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横須賀純愛ストーリー

作者: stepano




 まるで夕立を浴びたような爽やかさを感じながら健太郎は部屋に戻ってきた。寮の風呂場のシャワーを使ったのは今日が初めてだ。そばで洗濯機を回していた木本がニヤニヤ笑いながら「先輩、デートですか?」と言いやがった。

何しろ今日は大事な日だ。健太郎にとって断頭台に上るような、そんな日なのだ。だから、まずはすべてを洗い清めいつ切り落とされてもいいように小奇麗にしておかなければならないのだ。

 資生堂・MG5のヘアトニックをビートルズのような頭にふんだんにかけまくり指先で髪の毛をマッサージする。鏡の向こうに(らん)のつりあがった瞳が浮かんでは消える。「誤解だ」思わず健太郎の呟きが漏れる。

 そもそも蘭の友達というのが(せり)でこいつがちょっとかっこいいのでつい蘭に「彼女の横顔っていかすな」って冗談ぽく言ったのが間違いのもとだった。

「そんなら芹と付き合ったら?」

 蘭は完全にふくれていた。

 今日はその決着をつけるというのでこれからその場所へ出陣せねばならない。

 健太郎二十歳。この春、横浜の大学に入学したばかり。大学の寮に入って一月が過ぎていた。


 そもそも木本から先輩なんていわれる筋合いはない。同じ新入生なのに何故自分が先輩になるのか。でも二浪したことを考えれば年上になることは確かだ。ドライヤーで頭を乾かしながら納得した。

 さて、健太郎は本日の作戦をもう一度練りなおさねばならなかった。第一に蘭にどう言って謝るかだ。

「やっぱり君と付き合いたい」と言ってはっきりとさせるか、それとも芹とのことはあくまでも内緒にしておくかということである。

 それにしても芹がつぶやいた台詞にはドキリとさせられた。三渓園でデートした帰り京急のなかでつり革を握るぼくの体を触りながら「蘭に悪いわ」と言ったのだ。

 でもって、やはりこの際、恐らくは蘭はこのことを知っているに違いないとシャワーを浴びながら気付くに至った。なぜなら蘭と芹は友達同士であり、何かと通じ合っている。でないと今日急に「話があるから」と呼び出しを食うはずはない。いよいよ彼女の堪忍袋の緒が切れたのでは。

 階下の食堂で数人がざわついているのが耳に入ったが健太郎はそ知らぬ顔をして下駄箱へ進みスリッパを中に入れて靴に履き替えた。

「おい、大門どこへ行く」

 三年生の角原さんから声をかけられた。

「ちょっと」

「デートか」

「いや、まあ」

「帰ったら俺の部屋へ来い」

「はい」

 急いで玄関を出ると健太郎ただ一目散に駅へと向かった。角原さんの用事はだいたい想像できた。「原潜帰れ!安保破棄!」のデモ要員の話だろう、と思った。


 黄金町の喫茶店「ルーチェ」に入ると、薄暗い店内の片隅に待っていたのは蘭だけではないことに気付いて健太郎は仰天した。

「やあ」

 声をややぎこちなく発しながら二人の前へと歩み寄った。芹の眼も魅惑的に輝いている。動揺を見破ったか蘭は唇の端を微妙に和ませながら「どお?びっくりした?」と開口一番強烈なジャブを繰り出してきた。

「まいったなあ。何?」

「はっきりさせておきたいの」

「うん」

 やはりこれは断頭台だ。もはや観念するしかない。心のなかで健太郎は叫ばずにはいられなかった。

「いったいあなたはどっちと付き合うつもり?」

 蘭が厳しい目つきを寄せてきた。

「うん」

 煮え切らない決断が渦巻いた。完全に男として失格だ。こうなった以上、自分の信用は丸つぶれであることは明白である。だから今日は首をきれいに洗ってきたつもりではないか。

「何とか返事しなさいよ」

「うん」

 健太郎はどう説明したらいいのか迷った。

 みるみるうちにハイライトの吸殻が溜まっていく。

「やめるよ。どちらも付き合わないことにする」

 健太郎は潔く頭を下げた。

「申し訳ない」

このひと言によりしばらくして健太郎に対する風向きが一変した。彼女たちの間で押し問答が始まったのである。

「私はいいから蘭、あなた付き合いなさいよ」

「私は遠慮するわ。気にしないであなた付き合ったら?」

 もはやこの言葉だけが二人の間を往復し、健太郎は蚊帳の外である。気まずい空気が流れ始めた。

「私、帰る」

 終いに蘭は声を荒げて席を立ってしまった。


 シュピレヒコール!

「安保、はんたーい!原潜、帰れ!」

 じぐざくデモは続く。横須賀・臨海公園に集合した色とりどりのヘルメット。みんな口をタオルで隠し、長い角材を持っぞろぞろと前進した。

「整然と行進しなさい」

しきりにマイクががなっている。

左右を見ると機動隊の群れが挟み撃ちしながら押し寄せてくる。

「お前ら、絶対に手を出すな」

「手を出したら公務執行妨害で持っていかれるからな」

角原さんの声が頭を巡る。

しかしそれに混じって蘭のつりあがった瞳が浮かんでいた。

「ルーチェ」に取り残された健太郎と芹はあれから黙ったまま向かい合っていた。

恐ろしいほどの女同士のエゴを感じた。

「まあ、ぼくとしては信用を失ったようだし…」

「…」

「同じことを言うようだけどこの際、どちらとも付き合わないということで…」

「…」

芹は依然と何も答えないので、健太郎としては何度もハイライトに火をつけ、結局その場でひと箱を空にしてしまった。

(よし、けじめをつける意味でこの際、坊主頭になろう)

健太郎は秘かに決断した。このビートルズのような頭をさっぱり切り落として二人と決別するのだ。

そんなことを考えていると芹は何を思ったのかフフッと微笑んだ。まさか坊主頭を想像したわけじゃあるまい。

彼女はそれからおもむろに、「出ましょ」と言って立ち上がった。


デモの四日前。

 決断したとおり健太郎は頭を刈った。さすがにスキンヘッドにするには極端すぎるので、いわゆるスポーツ刈りにした。

 すれ違う寮のみんながえっ?と言うようにして振り返った。ポカンと口を開けて健太郎を見つめた。

「心機一転でして」

 と、あえて尋ねる者には答えた。

 蘭は相変わらず連絡してこなかった。


「横須賀にアメリカの原子力空母がくる。これは絶対に阻止せねばならぬ」

「我々はこのベーテェ-に対し断固立ち向かわなければならないのであって…」

「しかるに現体制下にあってその元凶はアンポであるがゆえ我々はこれを破棄すべく闘うのであって…」

 健太郎は四〇一号室の角原さんの部屋に缶詰になって彼の演説を聞いた。彼はしきりにベーテェ-とかアンポとかの用語を口にした。角原さんは三派系全学連の闘士だ。口に泡を飛ばしながら延々と 健太郎の理解の出来ないアジテーションを続けていた。

 蘭のことが少し気になりなりながらも、分かったようにうなずかざるをざるを得ない。

 それにしてもアンポは分かってもベーテェ-とはいった何だろう。

「ベーテェ-って何ですか?」

 健太郎は尋ねた。それまで勢いづいてしゃべり続ける角原さんのトーンが急停車した。

「うん?」

 角原さんは健太郎の顔をまじまじと眺めてよだれをこぼさんばかりの呆け面を見せた。

「米国帝国主義だよ」

 顔を近づけてきて低い声で唸った。それからしばらく現実に戻ったような目つきになり、健太郎のすっかり変わった頭のかたちに初めて気付いたようだった。

「何だい?その頭は」 

「はい、心機一転で」

 健太郎は角原さんに対しても答えなければならなかった。

 

 臨海公園からスタートしたデモはやがて米軍基地のゲート前でやってきて立ち往生してしまった。

 前のほうで激しく小競り合いが展開されている。突入を図る学生とそれを制止しようとする機動隊の乱闘が始まった。

「逃げろ。ぱくられるぞ」

 周囲で叫び声があがった。健太郎は一目散に駆け出した。


 そんなことがあって一週間が過ぎた。

 あれから蘭は何も言ってこない。洗濯をしたあと寮でひとりでベッドに寝転んで窓から入ってくる初夏の風に触れながらぼんやりとしていた。授業は休講だ。

 しばらくすると木本が入ってきた。

「先輩、彼女とデートしないんですか?」

 ニヤニヤして尋ねた。

「別れたよ」

「どうしてですか?」

「ふられたんだよ」

「へえー。そうなんですか」

 木本は少し驚いて見せながらまだ笑っている。

(こいつには借りがある。やばいことに一度、キャンパスで蘭と一緒にいるところを見られているのだ)

「そういえば電話もないですね」

「そうだよ」

 電話があれば放送され寮生全部に聞こえることになっている。

 蘭のやつ本当に怒ったのだ…

 健太郎は重い気持ちを拭えないまま、起き上がってポットのスイッチを入れた。

「お前、授業は?」

「私も休講ですよ」

「そうか…」

 それから二人は黙ってインスタントコーヒーを飲みながら窓の外を眺めた。

「分かるだろ」

「何が?」

「この頭を見ろよ」

 言われて木本は健太郎の頭を眺めた。

「なるほど」

 木本は低く唸ったかと思うと次にクックッと笑いをこらえた。


 七号館の前の芝生で同じクラスの仁村と話をしていた。

 喫茶店「ルーチェ」にて二人に呼び出され、決別宣言をしてから「原潜寄港反対デモ」に加わったり木本にだけ真相を打ち明けてからおよそ二週間は過ぎていた。

 仁村は言った。

「このあいだよぉ、蘭さん居たぜ」

「どこで」

 健太郎は心をときめかせた。いや待て、決別だ。心に決めたはずだ。半分は動揺している自分に気付きながら話をつなぐ。

「この前だよ。ここで寝転んでいたとき見たよ」

「付き合ってんだろ?」

 彼はまだあの決別宣言を知らない。ま、いいや。これは黙っておこう…

 初夏の陽射しがいっぱい芝生のうえで輝いていた。

 健太郎の耳に「私は遠慮するわ。気にしないであなた付き合ったら?」と芹に言った蘭の声が蘇る。

「どうしたんだよ」

 しばらくして仁村が黙っている健太郎を覗き込んだ。

蘭はあれからどうしているんだろう。

むしょうに蘭に会いたいと思った。


 寮に戻ると角原さんが「あとで俺の部屋に来い」と言って忙しそうに出かけていった。あのデモの日、角原さんはぱくられたと聞いた。もう出てこれたのかと健太郎は不思議に思いながら玄関でしばらく呆然と突っ立ったままでいた。

 公務執行妨害で留置場で三日間か、とぼんやりしているといつの間にか木本が目の前に現れた。

「先輩、蘭さんから電話がありましたよ」

 木本は目を輝かせて言った。


 蘭に急に会いたくなって近くの電話BOXから電話した。蘭のお母さんが出てきて「蘭は出かけています」と言い、「どなた?」と問われたので 健太郎は自分の名前を言うのに少しうわずってしまった。

 蘭のお母さんは謡曲の先生をやっていて、一度蘭の家へ行ったときチラッと見たことがあるが上品でいてどことなく厳しい眼光のあるお方である。我々を制圧した機動隊員の殺気立った獣のそれではなく何というか「あなたが考えていらっしゃることは視えますのよ」といったような優雅な透視力を秘めておられる方なのだ。

 まさか「あなた、うちの娘と芹ちゃんとどちらと付き合うつもりなの?」とは聞かれなかったが正直、健太郎としてはどぎまぎした。

 ホイホイの態で電話を切ったあと、やっぱり決別宣言はまだ完全に履行されていないのだ、なんちゅうかこの喉にさんまの小骨が引っかかってしまっているようなすっきりしない心地が付きまとっている。仁村の話が気になったり、そいでもって今日、蘭のお母さんと電話で話したり…


 その日の夜、果たして蘭から電話がかかってきた。ちょうど角原さんの部屋へ行って「ベーテェー」の講義を受けているときだった。

「二〇五号室の大門さん、二〇五号室の大門さんお電話です」

 と館内放送が流れた。健太郎はその時、熱心に角原さんのトロッキズムが云々の説明を聞いている最中で、マグロのトロと…トロッキー…の関係を分析しようとしていたわけで頭のなかが混乱していた。

