保管されてきた和琴だ。
「この琴を奏れば託宣がございましょう。」
「なるほど御礼参りと称して、そちらが本題か? 先程の雅信の件とも関わるのだろうか?」
「はい、関わります――。」
加代子の返事に火産霊神は「雅信に似なくて良いと言ったが、元より似た者夫婦だったようだの」と呆れた。
しかし、それも準備が整い、加代子が神楽歌より庭燎の一節を菅搔で奏で始めると、気を持ち直したのか、火産霊神はうっとりとして曲を聴く。
やがて二曲目に入ると、徐々に弾くてが止まり、ゆるゆると加代子が「かごめかごめ」を歌い始める。
かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ出遣る
夜明けと晩に つうと 神が 突っ入った
そこまで歌い「後ろの正面だあれ」の部分までは歌わずにふっと意識を失い、加代子の体はぐらりと倒れる。しかし、その身体は小笹が支えるよりも早く、音もなく現れた男にそっと後ろから支えられた。
火産霊神は驚きの表情で、目を見開いたまま「雅信」と呟く。男は意識を失った加代子を支え直すと「ご無沙汰しております」と静かに話したが、火産霊神はその瞳が黒い事に気がつくと警戒を露わにした。
「お主は誰じゃ――?」
漆黒の髪、漆黒の瞳。顔立ちは見知っている雅信と同じなのに、受ける印象がそこはかとなく違う。目の前にいる男はもっと厳かな雰囲気をしていた。
男は加代子の傍に腰を下ろし、一年前と同じように愛しそうに触れながら、加代子に膝を貸すと「三輪の大物主にございます」と話す。
「須勢理毘売命の神降ろしの儀にて、幽世より魂魄を飛ばしてきております。」
「大物主、先程の託宣、お主は何を知っている?」
「この国は《大峠》にさし掛かろうとしております。」
ケルト神話においては神々の黄昏、ヨハネの黙示録においては最終戦争と予言されたそれは、日本神話を記す記紀や書物には失われた話だ。
「それはあの《大峠》のことか?」
「左様にございます。」
その返答に火産霊神は眉間に皺を寄せた。
「では、今の託宣で言うなら、籠目の中に捕らわれた鳥は大物主神で、突き入る《神》は雅信というわけか・・・・・・?」
大物主神は「それは分かりかねます」と言いながらも、「ですが、何かの鍵にはなるやも」と話した。
「ここまで実り、熟した国ぞ? 《大峠》が起これば天照大神が全力で抗おう。高天原を敵とせよと言うつもりか?」
「大己貴命が魂は元よりその心積りにございましょう。辛うじて押し止まったのは、須勢理が魂の抱えた葦原中国への思慕ゆえ。」
「辛うじて、とは、事は既にそのように危うい事態になっているのか?」
「はい、大己貴命が魂は荒御魂と化し、黄泉大神の傍らにございます。」
それは、まるで炮録火箭のすぐ側で松明を燃やすようなものだ。
「我らはいずれ一つに戻る必要があるものの、今のままでは和御魂は消し飛びましょう。そうなれば大己貴命の内なる封が解かれて八岐大蛇が目覚めてしまいます。」
「あとは八岐大蛇の脅威が再びということか――。」
この世は再び八岐大蛇の脅威に怯え、人々はその荒ぶる魂を解放し滅びを願った巫女への断罪に走るであろう。
「どうか、彼女の思慕の心をお守りくださいませ。」
大物主はそう言いながら、加代子をそっと横にすると、淡い光を残してすうっと消えてしまう。あとには引き攣った表情の火産霊神と、困惑した小笹が残された。