「おえ、お前や。呼んでるぜょ」

なぜかこのとき角原さんは高知弁で健太郎の肩をつついた。

「電話?」

 我に返った健太郎は急いで四階の角原さんの部屋を飛び出し「はあーい!」と叫びながら階段を三段跳びで駆け下りていった。

「わたし、蘭。今日、うちに電話くれたんだって?」

「ああ」

「なあーに」

「うん。いや別に。どうしているかな…って思って」

「えっ、なに…わたしたちに決別したんじゃなかったの」

「うん」

「で、なんでかけてくるわけ?」

きっつー、と思いながらも健太郎はしぶとく食い下がった。

「ちょっと話をしてみたい…と思って」

沈黙。

が、流れる。

「あのさあ、ヨット部、どうしたの?」

「ああ」

「入ったの?」

「ああ」

「まだなの?」

「ああ」

 沈黙。

が、また続く。

「どっちなの?」

「入ったさ」

「気のない返事ね。で活動してるの?」

「来月初め、合宿だよ」

「どこで?」

「森戸だよ」

「森戸ってどこ?」

「葉山の近くだよ」

「あっそう。まあ、頑張ってね」

「…うむ。まあ」

 沈黙。

 が、三秒間あって、

「じゃあね」

 と蘭は電話を切った。


ヨット部。

…だ。

そう、ヨット部。

こうしちゃあ居られない。自分はヨット部の入部手続きをやってしまっていたのだ。 

にもかかわらず、黄金町の喫茶店・「ルーチェ」で蘭と芹に対して決別宣言をし、尚且つ角原さんの「ベーテェー」の講義を無理やり聞かされて臨海公園へデモに駆り出され、このところ本命の課題に取り組んでいない。

 で、こころを統一しぼちぼち来月の森戸海岸での合宿に備えその準備に勤しむことにした。

「先輩、どこかに行かはるんでっか?」

五月も終わりに近づいたある昼下がり、部屋に入ってきた木本は荷物を整理していた健太郎に向かって怪訝な顔をした。

「そうとも合宿だよ、合宿」

健太郎の声は弾んでいた。

「へえー。何の合宿ですか?」

「知らんのかえ。俺はヨット部に入ったんや」

関西弁になっている…やんけ。

そう言えば木本も出身は関西だった。

「なんや、蘭さんと旅行とかではおまへんのでっかいな」

「あほぬかせ」

頑張らねば!わが校は今年は一部校昇格の絶好のチャンス、次のインカレ戦で上位に食い込めば当確可能の位置にある…と、先輩たちはしきりに言っていたことがよみがえる…

頑張らねば!

新入部員とし、これほど誇りに思える部はない…

「そりゃそうとして…先輩はフェリスの学園祭へは行かはりませんの?」

突然、木本が気の抜けたような声で恐ろしいことを言った。

「なにい?」

それは健太郎にとって忘れていたことをいきなり穿り出すような衝撃なり。さんまの小骨が突き刺さったのとは少しく趣きを異とするちと気になる情報だったのである。

フェリスと言えば芹の学校。フェリス女学院。

で、その学園祭ってか…

あじゃーっ。

して、いつかいな、その学園祭って。

と、聞くのも憚れて「うむ…」と一瞬漏らすと、

「ずっと前、先輩言ってはりましたやんか、フェリスにいい子がおるって…学園祭が三十日から六月三日までやって」

そやった。芹と三渓園へ行ったとき確かそんなことを聞いた覚えがあった。

こりゃいかん!健太郎は慌てた。

しかし、冷静に呼吸を整えた。

待て!待て!

落ち着くのだ…落ち着くのだ…

「行かはらへんのですか?」

木本がしばらくたってからもう一度尋ねた。

「合宿や。行けるかえ」

健太郎はさらっと答えた。

その通りだ。芹とは決別したんだ…

そのためにも頭を刈った。

しかし、喉にさんまの小骨ではないがなんとのう鰯の今度は鱗のような気色いものがこびり付いたような…

いや、いかん!

迷いを振り切るように、

「それでお前は行くの?」

と、木本に聞くと、

「ダンパの券、買わされましてん」

と、あっさりぬかしやがったので、

「あっそう。ま、楽しんで行ってきたらええやん。ほら、そこどけや、こっちは忙しいんや」

健太郎は木本を荒々しく追い出した。

そして、今度は自分が慌ただしく部屋を出て一気に風呂場へと直行した。

思いっ切り、シャワーを浴びた。


逗子海岸を通り過ぎ、静かな山間を一つ越えると今度はヨットマンのメッカ・葉山ヨットハーバーが姿を現わし、その南西に位置する素朴な練習場、森戸海岸が雄大に広がりを見せた。入部早々、横浜港の合宿のときとは全然ちがうものが燦々と降り注いでいた。

朝五時起床。

我々新入生はまず食事当番に当たる者は釜で飯炊き。沢庵と味噌汁の準備に取り掛かる。当番でない者は先輩たちの艇を岸から浪間まで運び出す作業だ。七艇ほどあって、新入り四名がひと組になって次々と手っ取り早くやらなければならない。

 部員は全部で二十七名。そのうち新入りの一年生は十名だった。横浜では飯炊きも練習船の整備、運搬、保管等の一通りをやった。

森戸海岸の初日。

 早朝、健太郎は練習船の運搬に従事した。艇出しである。次から次へと肩に担いで波打ち際まで運び、それを更に波に乗せながら胸の深さぐらいまで前進していくのだ。四人での作業だがもたもたしておれない。

練習艇が程よく波に浮かんだら肩から放し、回れ右してまた次の艇を運ぶため岸へ戻っていく。約一時間ほどはこの作業の繰り返しが続く。

ところがこの日、夕方になってからとんでもない惨事が発生したのである。

 確認点呼をやってみて初めてみんなはそのことに気づいたのだった。新入りの同僚が一名いない。

「朝は見かけたよ」

「確かに運んでたよなあ」

「途中で抜けたってことは考えられないよなあ」

合宿に参加した全員の顔色が次第に青くなり始めた。

 翌朝。

 彼の溺死体が練習場所の海底から発見され、当部始まって以来の痛ましい事故が起きたのである。   

 死因、心臓麻痺。

健太郎は一気に気力をなくしてしまった。

市の文化会館で全校を上げての葬儀が行なわれ、北海道から駆けつけた彼の両親の姿は哀れだった。

森戸海岸での合宿は途中で中止になり、インカレ戦への闘志は次第に窄んでいくかに見えた。

夢がまた一つ消えていくのか。


寮に戻ってきても、精悍さ、求心力、飛躍、躍動、超越感を抜き取られた魂のようになって転がり、漫画を読んで過ごす日がしばらくつづいた。

 そんなある日の午後。

木本が現れて、

「先輩、何してんすか、大騒ぎでっせ」

「なんや?」

「火事でんがな。かんらん寮が燃えてまっせ」

かんらん寮といえばもうひとつの学生寮。我々が入っているのがいわばスマートなエリート寮であるならばかんらん寮は百姓の入るバンカラ寮と一般的な評がなされ貴族対野武士のイメージが流布していた。わが寮から北東約一キロの場所にそれは位置しキャンパスに向かうときなど互いにメンチを切りあう場面もあった。

「なんじゃえ、ボロ屋敷の住人が」

「なにい!ぼんぼん育ちのなよなよが」

 とかなんとか、言っているような感じで…

「火事?」

 すわっと起き上った健太郎は屋上へすっ飛んで行った。

「よお燃えとるなあ」

 北東の位置にあるかんらん寮を眺め、その屋敷から上る黒煙とちらちらと閃光する赤い炎が目に映った。

「えらいこっちゃなあ」

 傍らの木本が悲嘆にくれ同情している。屋上に集まったその他の寮生も口々に「こりゃあ全焼だな」「見ている場合とちゃうなあ、何か手伝いに行こうよ」「無理だよ」…

 健太郎は風に吹かれながら、漫画の続きも、ヨット事件も、芹のことも、蘭のことも、蘭のお母さんのことも、そしてマグロのトロ?ロッキズムも、ベーテエーのこともみんな忘れて、ただ風に吹かれて空を見上げていた。

「しかし、よお燃えとるなあ」

 と、つぶやきながら。…

 かんらん寮は半分が焼けた。火災の原因は寮生のタバコの火の不始末と判明。この火災を契機に当寮自治会は学校当局へ設備改善等の要求を提出、その後当局のぬらりくらりの不誠実対応に業を煮やした寮自治会は本格的な「要求貫徹闘争委員会」を設立、ときにはヘルメットに角材を手にし、武装した「革命戦士」に変貌していくことになった。


健太郎はその日も漫画を読んでいた。なかなか面白い。と、コツコツと二〇五室のドアをノックする音がする。誰やねん、うるさいガキやなとぶつぶつ言いながらドアを開けた。

ハッ!

立っていたのは寮の役員が三名。いかにも規律正しいお役人風情で眼を部屋のなかに投じると健太郎をじろりと見た。

「抜き打ち検査をやる。部屋でタバコは吸っていないだろうな」

真ん中に立った一人が聞いた。一人が回覧板のような下敷きにクリップで留めた一覧表を眺めている。さらに一人がもう一度部屋のなかを舐めるような仕草できつい眼光を走らせた。

「あ、はい」

健太郎は喉から絞り出すような返事をした。自分ながら、やばいなあと思った。灰皿を見つけられたらお終いや…どこに置いたかなあ…机の上やったかいなあ…ベッドの枕元やったかいなあ…漫画の横に置いてたんと違うかなあ…あー、やばいなあ…

「よし」

真ん中の一人が納得したように回覧板を下敷きにしている一人に合図した。部屋のなかを見渡していた一人も獲物が無かったかのような表情をし、真ん中に合図した。

「部屋での喫煙は禁止しています。寮生活を規律あるものにするため今後も守ってください」

真ん中の人はそう締めくって軽く会釈したあと、あとの二人を促して部屋を立ち去った。

冷汗がどっと出た。

なんやねん、いきなり。安堵の気持ちと、やっぱ厳しいなあという気持ちが入り乱れていた。このときばかりは寮の役員たちが融通の利かないコチコチの人間のように思えたが、普段はいつも気軽に会話する先輩たちばかりなのだ。

 不思議やなあ…

 真ん中の一人は寮長の経済・四年の倉石さん。回覧板の下敷きは風紀委員の建築・三年の大竹さん。獲物探しは防災委員の電気・三年の青柳さん。と、彼らが去ってから判明した。

それにしても。なんで、そんな調査すんのやろ?再び、ベッドに寝転んで健太郎は漫画を手にした。そして、灰皿はいったいどこに置いていたのだろうと、ふと思った。灰皿は机の引き出しのなかに仕舞ってあったのだ。

虫の知らせか…健太郎はニヤリと微笑んだ。何となく自分の直観力が愛おしく思えた。一緒に置かれていたハイライトを手元に寄せるとそれをおもむろに口にくわえた。

 かんらん寮の「闘争委員会」はますます気勢をあげ、やがてキャンパス内の平穏な学舎をもそれは少しずつ揺るがし始めようとしていた。


今日もまた蒸し暑い。いつものように七号館前の芝生に寝転んで仁村と雑談だ。

「佳世子が言ってたけど、なんかお前、蘭さんをふったんだって?」

「何の話だ」

「だから、蘭さんとは別れて芹さんと付き合っているっていう話だよ」

な、あほな。よくよく聞いてみると、蘭と同じクラスの佳世子に蘭が話したということらしい。

「芹に健太郎を取られた」といって泣いたらしいのだ。このはなし、授業中のことでほかのものもみんな知っているとのこと。

なんやて!

健太郎は眩暈がしてきた。


そもそも蘭と芹は中学校時代からの仲良し。高校も同じ。そして卒業すると蘭は健太郎と同じキャンパス内にある短大へ、芹はフェリス女学院大へと進学したのだ。健太郎が蘭と知り合ったのは、たまたま入学後のオリエンテーリングのとき、横にいた仁村が「一度彼女を紹介するから」といって彼女である佳世子さんの家へ遊びに行ったのがきっかけになり、「大門さん、彼女がいないのなら紹介しましょうか?」ということになり、佳世子さんの紹介で会ったのが、蘭との出会いの始まりだったのだ。

佳世子さんと蘭とは同じ英文科でクラスも一緒とあらば、蘭の近況は仁村の耳にも入る。

 しても、授業中に泣くかあ?彼氏を取りよったあ…って?     

 それにしても。ややこしいなあ…

「どうなんだい?」

「どうや言われても…」

「付き合っているのか?芹さんと」

「付き合ってないよ」

 七号館前にいつの間にか例のかんらん寮の「闘争委員会」と称する輩が集結し始めた。なぜかヘルメットをかぶり武装している。行き交う学生たちが怪訝そうに見守るなか、ハンドマイクを持った野武士が演説を開始した。

「我々は当局の欺瞞的な六・一一の回答を断固拒否し、最後の最後まで要求貫徹を目指して闘うことを宣言するぞお!」

一団は角材こそ持参していなかったが、もしこれにタオルで口を隠し石やゲバ棒を手にしてジグザグ行進を開始していたら、まるで臨海公園のときのような政治闘争とちっとも変りなく、なぜこんな行動がのどかなキャンパス内に横行しだしたのか…

「蘭さんは取られたと言っていたらしいよ」

「付き合ってないよ」

 …

我々は、

我々は、

健太郎の耳にうるさく交錯する「闘争委員会」のアジテーションが、蘭と芹が叫んで要求している声に聞こえた。

「いったいどっちと付き合うのよ!」 

ややこしいなあ。

まだ、決別宣言は終わってへんのかいな。

と、思った。


それで、決別宣言に決着をつけるため二人に電話をしようという結論にたどり着いた。まず、芹からかけることにするか。と、思いつつ「嘆願書」?の文案を頭のなかで整理した。

…あのう、蘭から聞いたのだけど、なんかぼくがあなたと付き合っているって…私の彼氏を取られたって…ひどい!って…クラスメイトに話し、泣いたって言っているのだけど…あのう、…ぼくとしては確か、君らとは決別宣言をしたはずで…

 あほか。まとめているうちに自分で自分を叱咤した。幼児か。

で、もう一度文案を推敲した。今度は「嘆願書」ではなく「決議文」でいこう。

 …あのさ、もう一度確認しておきたいのだけど、我々って一切付き合ってないよね、断固付き合うことを拒否しているよな!今後も一切付き合わないよな!

いかん。「闘争委員会」の口調になっている。

と、また推敲し直した。

 …あのう、三渓園へは一度だけ一緒に行ったけどそのあと「ルーチェ」できっぱり言ったよね、もう付き合わないって…おふたかたに申し上げましたよね…で、…あるから、…よってですねえ…

ますます何を言っているのかわからなくなった。そして、何回も繰り返していると、馬鹿に見えてきたので芹に電話をするのはやめようと思った。それよりも仁村の手前、佳世子さんのほうへかけたほうがいいのではないかと思いついた。蘭との始まりは元をただせば佳世子さんが取り持ってくれた縁なのだ。

よし、誤解を解かなければ、と健太郎は起き上がり、急いで部屋を出た。

 寮の電話を使用するのは何かと煩わしい。いつもの近くの公衆電話のほうが気楽に話せる。電話BOXに着くまで今度は何ら文案を用意することなくテラテラと鼻歌を歌うような気分だった。

 

佳世子さんがでた。

「まあ、どうしたの。しばらくねえ」

「はあ。実は仁村から聞いたんだけど、蘭のことだけど」

「あなたひどいわねぇー。蘭ちゃん泣いてたわよ」

「そのことなんですが…ぼくは芹とは付き合っていませんよ…っていうか二人に対して決別宣言をしたはずでして…」

「なあに?けつべつって?」

「つまり、付き合いをやめるっていうか…」

「はあ?」

佳世子さんは素っ頓狂な声をあげた。

「待ちなさいよ、大門君。蘭はあなたを芹に取られたって泣いてるのよ。びっくりしたわよ、それも授業中によ」

「ええ、仁村から聞きました」

「みんな何事かと笑ってたわ。いったい何があったのか、聞いても蘭は何も言わないのよ」

「だからぼくもそのへんのことが…」

「嫌いなの蘭のこと?」

「えっ」

「だから、あなたたち少なくとも付き合っていたんでしょう?」

「ええ、まあ」

「なら、どうして蘭を泣かせるようなことをするの?」

なんだか蟻地獄に引き込まれていくかのような展開になってきた。あかんがな…あかんがな…健太郎の決別宣言が何の意味もなさないではないか。

「いいわ。芹とは付き合ってないのね」

佳世子さんは納得したように言って、

「蘭に言っておくわ。それでいいでしょ?」

と勝手に結論を出し、「じゃあ」と電話を切った。何か一方的に押し切られたようで、何を押し切られたのか実は分からないような、それでいてそれでよかったような、空中分解したものが残っているような、そんな気持ちを引っ提げて健太郎は電話BOXから出ると今度はデロデロと道端の石ころを眺めながらうつむき加減で寮まで戻ってきた。


「おい、集会があるのにどこへ行っているんだ?」

戻ってみると寮生全員が食堂に集まっている。風紀委員の大竹さんが玄関で待ち受けていた。今夜は臨時寮生集会であることをすっかり忘れていた。急いで食堂に入り、隅のパイプ椅子に腰を掛けた。

「で、あるからして我々としてもこのベトナム戦争の反対を表明し、少しでもベトナム難民を救うべき…」

正面で演説しているのは角原さんだった。いつもの目つきで口から唾を飛ばしながらお決まりの檄を奮っている。健太郎と同じく角原さんの生徒として養成されつつある新入生も時折、彼の文言に賛同し、「その通り!」と掛け声をかけている。同じ正面に座っている寮長の倉石さんの表情が意に反してか、若干暗い。当惑しきっている感じだ。

やがて万雷の拍手が起こり、角原さんの演説は終わった。つづいて倉石さんが立ち上がった。

「ベトナムでは多くの人が戦争の犠牲となり、今や世界的に注目されているのは承知の事実ですが、米国のこうした帝国主義的な侵略に対して我々学生がどのように対処するかという問題は次元が少し違うのではないかと思われます。今、急にベトナム難民に対して救いの手を差し伸べよといっても具体的に何をどのように支援できるのか、もう少し身近にできることはないのかを探すことから始めるべきで…」

「そうだ」

「そんなきれいごとを言っている間にもベトナム難民は次から次と焼け出されたり死んだりしているんだよ」

「行動だよ、行動」

「ベトナム戦争反対!」

 寮生三十八名の熱気がむんむんと食堂内に立ち込めていた。倉石寮長の声がかき消され、全体に異様な空気が流れ始めたので、

「静かに、静かにしてください」

 と、書記である土木三年の桐越さんが大声を張り上げ、これを制圧した。

「今回はこれにて閉会っ!」

 と叫び、さっさと食堂をあとにした。

 健太郎は角原さんを見た。仁王立ちの鬼のような顔をして腕を組んだままだった。

 部屋に戻って健太郎は混乱した脳を少し冷やすため、まずポットでお湯を沸かしインスタントコーヒーでも飲もうとポットをもって廊下に出た。ちょうどそのとき、木本と出会った。

「なんや」

「いや、先輩何しとるかなと思て」

「お茶でも飲むか?」

「よばれまっさ」

 それから木本と一緒にインスタントコーヒーを飲みながら今夜の集会について話した。木本は神学部の学生であることから世界の平和について得々と語り、よって、革命戦士ごとき闘争はやるべきでなく、あくまでも人類愛をいかに述べ伝えるかという問題を考えるべきだと説いた。

「なるほどな。そういうもんかなあ」

 と、健太郎は感心した。

「ところでお前、フェリスの学園祭どやった?」

 ちょっと気を抜いたせいで健太郎は聞かなくてもいいことを聞いてしまった。

 芹とはもう関係ないのとちやうのかえ。

 と、思ったが遅かった。

「ああ、よかったですよ」

「なにがどのようによかったんや」

「ええ、みんなきれいなこぉばっかりやし、上品で、賢そうなこぉばっかりやし」

「ほんまかえ」

「先輩が言っていたこはどのひとやろかと探しましてんけど」

「見つかったか?」

「見つかるわけありませんやん。聞いてないもん」

「そりゃそうやな」

「今度教えてくださいよ」

「うむ。まあな」

 と言いかけて健太郎はしまったと思った。なんや、なんや。芹とはもう関係ないのとちやうのかえ。と、また慌てふためいたのだった。


ベトナム戦争のことも考えなければならないし、佳世子さんのこのあいだの電話の件も熟考しなければならないし、ヨット事件のことも再考というか何か夢が破れたというか、健太郎にとって今の時期は憂鬱に思える。

金もそろそろなくなってきたことだし、バイトでもしようかなあと思いあぐねながら午後の授業に出た。

第一外国語・英語の授業だ。講師は柳田光太郎文学部教授。シェークスピア研究では第一人者でもある。

講義にはびっしり受講生が詰めかけ講義中は水を打ったように静かである。もっともこの科目は一般教養科目の必須科目だから単位は落とせないのでみんな受講は欠かさない。

スマートな老紳士だがクセのある教授で、まず口が悪い。「…じゃねえか」とか「…なこたあしらねえよ」とぶっきらぼうな言葉がポンポンと出る。蘭も短大のほうでこの教授の講義を受けているらしく、「あの先生ね、とても変わってるの、出席を取るとき全部下の名を呼び捨てにしてとるのよ。あけみ、れな、けいこ、さよえ、…っていうふうにね」と言っていた。

しばし、回想に浸る。ひと月ほど前は蘭と黄金町で待ち合わせ、伊勢佐木町から山下公園までのコースをよく散策したものだった。そのとき二人とも新入生で、春うらら、佳世子さんの紹介で知り合ってまもなく、気分も上々、未来もバラ色って感じで付き合っていた。

それが…

何かのきっかけで蘭の家に集まることになり、そのときお互いに連れのない独身ものを二、三繕ってくるという約束でこのややこしい事態は始まったのである。

つまりそのとき来たのが芹であった。

芹とは確かに一回だけデートをした。蘭に内緒で二人で三渓園へ行ったのは事実である。

まだこんなことで燻っているのか。っていうか柳田教授の講義のたびに蘭が言っていたことを思い出し、その出席の取り方の奇抜、非常識、無礼、ユーモア、破格…をそこに描き、関連して蘭とのこれまでのことを思い出すのである。

 講義は続いていた。流暢な彼のイングリッシュが響き、そしてこだまし、教室全体を威圧していた。一冊の教材を片手に持ち、口元に「てめえらにはこのニュアンスのさびってものが分からねえだろう」とでも言うような嘲笑を浮かべながら、コツコツと足音を響かせながら受講生の席のあいだを何回も往復しつづけた。

と、三十分も読み続けたため疲れが出たのか、気分を一新したいのか、彼は急に読むのをパタッと止め、「タバコを吸いたくなった」とポロリとのたまった。

「おい、誰かタバコ、持ってねえか?」

静まり返った教室に奇抜、非常識、無礼、ユーモア、破格…の溜息が音も立てずに立ち込めていた。

コツコツコツ。その足音は健太郎の席の前で止まる。気づくと健太郎はポケットからおもむろにハイライトを取り出し、彼に差し出していた。

ボッ!

つづいて、ジッポーのオイルライターを点火し彼に近づけた。

「うむ」

柳田教授は無表情でこれに応じると、やがてタバコをふかしながら再びコツコツコツと歩き始めた。

みんなはこの瞬時のやり取りをあっけにとられるように見送った。

 

仁村がよく行くという本牧の「赤い靴」というジャズ喫茶を一度見てみたかった。

とても例の決着は着けそうもなく、ヨット事件もベトナム支援もベーテェー問題も解決が見つからない状態がつづいたので、アルバイトもしなければならなかったのだがとにかく健太郎にとっては一時的な逃避がこの際必要ではないのかと勝手に決め込んだ。で、「赤い靴」というところへ行けばきっと何かがあるだろうと思ったのだ。

 そこは暗闇のなかで爆発音の鳴り響く知的のかけらもない空間であった。真ん中にあるミラーボールが妖しく廻り…サーチライトか線香花火か…足踏み体操をしているのか、サル踊りか、阿波踊りか…大音響のなかで外国人がたくさん身体をクニャクニャさせて賑わっていた…

「R&B」っていうんだよ。

ふと気づくと、チューインガムを噛みつつ健太郎の傍を離れず、しきりに腰をふっているあんちゃんが居た。

「へえーなるほどね」

健太郎は感心した。そして仁村がこのなかにいるのかなと思いつつ、そして佳世子さんも一緒かなと目を凝らしてみた。

しかし、わいわい騒ぐオカルト集団のような踊りの輪のなかに彼らの姿は見つけるとができなかった。あまりにも暗過ぎたし、点滅するサーチライトのおかげで焦点が合わない。

「兄さん、どこのひと?」

「だれ探してんの?」

まとわりつくあんちゃんがしつこく尋ねる。

なにさらしてんねん!このぼけが。

「ひとり?」

あげくには「ふられたの?」ってぬかしやがったんで、そのあんちゃんを睨みつけ、「じやかあしいんじゃ!」と一喝して(っていうか心で叫んで)店を出た。

 夜の港町に深い霧がかかり、健太郎の目に異様に映った。やっぱり…雨か。梅雨に入ったな…孤独だった。やっぱり孤独はいかん。決着はいかん。蘭を泣かせてはいかん…となぜか思った。

 巷に雨が降るごとく…

わが心にも涙雨降る…

酔ったせいか、生意気にも寂しくなってヴェルレーヌの詩が口を衝いて出た。

彼女を泣かせてはいけない…

これを仏訳して蘭に手紙を書こうと思った。

それにしても仁村も佳世子さんも果たしてあんな場所でいつも遊んでいるのであろうかとふと思いつつ帰った。


寮に帰ってから便箋を取り出し、和仏辞典を手元に置いて早速、ヴェルレーヌ の詩を少しくもじりつつ仏語の作文に取り掛かった。

巷に雨が降るごとく…ってどう表現をすればいいか、いきなりつまずいた。

雨が降る。巷に。

Il pleut en public。

いい感じ。

はて、雨が降るごとく私の心のなかにも…とはどんなニュアンスかなあ。

 悪戦苦闘したが日本語のニュアンスがもうひとつ伝わらない感じがした。何が足らないのだろうか。言いたいことはなんやねん。

 疲れ果ててくじけそうになるも、とりあえず仏語で書きたいため最後まで書きとおした。直訳すると、街には雨が降るようにわたしのこころのなかに雨が降る…

 なんのこっちゃ。

 これでは泣いてしまった蘭に対しての正直な反省にはならないのではないか「闘争委員会」の言うところの当局の欺瞞的態度そのものではないか。もっと誠意をみせなければならない。わたしはいま、とても寂しいのです。非常に孤独なのです。やはり、わたしはあなたを愛しています。って、直接言わんかえ!どあほ。

 ずぶ濡れになって帰ってきた自分の今の正直な感想はたったひとこと。仏語でいうと。

 Je.Taime。

「愛してるよ」

 …やんけ。

 さあ、たった一言書いてこましたろ。

 そう、ハイライトをさりげなく取り出し、Zippoのライターで火を点けてやったようにさらりと、キザに、「おっ、やるじゃねえか」とあの柳田教授もほくそ笑むように。

 酔った。とにかく書き終えると封筒に入れ、作業は完了した。孤独から解放され一気に眠くなってきた。そして頭のなかであのリズムがやがてよみがえってくるのだった。

「R&Bっていうのさ」

 腰をクニャクニャさせたあんちゃんがいた。ふうーっと深呼吸をしてから、それにしても、仁村と佳世子さんはあんなところで遊んでいるのだと思いつつ、やがて眠りについた。


 本格的に梅雨に入った。健太郎は梅雨が嫌いだ。陰気な雨だからだ。巷に降る雨とは断然違う。雨の質が違う。…哀愁と陰湿は絶対違うと思っている。

 相変わらず金がない。ヨット部はインカレ戦で惜敗。森戸海岸の事故が尾を引いた。陰鬱さが倍増しそうだ。夏は東京湾横断合宿が控えているがあまり乗り気がしない。

「佳世子が夏休み佐世保にきて、ひと月ほど俺んちに泊まるばい」

 仁村は「経済原論」の授業のとき健太郎に言った。健太郎は「赤い靴」の破廉恥加減を思わずにはいられなかった。

「泊まるって?」

「佐世保を起点に九州をツーリングするっていう話ばい」

「へえー。大丈夫か。佳世子さんの親は承諾しているのか?」

「平気、平気」

 佐世保出身の仁村は真っ白な歯をむき出してウインクした。彼は佳世子さんの家へはすっかり顔馴染みで彼女のお母さんの信頼もがっちり勝ち取っている。             

 「赤い靴」のあのクニャクニャしたあんちゃんとは質的に格段の違いがあるのだ。しかし、健太郎には納得がいかなかった。それにしても、佳世子さんって実に根性たくましいなあ。頭のなかで「赤い靴」で踊りまくる佳世子さんがいた。考えられへんわ。ふつう、いきなりひと月も異性の実家へ行って泊まる?

 ところで、佳世子さんはこのあいだの電話の件、蘭にちゃんと話してくれたのだろうか。仁村が何も言わないところを見ると、そんな話は出なかったのかもしれない。あえて聞く必要はないか。どうせ手紙も書いたことだし…健太郎は自分の夏休みはどうなるのだろうと比較検討しながら仁村のこの話を聞いていたのだった。

 燦々と降り注ぐ太陽がみたかった。

「太陽がいっぱい」のアランドロンは格好よかった。

「わたしは、太陽がいっぱいを観てヨット部に入ろうと決意しました」

 横浜港での合宿のとき、自己紹介で健太郎は大勢の海の男たちの前で動機を語った。それが今は暗い気持ちに覆われて連日憂鬱になりつつある。夏の合宿費の調達も憂鬱だし、決別宣言の決着もややこしいことになっているし、「赤い靴」という店は純粋にモダンジャズの店ではなかったし、仁村と佳世子さんが大人の恋愛をしているし、…まだある。かんらん寮の「闘争委員会」に対抗してわが寮では「ベトナム支援闘争」を展開しようとしているし、…いったいこの暗雲はいつ晴れのるか。

 外は雨。

 まさしく健太郎にとっては陰湿な時期が訪れているのだ。


 数日後。

蘭から手紙が届いた。倶楽部の合宿で裏磐梯へ行くという。…健太郎が孤独に襲われ、涙雨が降っている…という点については何も触れていなかった。

おかしいなあ、情緒のない女やなあ…と思いつつ当日のことをたどって考察するにそや、「LE Flancais」や、酔っていたあの夜は仏語でたった一言「Je Taime」とだけ書いたことを思い出した。

ふざけているのかしらと蘭は嘲笑したかもしれない。にしても蘭の機嫌は直っている。それが証拠に書かれている文面を疑似法的に表現すると、紙面全般にニコニコマークのペタがべたべた貼ってあり、また封書の裏面にはランラン気分の満ち溢れるような♡で封印がしてある…ように思え、たちまち健太郎の涙雨は引いていくようかのような気がした。

今月末から裏磐梯で合宿です。インカレ戦は残念でしたね。夏休みはいつ帰られるのですか?etc …か。

 さあ、やるぞっ!

健太郎は両手を上げ気合を入れると、まず風呂場でシャワーを浴びたいと思った。夏の合宿に向けとりあえずは資金稼ぎをしなければならない。なんぞ、いいバイトはないものだろうか。テラテラ気分で部屋を出て階下へと降りて行った。

解決したぞという晴れ間が一つ覗いた。芹との疑いが解消して、というより蘭の機嫌が戻ったことに安心した。シャワーを浴びながら健太郎はこの頭の毛が元通りビートルズのように伸びるまでにあと何日かかるのだろうかとふと思った。あれからちょうど二月近くになろうとしている。

「先輩~」「先輩~」

 木本の声がどこからか聞こえている。

「どこですかー?」

 うるさいやっちゃのう…

 わいは今、すべてを洗い直してんのや、残った首を始めから新たに出直そうとしてきれいに洗ってんのじゃ…ぼけ。

 シャアー、シャアー、シャアー。

 心地よい水の音が頭に跳ねる…

 して、蘭が入っている倶楽部って何の倶楽部やったかいなあ?

 健太郎はふと度忘れした自分に気づき思わず苦笑した。

 シャアー、シャアー、シャアー。

 勢いよく水の音が頭に跳ねる。

「なんじゃ?」

 健太郎はシャワーを浴びたあと、戸を開けて答えた。

「バイトがありましてん」

「何のバイトや」

「エキストラでんねん」

「なんやエキストラって」

「映画でんがな」

「映画?」

 着替えてから詳しい話を部屋へ戻って聞いてみると、何やら一晩で二千円は呉れるということらしい。近くに住んでいるおっさんがこのあいだ寮にやってきて、行く人がいないかと話していたらしい。大船にある撮影所へ連れて行ってくれるらしいというので木本のほか寮生の四、五名がその準備をしているとのことだった。なるべく多いほどいい。せめて十名ほど要る、とおっさんは言ったらしい。で、今夕おっさんがみんなを連れて行くとのこと。

「一晩でとはどういう意味や?」

「撮影がもしかすると徹夜になるかもしれないのでとか何とか言ってたけど」

「二千円とはええ仕事やなあ」

「そやろ。行きませんか?」

 健太郎は唸った。今、金がない。一日土方しても二千五百円であることを思うと、これはぼろい話だ。

「よし、行こか」

 健太郎は木本の話に乗ることにした。

 かくして、寮生六名は夕方迎えに来た、サングラスをかけ、粋な絹100%の白いジャケットを羽織った正体不明なおっさんに連れられ、マイクロバスに乗って大船にある松竹撮影所へと向かったのである。

 撮影所に着くと早速、衣裳部屋へと向かわされ、それぞれは着てきたものを吟味、観察、審査され、結果適切と下された衣裳を受け取りこれを羽織ることになった。

 なぜか健太郎は何も講評なしの、「きみはそのまんままでよろしい」の一言だけで衣裳はもらえなかった。木本はこのくそ暑いのに学ランを着ていたし、窪川などはネクタイなど締めて気取っていた…ので即、撮影所側で用意された衣裳に着替えされていた。健太郎はヨットパーカーにジーパンという普段の格好だった。

 作品は山田洋次監督の正月映画「九ちゃんのでっかい夢」というコメディ。坂本九は今、人気絶頂の男性歌手であった。舞台は九ちゃんがふと訪れる田舎の小劇場。そこで突然起こった奇妙な出来事。そのワンシーンを撮るというのが本日の仕事であるらしかった。したがってその田舎の小劇場の観客としてエキストラが集められたのである。

 健太郎らのほか、そこには様々な人がかき集められていた。  

 

 撮影はなかなか始まらなかった。

「腹減ったなあ」

「この分だとやっぱり夜中になりそうやな」

 木本と大部屋の控室みたいな片隅でヒソヒソと雑談して待ちつづけた。一緒に来たほかの連中はどこへ行ってしまったのか姿が見えない。

「いろんな人が来とるなあ」

 労務者、主婦、女子大生、サラリーマン、退職者…などやはり退屈そうに出番を待っていた。最初はガヤガヤとした雰囲気だったが、夜も零時近くになるとさすがにくたびれたのか口数が少なくなった。

「おい。倍賞千恵子が出ているぞ。竹脇無我もいるし、EHエリックも来ている」

 撮影所内を散策して来たらしい窪川らが戻ってきて興奮気味に言った。

 倍賞千恵子は清純派女優。竹脇無我やEHエリックも有名な男優で、いずれにしてもこの「九ちゃんのでっかい夢」は正月映画にふさわしい豪華キャストなのだった。

「で、何時からやるのだろう」

「へたすると夜中だぜ」

「徹夜って言ってのはこのことか…」

 でもみんなはこんな楽なバイトでそんな高収入が得られるとあらば少しも苦にならない様子をして待っていた。

 蘭はもうすぐ裏磐梯へ合宿に出発する。自分も来月は東京湾を横断して千葉の館山までのセーリング合宿だ。夢は果てしなくバラ色に見えた。もう微塵にも巷に雨が降るごとくの感傷はない。ひとりでに口元が緩んでくる。

「先輩、なに笑ってるんですか?」

「何でもないよ」

 木本は怪訝な目つきで健太郎に問う。自分の衣装が滑稽に見えたに違いないと思ったからだ。他のみんなからも最初、爆笑を浴びたことの余韻がまだ残っている。

「そんなにおかしいですか?」

 野良仕事の帰りみたいな田舎のおっさんの衣装を眺めつつ、木本はまたぼやいた。

 撮影が開始されたのは午前一時だった。最初説明のあった芝居小屋のセットにエキストラは集められた。エキストラは全部で六十名ほど居た。

「よろしいですか?先ほど説明したように皆さんはこの劇場の観客になってもらいます。どこでもいいですので席に腰を掛けてください。この劇場の出し物を観て大いに笑ってください。いいですか?こちらでこのように合図をしたら皆さん声をあげて笑ってください」

 撮影の進行を担当する若い男が大声で説明をし始める。エキストラの面々はガヤガヤとざわめきながらそれぞれ好きな席を目がけて移動を開始した。

 と、そこにはすでに出演者が入場して座っており、その席の辺りには二、三人のスタッフが立っていて容易に近づけない状態になっていた。

「ここにお座りになる方は明日も撮影がありますので、明日もお願いのできる方でお願いします」

 スタッフの一人がその席に座ることのできる条件を念入りに説明している。その席とはなんと女優倍賞千恵子の横ではないか。したがってその左右いずれの席もあらかじめスケジュールに合わせてリザーブしているのだ。

「明日も来なければならないのか…」

 健太郎は手を挙げかけて、待てよ、明日は「哲学概論」ではないか。必須科目だし、これまで二回ほどさぼっているし、前期の講義も残り少ないし、絶対欠席するわけにはいかない。…残念だが…女優倍賞千恵子を目の前にしてその席に着くことは断念せざるを得ない…と思い止まった。

 退職者らしきおっさんとエキストラで稼いでいそうなあんちゃんがニヤニヤしながらその席へ人を掻き分けて進んで行った。

 勿論、参加した寮生は誰一人手を挙げることはなく、ただぼーっと見とれていただけだった。健太郎だけが、惜しいなあ…と歯ぎしりするのであった。

 どこまで浮気性なんや、お前は。こころのなかでもう一人の健太郎が叫んでいた。

「はい。本番行きまーす」

 深夜の撮影所で何度も何度も繰り返し繰り返し演技したあと、緊張した声が響きわたる。

「よーい、スタート!」

 セット内に活気と歓声の渦が巻き、ここだけが夜のない世界だった。


 結局、あっせん業者のおっさんからもらった金は千二百円だった。

「二千円って言ってたよなあ」

「ピンハネしゃがったな」

「搾取だよなあ」

「許せんな」

 口々にあとから文句が出たが、これが角原さんのいう資本主義の原理につながると思うと、とてつもなく深くて広くて複雑で…階級的で独裁的で…イデオロギー対立で、強いてはマグロのトロ?ロッキーへと進むべき順当な闘争形態で…と突き止めていくと、頭のなかで血が逆流するので、みんなはいい加減、憤るのを止めた。

 蘭とはよりを戻しそうな気配はあったが、退屈だった。勉強をせねばと思った。まもなく前期が終了する。夏休みがやって来る。蘭と芹とに決別するために頭を坊主にした髪の毛が入学当時のビートルズヘアになるまでにはあとひと月、いやそれ以上はかかる…と、しょおもないことを考えてみたりもした。

 これから果たしてわが寮の「ベトナム支援闘争」はどうなるのか。隣組のかんらん寮の「闘争委員会」は今後ますます過激化をみせるのか、角原さんのベーテェー教室の一員として、また「安保はんたーい」の動員がかかるのか、「赤い靴」ではない純粋なマイルス・ディビスやジョン・コルトレーンのモダンジャズを聴かせる「店」はないのか…

 こういった勉強以外に押し寄せてくる、邪心、重荷、葛藤、抑圧、あるいはそれに似たものに気を奪われながら、健太郎は大学一年の夏を目の前にしていた。


「今夜、遊びに来ないか?」

 経営学特講のあと、仁村が話しかけてきた。

「ゴルフセンターへか」

「九時には終わるばい」

 仁村は上大岡のゴルフセンターでバイトをしていた。彼の下宿はそのゴルフセンターの借間だった。毎晩、営業の終わったあと球拾いをやって、場内を清掃する仕事を手伝っていた。

 その夜、健太郎は上大岡のそのゴルフセンターへと向かった。そして、「すまんが、お前も手伝ってくれ」と言われて、行くなり、営業の終わった打ち放しのゴルフセンターの芝生のなかへと案内された。「早く終われば早く始められるからな」と仁村はニキッと例の白い歯を見せてウインクした。

 ネットで囲まれた広い敷地内に煌々と灯りがともり、芝生が鮮やかに反射していた。全部で七、八人のバイト生と数人の従業員が一斉に球拾いを開始した。バケツを持ちいっぱいになると一定の箇所に設けられた溝へと運び、それを投げ込んでいく作業の繰り返し。

 小一時間もすると汗がにじみ出し、心地良い夜風が首筋を撫でて回った。よくもまあこんなにも球があちこちに転がっているものだと感心しながら、反面、この球を散らかした張本人はブルジョワのお遊びであり、そのあと始末をさせられている自分たちはいわば賃金労働者であって、さらにその労働の成果をピンハネするという行為は断固許せない行為であり、…しかして階級闘争の一端はそこから始まるのであって…

 なんか訳の分からない論理が頭のなかを巡り始めていた。汗が飛び、全身が燃え、屈む足腰が次第にヨナヨナになりそうであった。

 しかし、芝生の背丈がこんなにも深くて、囂々(ごうごう)しいものだとは思わなかった。

「お疲れさ~ん」

 作業が終了したあと、ゴルフセンター二階の従業員食堂で仁村とほか数人で乾杯した。なかに女性が二人いてひとりは仁村といちゃついていた。とりとめもない雑談がつづき、やがてビールからウイスキーに変わり、ジャンジャンみんなはお代わりをし、笑い声が弾け、嬌声が乱れ飛び、室内は妖しげなムードへと展開していった。健太郎は顔が熱くなったので、しばらく冷まそう思い階下に降りて、ひとり場内のベンチに横たわった。 

  

 灯りがまだ煌々と広い芝生を照らしていた。酔いがまわっている。キャッ、キャッと遠くで悲鳴が聞こえる。仁村の笑い声も混じっている。

 なんやねん…大丈夫かいな。佳世子さんが怒るで…それにしても快適やなあ… 気持ちええなあ…だいぶ飲んだなあ…夜空に星を探したがゴルフセンターの灯りが反射してよく見えない。今頃、蘭は裏磐梯か。空気がいいだろうなあ。

 Y・H倶楽部って言ってたなあ。ヤッホーとか何とか言って大自然を満喫しているだろう…

 健太郎はうつらうつらしていた。

「大丈夫ですか?」

 かすかに耳元でささやく声がする。人の気配を感じて健太郎は薄目を開けてみた。気づかれないように。可憐な乙女に見えた。確かに上に居たコだ。知らぬ間に降りてきたんだ。

「気分でも悪いんですか?」

 彼女は傍を離れようとしない。

「あ~。ふむ。むにゃむにゃ」

 健太郎はわざと呆けるようにして寝言の真似事をした。いや、演じた。ところが、彼女は心配そうな素振りとは裏腹に妖しく佇む商売女のそれを漂わすかのような行動にも見えた。

「だいぶお飲みになった様子ね」

 こいつはかわいい顔をしているがいったい、いくつやねん…高校生か…いやまて、女子大生か…さっきは確か、ここの従業員やと言うてたような気もするし…むにゃ、むにゃ。

 健太郎は目を閉じながら依然と酔って寝ているふりを演じた。

「上へはもういらっしゃらないのですか?」

 彼女はなおも語りかけてくる。魅惑的に、誘惑的に、淫乱的に、かと思えば清純な乙女的に…

 健太郎は意を決して、むにゃ、むにゃの狸寝入りは止め、薄目を開けて彼女を捉え「みんなよく飲むねえー」と挨拶がてらに言ってやった。

「そうでしょ。毎晩これよ」

 彼女は初めて見た時から健太郎を好きになったような目をしながら少しく控えめで恥じらうようなパフォーマンスを演じたあと、健太郎を見つめた。そして、知らぬ間に健太郎の横に腰を下ろし、その距離を次第に寄せてくる気配を見せた。

「よおー騒いどるなあー」

 二階では乱痴気騒ぎの真っ最中という、音、叫び声、グラスの響き、丼鉢の転がる様子、ギターの音色…そしてかの怠惰で妙に躍動感を滲ませるR&Bのリズムが弾けていた。

 ここで彼女を抱きしめて彼女の要望に応えてやることも、ひとつには誠意ある態度であり「共闘委員会」に好かれる行動であろう。しかし、何か決意が削がれるというか、断固、欺瞞的な行動であることは否めず、仁村のように佳世子さんがいながら、別の女とキャッキャッ騒ぐというのは健太郎には抵抗があった。

 せっかく、仏語で手紙を書いたのだから、それは冗談たよ、嘘だよ、遊びだよ、なんて思われたくなくて、やっぱりあれは、巷に雨の降るごとく…一人寂しく濡れて帰ったその孤独がどんなものだったか…それは冗談でも、嘘でも、遊びでもないことを貫徹するためにもはやはりこの場合は、寸でのところで思い止めなければならない。空手でいう寸止めである。これは蘭のために…。

 ところが彼女はすっかりメロメロになったような、覚悟を決めて身を任せているような、怪しげな目つきを輝かせながら寄ってくるのである。

「き、きみは女子高生?」

 健太郎は内心動揺しながら話を振った。

 それがどうした?とでもいうように彼女はただ黙り、しおらしくしていようと努めているのか目をつむりまさしく寄りかかってこようとする。はよ、やらんかえ!ぼけ。と、まるで言われているような気がして健太郎はますます動揺した。

 しかし、彼女の肩に手をかけるのでもなく、両手をぶらりと垂らしたまま、

「何年生?」

「…」

「毎晩って言ってたけど、ここ長いの?」

「…」

 と、凡そこんな場面にふさわしくない台詞だけが出てくるのだった。お前は生活指導部の教師か?自分ながら不本意ではあったが、そうしようと決意している以上、ここは誘惑に負けてはいけないと言い聞かせていた。

 彼女は「いいわよ。早く抱きしめてちょうだい」と言うかのように、煌々と輝く静かな芝生を見渡すベンチに、ただ黙って、口を半ば開き、健太郎の唇を待つかのように目をうつろに剥き、しなだれてくる。

 遠くで燦々と降り注ぐ太陽の光と…青い海のうねりと…白いヨットの帆が揺れる…東京湾横断セーリングの力強い風と波の音が迫ってくる…それだけをしきりに考えて、この難局を乗り越えるのだ。

「あ~しかし、よく飲んだなあ。むにゃむにゃ」

 と、(うそぶ)いて、そして目をつむった。

 裏磐梯を駆ける蘭の楽しそうな笑顔が脳裏をかすめた。


 伊勢佐木町に夏の風が吹いている。夏の風はメラメラと燻っているだけで何となく重々しく鈍感でしかも乾燥し切っている。それはさらに黄昏が立ち込めているのに妙に浮足立って闇の訪れを受け入れようとしない。どんな風や。

 本格的な夏までに、前期が終了するまでに、行かなければならないところがある。「赤い靴」で苦杯をなめた巻き返しをどうしてもやってしまわなければ気が収まらない意地があった。更に一方の脳で健太郎は興奮気味でもあった。

 それは、今日の出来事が健太郎の胸をくすぐっていたのである。それはバラ色のように気色いいのか、あるいは気色悪い小癪な罠をしかけられたのか…

 昼前、キャンパスの図書館前で蘭と会った時の状況を反芻するのである。

「ひとつはあなたに。そしてひとつはわたしに頂戴っ」

 裏磐梯の土産だと言って健太郎は蘭から「赤べこ」をもらった。郷土玩具である。桐の箱には赤色と黒色の小さな赤べこが仲良く鎮座しており、まるでカップルか夫婦か…要するにペアで収まっていたのだ。それを、蘭は容赦なくそのうちの赤色のほうをつまみ出し、強奪したのである。そして、なぜかというと、「ふたつで一つに収まっているのだけど、いつかまた一つに収まるまで、ひとつはあなたに、そしてひとつはわたしが持っていたいの」と、せっかく土産を買ってきてくれたのに、訳の分からないことを言った。

「わたしがあなたを嫌いになったら返すから…あるいはあなたがわたしを嫌いになったらそちらを返して」

 と、いうわけでなんか金縛りにあったみたいな土産物を頂戴することになった。

 暮れゆく関内に降り立った健太郎は目的の店へと向かっていた。伊勢佐木町に吹いていた風はここでもメラメラとまだ燻っていた。

 

 モダンジャズ喫茶・「ファースト」。

 これぞ探し求めていたジャズを聴かせてくれる店だ。

 店内は薄暗く、さりとて妖しげな闇ではない。健全とほのぼのと適度に尚且つゆるやかな照明が足を踏み入れた瞬間、「これだ!」と思わせる微かな印象。

 まず耳に入るはテナーサックスの重低音の響き。健太郎はよし、よし、と満足した。感じいいやん。

 正面に現在かかっているレコードのジャケットが飾られ、周りは一斉にそれを確認できる位置に席が並び、まるでオーディオ・ルームそのものの造りである。

 「赤い靴」のように騒音、乱痴気さ、異国情緒な体臭は渦巻いてはおらず、ここならゆっくりと前期の生活を振り返り、また今後の夏休みの対処方についても整理できそうである。

 席に着くと、リロリロ、パルル♪~♬…の音と一緒に「赤べこ」がひとつテナーサックスのメロディーに乗って宙を舞う。

 もらったのは、ペアで収まっていたはずの赤い色と黒い色の赤べこだったはずなのに…リロリロ、パルル♪~♬…なぜか、手元に残されたのは黒色の赤べこだけなのだ。

 これは重大なお告げに違いない。

 とりあえず、珈琲を注文した。

 夏休みに入ると仁村は故郷の佐世保に佳世子さんを連れて帰り、ナナハンを乗り回して九州を一周するらしい。「赤い靴」同様、上気を蹴散らすような行動に着手しようとしているのに対し、健太郎はお告げを受けたような御土産を手に持たされたのだ。

「嫌いになったら返すから、これ頂戴ね」

 と片方の赤べこを抜き取るとは、如何なる禍事(まがごと)であるのか。

テナーサックスの音色に合わせて熟慮するに…あなたがもし私を嫌いになったら、あなたの持っているほうを私に返してね…とも告げられた…

 彼女は何たるエゴイストか。きれいに収まるはずの桐の箱がこれでは不完全この上なく、主導権を奪われたままの片身の飾り物ではないか。

 うわーっ…喜んでいいのか、それともエゴイストの渦に巻き込まれて最後にはベロベロになって「愛のコリーダ」になるのか、リロリロ、パルル♪~♬…は容赦なく健太郎の周りを旋回する。

 何度も見つめているのにそこに何が書かれてあるのかがやっと分かった。

「ジュジュの魔術・アーチー・シェップ」とある。そしてジャケット全体に髑髏(どくろ)の画。今かかっている作品の曲目並びに演奏者の名前をこの時初めて知ったのである。

 それにしても気色の悪いリズムとテナーやなあ。第一印象はそのように感じた。


 広がる海。燦々と輝く太陽。焼き付く背中を疾風がひと撫で通り過ぎると、そこには次に無限の数の謳歌が飛来し、果てしなく続く眺望にどっぷりと浸かれる別天地だった。

 夏、上旬。驚くほど快活に、しかもゆるぎなく、風に乗ったヨットはどんどん滑り行く。東京湾横断合宿の真っただ中に健太郎のその心と身体は委ねられていた。

「気持ちいいなあ」

「こんなに速いものとは知らなかった」

 新入生は異口同音に感激にむせた。

「風の向きを読むのは難しいべや」

「半分は勘だな」

「すぐ変わるからな」

「山の天気と同じだべゃ」

 笑い声が白波に打ち消されてどんどん遠ざかる。三浦半島から出発して二時間も経つとまもなく遠くにうっすらと千葉の鋸山の稜線を確認することができる。

「頑張って一部校に昇格したいなあ」

「同じやるならな」

 ディンギーの帆の音が風に煽られて小気味よく弾く。背を波に浸しながらのけぞらした姿勢の健太郎の脳裏に快適なリズムが聞こえてくる。

 ポコポコ♬…走れ!走れ!最初はその調子でよかった。

 しかし、ポコポコ♬…が次第に生のコンガの音に変わりよもや例の気色悪いリロリロ、パルル♪~♬が混じり始めたのだ。

 何たる禍事(まがごと)であるか。「愛のコリーダ」はここまでついてきているのか。

「こらっ!ひだり、ひだりっ」

 突然キャプテンの怒号が耳を衝いた。

「はいっ」

 反射的に身を翻して反対の左側に沈めた。ほんの一瞬、風向きは変わっていたのだ。

「ジュジュの魔術」の亡霊がまさかこの場に入り込んでくるとは思わなかった。

 ポコポコ♬…は「ファースト」に入って最初に飛び込んできた音だ。初めて触れたあの軽快なテナーは本当はこのポコポコ♬…が支えていたのだ。つまり生のコンガの音だった。

 それにしてもこのリズムがなぜこの場に甦ってくるのか。何となく金縛りはまだつづけられているようで…それはコンガの音がそれを象徴しているとでもいうのだろうか。

 進め、進め、呪縛がなんだ。健太郎はそう思いつづけた。

 そして、まもなくヨット部全員、今回は無事に東京湾横断を完遂し、千葉館山のヨットハーバーに到着したのである。

 そして同時に健太郎の横浜における最初の夏は終わったのであった。


 秋の虫の音が侘しい。

 夏の帰省から再び大学の寮に戻り、最初に気付くのである。虫の鳴き声が実にせつない。どこから伝わってくるのだろうか。とりあえず、窓を開け澄み切った暗闇のなかでじっと耳を凝らしてみる。リーン、リーン…としっとりと、奥深く、さらにもの悲しげに哀訴しているげに聞こえるのだ。

 蘭の声を聞きたい。ただ健太郎は寮に戻ってくるあいだそればかり思っていた。だから懐かしいスリッパの音が近づいてきてやがて自分の部屋をノックするに違いないと確信していたにもかかわらず先に部屋を飛び出して一目散に近所の公衆電話BOXへと向かった。

 やばいことにいつものBOXには先客がいて、ネチネチ、クネクネ喋りつづけている。はよせんか。ボケ。と苛立つも先客の若いあんちゃんにはこの待つ身の悶絶さは分かってもらえない。BOXのガラスに顔を寄せたり、指でこすったり、ガンガン頭をわざとぶつけたり、終始ニヤニヤ笑ったり、あんちゃんはそのドアの外でじっと待つ人間の心を弄んでいるかのごとく振る舞った。こらっ!ええ加減にさらせ!どあほ。と言いたい気持ちを抑えつつ、健太郎は辛抱強く待った。二十分。三十分。…

 途中で次々と電話をかけにくる人影が忍び寄ったが、BOX内のあんちゃんの様子を一瞥して諦めたのか、姿を消した。おんどれ、野郎のくせになんやねん、その長話。怒りは頂点を極めた。やめたろ。今夜はついてない。時間が悪かった。と健太郎は断念するや、帰路に就くことにした。

 そして寮に着くまでのあいだ、道端で鳴く虫の音を一層侘しさを増しながら聞きつつ、秋になったか…を身に染みて感じ取るのだった。

「先輩、どこへ行っていたんですか?」

 木本がちょうど玄関に立っている。

「なんや」

「なんやって、たった今先輩に電話でしたよ」

「誰からや」

「蘭さんですがな」

「どけ」

 健太郎はカウンターに設置されているピンク色の公衆電話の受話器を握り、ポケットから小銭を取り出し、投入口へ次々と落としながらダイヤルをまわした。普段は使わないこの電話を、今日みたいなけったくその悪い日は即使うべきだ。玄関だからジロジロ他の寮生に見られるが、また話す内容も聞かれるが、もはや今夜だけはそんなことはどうでもいい。できればカウンターのなかに潜って、そして薄暗い一角に移動して話をすれば内緒話は漏れることはないだろう。  

 信号音が鳴り、相手を呼んでいるあいだに、カウンターの内側に回り込み、木本に「あっちへ行け」と目で追い払う。

「はあーい」

 蘭が出てきた。

「今、寮に戻ってきたよ」

「さっき電話したのよ」

「そうらしいな。聞いたよ」

「どこ行ってたの?」

「電話をかけに出かけてたんだよ」

「だれに?」

「決まってるじゃねえか、お前にだよ」

 なぜかこのときだけ東京弁。

「それで?」

「いつもかけているBOXにさ、今夜は先客がいてさ、それが長いのなんの、なかなか終わらなくてさあ、三十分も待ってたんだが…とうとう頭にきて今戻ってきたってわけだよ」

「へえー。そうなの」

 蘭は笑っていた。それからヒソヒソ、ヘラヘラ、ウキウキetc。健太郎はカウンターの内側に潜り込んで、外からは見えない格好で、そしてそこは暗闇の窮屈な場所で、さっきのあんちゃん同様、長話にふけった。

 やがて…リーン、リーン…足元でどこから紛れ込んできたのか秋の虫の音がかすかに聞こえてくる。蘭が「なあーに」と尋ねている。健太郎は思わず会話をやめて「さすが、秋やなあ」と胸のなかでゆっくりと呟いてみた。


 このところ蘭とばかり会っている。

 いつもの伊勢佐木町のコースから馬車道あたりまで足を延ばすことがあった。  

 前期試験が近づいていた。終わればまたヨット部の合宿が待っていた。

「このあいだね、星の王子さまっていう本を久しぶりに出して読んだわ」

「サンテグジュぺリ、のか」

「そう」

「それで、あ、おんなじだと思っちゃった」

「何が」

「だれもが、友達らしい友達を持っているわけではありません…って書いてある箇所があるのよね、そこよ」

「えっ?どういう意味だよ」

 ふたりは延々と会話をつづけた。

 お伽話の世界に迷い込むようなやり取りがつづいた。

「でも、結局は遠い思い出として消えていくんだろうなあ」

 健太郎は夜空を見上げていた。無数の星が煌めいて見えた。その一つ一つに蘭の言うお伽のような輝きと陶酔と誤解と美化とが一緒くたになって広がっていた。

「俺もやがてはあの星のうちの一つになっていくのか…」

「ばかね」

 蘭はクスリと笑った。

 それから一週間、猛烈に試験勉強を開始したが、思うようにはかどらなかった。木本がたびたび訪れ「先輩、何考えてるんですか?」と開きかけたままの教科書のうえでポカンとしている健太郎を見て言った。

「お前、星の王子さまっていう小説知っているか?」

 健太郎は木本に尋ねてみた。

「知ってますよ。小説じゃなく童話でしょ?」

「ああ」

「それがどうかしたのですか?」

「読んだことあるか?」

「ええ、まあ」

「どう思う?」

 木本は怪訝な顔をして「どうって、ただこの世にはかけがえのない大切なものがありますよっていう童話ですよ」

「うむ」

 健太郎は真面目な顔をして唸った。

で、それから数日後、蘭から「じゃあ、読んでね」と渡されたその「星の王子さま」という本を手に取ってみた。

 うわっ、これは只事ではない!

 ページを繰って読むうち、ところどころに引かれた傍線があり、それに思いを馳せた自分自身の感情がストレートにメモされて書かれてあり、それは溢れ出る熱情であり、恋情であり、思慕であり、告白といえた。蘭自体が切々と訴えている、この童話に共鳴するかのような絶賛辞ともみてとれた。

 例えば、こんなふうに。

…あのキツネは、はじめ、十万ものキツネとおんなじだった。だけど、いまじゃ、もう、ぼくのともだちになってるんだから、この世に一ぴきしかいないキツネなんだよ」という文に傍線がひいてあり、蘭の解説が上部にメモってある。

 こんなふうに。

…人間の愛もこれと同じだと思うの。私の愛する人も初めは他の多くの男性と同じだったの。でも、話し合い、信じ合い、愛し合っていくうちにその人は私にとってかけがえのない男性となりました。私のその人はこの世界に何億という男性がいても私にとってはたった一人の人になったのです。私の大切なたった一人の人となったのです。

 健太郎は唸った

 サンテグジュぺリの作品より蘭の書いたメッセージに圧倒され、よろめき、状態を立て直そうと何度も試みたが、蘭の真摯なこころが伝わってくるようで正直狼狽えた。これは只事ではない。試験勉強どころではない。

 けたたましく、ときには慈しみ深く、そして哀愁を帯びた秋の虫の声だけが真っ盛りである。


 夏休みの期間中、仁村は佳世子さんと青春を謳歌したらしく、九州での破天荒なバイクツーリングを敢行し、ときには衝突事故、横転事故などを次々と喝破しながらも無事、帰還した。二人とも傷だらけの格好でキャンパスに姿を現わしたが、ヤンキーの風貌いっそう冴えわたり、包帯をして片腕を吊るす仁村のニキッと笑う顔に不純さは少しも感じられなかった。

「どうだい?蘭さんとは」

「いい感じなの?」

 佳世子さんも左足を骨折したらしく、いまだに松葉杖姿ではあったが真っ黒に日焼けした顔に快活な笑みを覗かせ話しかけてくる。

「ええ。まあ」

 健太郎は芝生に寝転がったまま、秋の空を見上げていた。いつもの七号館前に依然とかんらん寮の「闘争委員会」の立て看が掲げられていて「粉砕!当局の欺瞞、許すな教授会の慣行主義!」等々の殴り書きが踊っている。その前を何気ないふりをした学生たちがソワソワ、ヒソヒソ、ゲラゲラと笑いながら通り過ぎていく。みんな前期試験を目前に控えて猛勉強の形相をそのソワソワ、ヒソヒソ、ゲラゲラのなかに潜めながら足早に去っていくのである。

 三人はそれとは無関係に昼下がりのキャンパスで憩うのであって、それは貴重な再会の場を楽しんでいるのだ。仁村と佳世子さんは過ぎ去った灼熱とスリルと性の夏休みを、そして健太郎は東京湾横断セーリングの波と風の音を…そしてさらに新たな焦燥とを抱え込んで…

 サンテグジュぺリの作品のことが頭から離れなかった。蘭がつけた傍線は「赤べこ」の金縛り以上に新鮮かつ明瞭な衝撃といえた。その要するに言いたいことは例えばあのキツネの文章の次に引かれている箇所を目にするともっとも鮮明となるのであった。

 つまりその箇所とは。

「あんたたちは美しいけど、ただ咲いているだけなんだね。あんたたちのためには、死ぬ気になんかなれないよ。そりゃ、ぼくのバラの花も、なんでもなく、そばを通ってゆく人が見たら、あんたたちとおんなじ花だと思うかもしれない。だけど、あの一輪の花が、ぼくには、あんたたちみんなよりも、たいせつなんだ。だって、水をかけた花なんだからね。覆いガラスもかけてやったんだからね。ついたてで、風にあたらないようにしてやったんだからね。ケムシを(二つ、三つはチョウになるように殺さずにおいたけど)殺してやった花なんだからね。不平もきいてやったし、じまん話もきいてやったし、だまっているならいるで、時には、どうしたのだろうと、きき耳を立ててやった花なんだからね。ぼくのものになった花なんだからね」

 と、王子さまがバラの花たちに言う場面であり、そこに引かれている傍線をも合わせて蘭のコメントは書かれたものと思われ、先のキツネの文章と照らし合わせるとつまり「たったひとつのもの」の経緯がよくわかる。

「頭を刈って決別じゃないのね」

 佳世子さんが上から顔を覗き込んできた。

「うむ。まあ」

「そう」

 佳世子さんはホッとするかのごとく、一瞬にんまりしたあと再び仁村のほうへ向きを変え、話の続きを始めた。

 佐世保のバーガー店のあの味はよかったとか、港の倉庫裏の落書きは逸品だったとか、国道57号線のガードレールの角度は三次元の世界だったとかetc。

 健太郎は聞くでもなく耳を傾け、相槌を打つでもなく打ち、秋空を眺めつづけた。確実にこころはまっすぐ清純に伸び、その蕾を膨らませつつあった。蕾は反乱を起こすのでもなく、丹念に清涼な水を与えられ、茨から護られて育てられようとしていた。驚くべきサンテグジュぺリの効用が健太郎の脳裏を駆け巡り、それはしばらく唖然として見守っていくしかないように思われた。

 とにかく蘭の思いは一途で純白だと思わずにはいられなかった。

 

 滅茶苦茶せわしなく、あるいはさらっと覚え、ときには哲学風に熟考を重ね重ねしたという痕跡を滲ませたレポートを提出するなどしてようやく前期試験を終えることができた。

「ヤッホー」と叫びたい気持ちが全身に溢れ、こころはウキウキ、まずは天高く澄み切った追浜(おっぱま)の空気を思い切りに吸ってポチポチと野島公園に散歩に出かけることにした。追浜はいいところだと半年住んでみて分かってきた。寮自体、つまり横須賀市追浜に所在し、大学へは歩いて十五分で裏門出入口に到達した。大学は横浜市に所在していることになっているので、誰かに「どこに住んでるの?」と聞かれたとき「横須賀です」と答えると彼らは「へえー、横須賀から通っているの」と驚く。

「寮がちょうど横浜市と横須賀市の境界線に建っているわけで…」といつも地理上の説明をしなければならず、途中であほらしくなってきたので最近はしないことにしている。

 でも、健太郎にとって最初の前期試験終了後の横須賀市の空の空気はとてつもなくおいしく感じられた。野島公園は寮から歩いて大学とは反対の、平潟湾に面して広がっており、ちょうど火事のあったかんらん寮の方角である。かんらん寮は横浜市所在なのだ。その百姓風情したバンカラ族の輩が後期に入ってからも例の「闘争委員会」としての気勢は盛り上がりを見せ、時折、訳も分からない武装練習を野島公園で行っているとの噂もあった。

 最近では寮の角原さんもなぜか彼らの執行部とも仲良しで、「へなちょこ支援なんてまなぬるい。根本的に支援より革命が先だ」ともっぱらかんらん寮へ出向いて熱弁を奮うことが多くなった。

 頂上へ上るとそこは見渡す限り青い海が眼下に広がる。東京湾の一角だ。さらに沿岸には日産自動車の広大な敷地が横たわりマッチ箱ほどの車の群れがゆるゆると行進しているのが見える。

 それにつけても後期に入り健太郎は蘭との交際を中心にして物事とか、寮生活、更にいうとバイトとか、あるいは部活を考えるようになり、何を差し置いても、サンテグジュぺリのいうところの「手をかけてやらなければならない、かけがえのないもの」としての蘭の存在を大きく意識するようになった。

 負担?っていうほどのものでないにしろ、拘束?でもなし、歓び?といえば歓びでもあるような、そうかといってでれーとクニャクニャするわけでもなし、ま、青春といえばぴったりとくるような…そんなサンテグジュぺリさんを介しての贈り物がこころに宿ったことは確かなことであった。

 おいしい秋の空気をいっぱい吸って、じゅうぶん試験後の開放感を満喫して寮に戻ってくると、玄関の黒板に「本日、臨時寮生大会。午後七時食堂にて」とあった。   

 やばいやん。今日は蘭と会う日やいうのに。健太郎は思いっきり、しょおもないことを考える寮役員会のどたまをいっぺんかち割ってやりたいと思わずにはいられなかった。

 また、ベトナム戦争反対の総決起集会かいな。べーテェーが北爆開始してからめちゃめちゃ戦火が広がっていても、別に我々学生に関係がないのんと違うのん、ってじかに倉石寮長に言ったらどうなるのだろう。

 黒板の通告を見て、心が急に重たくなった。蘭に「今日はベトナム反戦の集会があるので、会うのやめるわ」って言ったら彼女は何と言うのだろうか。「ベトナムと私とどっちが大事?」「そりゃあ、蘭だと思うけど」「けど、何なの?」「つまり、ベトナムはどうでもいいんだけど」「何なの?」「寮の…行事っていうか」「じゃあ、寮の行事のほうが大事なのね」「そんな意味ではないんだけど…」「じゃあ、何なの?」

 あかん!つまり男として大切なものが言い表せないっていうか、組織の、運命共同体としての、ゲゼルシャフトとしての、いやゲマインシャフトの一員としての…とぶつぶつ言っているうちに誰か帰ってきたのかうしろからいきなり肩を叩かれた。

「おい、今夜ぜひ出席しろよな」

 みると角原さんがいかつい顔をして立っていた。

「あ、はい」

 健太郎は反射的に返事をせざるを得なかった。

 

 前期試験も終わってほっとした表情が集まった寮生全員に表われていた。夜七時、開始前の食堂にはそんな雰囲気が最初は立ちこめていたが、本題の議論が始まると忽ち空気は一変し始めた。

「今や、全学はベトナム戦争反対を叫ばずして世界の平和を唱える資格はまったくないのであり、世界的な動きをかんがみて寮としてもこれに賛同するものであり、この定義書に署名し連盟に加わる決意を早急に決定すべきであって一刻の猶予も許されない状況で」

 寮の役員会が切々と訴えるなか、角原さんを筆頭とする全学連左派の陣営がその説明を妨害するかのように激しく野次り、執行部の声が途切れ途切れになった。前回と同じ状況だ。開始後、二十数分にてもはや収拾がつかなくなり、挙句の果てには「こんな決起集会はナンセンス!やめろやめろ」の合唱が始まった。角原さんはひな壇に詰め寄り、「お前らに、平和的解決のテーゼが分かってたまるか」と何度もアジテーションを繰り返した。

 健太郎はここはいったいどこなのかと、まるで空中分解するような錯覚をふと感じ、我々学生には直接関係のない世界に対して、議論のための議論に没頭するすさまじきエネルギーのマグマを感じ取っていた。

 こんなとき、サンテグジュぺリさんの一文でも思い浮かべれば、一気に呼吸も安定し、みんな血圧が少しでも下がって落ち着きを取り戻すのではないのだろうかと、不謹慎にも想像してみたりした。

 しかし、悪いことは重なるものでこの大波乱の様相をまるで予知したかのように、突然玄関に騒がしい物音がしたかと思えばあっという間にヘルメット姿の集団が一気に食堂めがけて雪崩れ込んできたのだ。

 すわっ!かんらん寮の全共闘の百姓たちだ。

「へなちょこ支援活動粉砕!」とでも言わんばかりに、忽ちひな壇を取り囲み、角原さんの差し金よろしく寮執行部を吊し上げる格好になった。

「君たちはなんだ!不法占拠にあたるぞ」

「うるせえ。とっととへなちょこな支援などと言ってねえで全共闘に加盟せよ」

 とたんに殴り合いが始まった。ほかの寮生は遠巻きに眺めるしか手はなく、かんらん寮の奴らがなぜやってきたのか、ただ呆然とするしかなかった。


 この経緯を数日後、蘭に話すと蘭はこともなげに答えた。

「傍観するってつらいよね」

 そうなんだ。権力の下ではどうしようもないっていうか、つまり何も知らない下僕が出る幕はないっていうか、勉強不足っていうか、それとも器が小さいっていうか、新米は黙ってろっていうか、そんな状況で、と黙っていると、

「でも、ベトナム反戦の運動は世界に広がっているわね」

 と、つぶやいた。

「ジョーン・バエズ?」

 と、健太郎が言った。

「勝利をわれらに、ね」

 蘭が答える。

「それからピーターポール&マリーの悲惨な戦争」

「それと、誰だっけ?帰らぬ少年兵の」

「あ、それね。誰だったかしら」

 悲しいトランペットが響く曲だったが歌手が思い出せない。

 そして、話はそのままになった。

 秋風の吹く伊勢佐木町をいつものように山下公園へ向かってふたりは歩きつづけた。

 

 前期試験が終わり、十月も終わりに近づくと大学祭のイベントが待ち受ける。

「模擬店やるからぜひ来てね」と蘭は言っていた。

 金もそろそろ無くなったし、その前夜祭までには何とか調達したいし、健太郎はまたぞろ短期間のバイトを探していた。

「工事現場の仕事なんだけど行く?」

 同じクラスの佐伯という札幌出身の男が、「経済原論」の講義のとき話しかけてきた。

「どこ?していくら呉れるの?」

「一日、二千五百円。逗子だよ」

「何すんの?」

「だから、土方だよ土方」

「いいね。一日だけか?」

「一週間くらいかな」

「イ・チ・ゴは堅いな」

「全部出ればな」

 と、いうことで佐伯に取り付けを依頼し、早速翌日からバイトをすることにした。

 佐伯は逗子に下宿しており、何かのツテでその種の情報を入手したらしい。「グリーでさ、先輩たちも時々やっているんだけど、一日もやると身体がもたなくなっちゃって参っちゃうんだよな」とついでにそのバイトの概要たるを少し付け加えた。それはまあ、二千五百円の対価としては当然のことであろうと健太郎もそのときは鼻をクンクンさせるだけにして黙って聞き流した。

 グリーとは彼が入っているグリークラブのことで、このあいだも定演のチケットを汗を垂らしながら売っていたことを思い出す。恐らく、高額で、短期間で、金を得るためにはこの種のバイトが手っ取り早い。

 翌日早朝、逗子駅で佐伯と待ち合せ、その工事現場とやらに向かった。

「これを必ず着用して」

 と現地でまず二人に手渡されたのはヘルメットだった。見上げると、結構高い鉄骨が組まれている建築現場だった。足場を伝い、建材を肩に担いで運搬するという百パーセントの肉体労働そのものが控えていた。

 ヘルメットを被り、タオルを首に巻いて、高さ数十メートルの骨組み現場へ、数メートルの鉄パイプや角材や、バケツに満たしたセメントを運ぶのである。幅五〇センチちょっとの渡し板の通路はバランスをうまく保たないとぐらぐらと揺れ動いた。骨組みのその作業箇所から下を見渡せば逗子市街が一望できたはずであったが二人に景色などゆっくりと眺める余裕などなかった。

 アヘアヘと唸りながらもとりあえず二人は午前中の作業を終えた。

「きついなあ」

「踏み外したら死ぬで」

 二人はタバコに火を点けた。例のZipooのライターに目をやった佐伯がふぅーっと煙を吐きながら健太郎に言った。

「あんときカッコよかったな」

「なんだよ」

「柳田の講義のときよ」

「誰かタバコ持ってねえかって…それで、さっ!と取り出し、ジュポッ!だもんね」 

 佐伯は健太郎がとった仕草の一部始終を回想するかのようにしゃべった。

「ああ、あれか」

 健太郎は少しく照れた。それから二人して、はははっと苦笑いした。佐伯はセブン・スターを吸っていた。

「佐伯は北海道だったよな」

「札幌だよ」

「この春、ヨットの合宿で北海道の同期が亡くなってね。可哀想だったよ」

「北海道のどこ?」

「旭川だったかな」

「ふーん」

 逗子の彼方にある森戸海岸の方向からその亡き魂が飛んでくるような気がした。風はちよっぴりと寂しく、そしてふんわりと重いような音を混ぜながら、しきりに建築現場の昼下がりを撫でていた。

 

 逗子の建築現場のバイトは連続二日間つづいたが、三日目はとうとう起き上がれないほど足腰腕が痛くなり、結局諦めた。それでも二日で五千円入った。佐伯も同じだった。

 前夜祭の日、蘭に電話をかけた。

「何やってるんだっけ?」

「喫茶よ。甘党の店。でも今日はまだよ。前夜祭だから」

「そう。ユースホステル部だったよね」

「本番の三日間のうち必ず来てね」

「ああ」

 と、話したきり前夜祭も本番期間中も健太郎は短大のほうの展示館へは顔を出さず、もっぱら本学のキャンパス内での祭り気分だけを味わった。照れもあったし、デレデレちゃらちゃらの興味本位的覗き見行為自体が嫌だった。

「先輩、行きました?短大のほう」

 最終日の朝、寮の食堂で木本が言った。

「いや別に」

「行ってないのですか?蘭さんの倶楽部、なんやったっけ?なんかやってるのと違いますの」

「ほっといてくれ」

 と言ったものの少し胸のなかで焦った。なにが、カッコ悪いんや、照れる柄か、それとも自分はただのドンファン気分でいるちゅうわけか…次々とその悪しき投げやり感が追い詰められ、うわっこりゃいかん、絶対にいかんという結論に達した。サンテグジュぺリ先生に申し訳が立たんという啓示が胸を貫いたに違いない。

 午後、早速本学キャンパスに登校し、偶然出会ったほかのクラスの話の合いそうな仲間と一緒に短大のその『みつば祭』イベント会場の建物のなかへと乗り込んで行ったのである。

 きゃあーとか、うわあーとか秘かな嬌声が低く立ち込めるような各展示室が連なり、ようやく華やかなるも可憐で控えめに拵えた小さな甘党喫茶の模擬店のレトリックかつ健康溌剌とした感じの「ユースホステル部」の入り口を見つけた。

 エプロン姿の女給に化けた部員が「いらっしゃいませー」と駆け寄ってくる。なんやねん、場末のバアーか、大正時代のミルクホールか。

 でも、悪くない、悪くない。蘭の所属するチームメートのおねえさん方だ、粗相があってはならぬ。あくまでも温厚な客風情を装い、微笑みを決して絶やさないように、ここは青春の一大ページェントだ、と肝に銘じながら女給に案内されて指定された椅子に腰を下ろす。

 蘭を探すがどこにいるのかよく分からない。一緒に来た仲間もワイワイガヤガヤ言うでもなくおとなしく周りを物色し、これが女の園の拵えたものかと少しく満足している風である。

「あんみつ」「汁粉」「わらび餅」…と、それぞれがこの日ばかりはと女子高生もどきの気分に弛緩し、注文をばした。健太郎が何気なく引かれる空気に沿って、その模擬店の隅の賄場所に視線を投じると、蘭がもじもじと仲間に衝つかれ恥じらっている姿が映った。そして店内にいる所属するチームメートのおねえさんたちみんなも蘭を囃し立てて喜んでいるように健太郎の目には映った。

 後夜祭が始まっているころ、健太郎は寮にいた。寮の食堂で燻りつづけている例の「革命分子の取り扱い」について寮の役員が打ち合わせをやっていた。寮には寮生はほとんど居ず、みんな後夜祭へ出かけていた。

 夜九時前、突然玄関の電話のベルが鳴り、それが蘭からの電話で、寮母さんが出て放送してくれたので助かった。こんなとき玄関すぐそばの食堂で打ち合わせをやっていた殺気立った役員が応対したら、…と思うと肝も潰れたに違いない。

「今ね、後夜祭終わったわよ。何してるの」

「どこだ。行くよ」

 健太郎はつっかけを履いて飛び出していった。

  

 祭りの終わったあとの静けさが夜のキャンパスを覆っていた。灯りが寂しく点っている七号館入り口の柱の陰に蘭は一人で立っていた。つっかけの音を響かせながら健太郎が近づくと、蘭は軽く手を挙げた。

「キャンプファイアー、素晴らしかったよ」

「ああそう」

「私ね、今日みんなから言われちゃった」

「なんて」

「今日一番幸せだった人、って」

「なんやそれ」

「来てくれてありがとう」

「ああ。ぜんざい、うまかったよ」

 追浜駅につづく道をトボトボと、ほんわかムードで歩いた。

「今ね、トッポ・ジージョって人気あるでしょ?」

「テレビでやってるやつ?」

「そう。あのマスコット・キャラクターってどこも売り切れなの」

「欲しいのか?」

「今、とっても欲しいの。でもどこにもないの」

「よく売れるんだね」

「そう」

 たかが、ネズミの人形、されど今や空前の人気を博し、絶対手に入れることの出来ぬマスコットキャラクター。男性には興味のないグッズといえた。でも健太郎は、「うん。うん」と言って聞いていた。

 

 追浜駅前にひとつだけ公衆電話BOXがあった。小高くなっている駅の南側には総合病院がそびえ、長い坂道をあがると見晴らしの良い追浜公園があった。学生たちの通学駅でもあった追浜駅周辺には本屋、喫茶店、パーラー、中華料理店、蕎麦屋そして北側に個人病院などが軒を連ね、結構賑わっていた。

 晩秋のある日の夕暮、寮に電話があり、蘭からであり、蘭は「あのね、今、追浜駅の公衆電話からかけているのだけど、入るとき足をドアにぶつけちゃって…痛くて」とかなんとか言ってきた。

「待ってろ」

 またぞろ、健太郎は部屋にあった救急箱から消毒液とカット・絆創膏を取り出し、つっかけスタイルで追浜駅へ馳せた。

 近くの喫茶店に入り、「ま、超応急処置だけど」と擦り剥いて血の滲む蘭の右足首を慮り、携行したそれらで手当てをしてやった。

「助かったわ。すぐ来てくれてありがとう」

「うむ。すぐ来れた距離だし」

 健太郎は処置を終えると、照れを隠すようにハイライトを取り出し、おもむろにジュポッと火を点けた。

 まもなく師走が近づいていた。

 

 蘭と暮れの鎌倉を散策し、「もうすぐクリスマスやね」と言っているうちに後期授業も終了になり、ついでに金もなくなってきたので、とりあえず一週間ばかりのバイトを探していたところ、手ごろな当てが見つかった。

 横須賀中央から少し行ったところに、砂糖工場があり、お歳暮の品として箱詰めする人手が必要らしく、健太郎は即応募して即採用となった。

 作業場にはパートのおばさんたちが毎日四人ほど出勤してきて、ぺちゃくちゃおしゃべりをしながら健太郎の仕分ける砂糖をキロ別の箱に入れていった。

 おばさんたちは陽気に、体裁も繕わず、あけっぴろげに、ときには生々しく、お互いの性?談のうん蓄を語ることもあった。なんせ男性は健太郎ただ一人、しかも学生ときているのを知ってか知らずか、わざと素知らぬふうを装っておちょくっているとしか思えない隠語を使ったりした。

「若くて元気なのがいいよね」

「ビンビンにね」

「まいっちゃうわよ。一晩中じゃあ」

「奥さんなんか毎晩お疲れのようだけど」

「いやこのかたはいくらやっても大丈夫よ」

「えーっ、そうなの」

 なかに若い主婦がいて、いつもからかわれる対象となっていた。別に陰湿ないじめを受けているわけでもなく、彼女はただ少しく頬を染めてクスクスと微笑んでいるかに見えた。なんのこっちゃ、真面目に仕事せんか、どあほ。と、時々思った。

 午後になるとおばさんたちは引き揚げていく。午後はもっぱら倉庫を何度も往復して作業場に新しい砂糖を運び、それぞれの重さごとに計量してナイロン袋に詰めておく。翌日のおばさんたちの箱詰めの準備しておくためである。

 昼は外へ出て、海を眺めた。近くのカーラジオから音楽が流れる。四日目だったか、その曲が流れてきた。その曲とは蘭と話したことのある「帰らぬ少年兵」のメロディーだった。もの悲しく消え入るトランペットの響きが凍った風のなかで震えた。歌っている女性歌手の名前が依然思い出せない。しかしそんなことはどうでもよかった。

 曲を聞きながら蘭に贈るべきクリスマスプレゼントを考えていた。そしてそれはほぼ煮詰まっていた。

 

 一週間の砂糖工場のバイトが終わったあと、目的のプレゼントを買うため、まず横浜西口のダイヤモンド地下街をくまなく漁った。案の定、在庫がなかった。伊勢佐木町へと繰り出すも、それは売り切れていた。しかたなく東横線で渋谷まで足を延ばすことにした。

 デパート、装飾店、ファッショングッズ店、その他それらしきものを扱っていそうな、可愛いオンナの子に人気がありそうな、店、店と渡り歩いたが、いずれもその品物は見事に残っていなかった。

 真冬というのに頭から湯気が立つほどで身体に汗をかいていた。巷にネオンが降り注ぎ、大海のごとく人の波がせわしなく動いていた。やっぱり、蘭が言っていたとおりだな、健太郎は呆然とした。

 この世に一つしかない大切なもののように思えた。たかがネズミのマスコット・キャラクター。漫画か、童話か、アイドルか…果てしない虚像に無限の憧れと愛を夢見る…そんな宝物を蘭は欲しがっているし、健太郎としても絶対見つけ出してそれを贈ってあげたい。しかし、このざまだ。

「ありまへんな」「そんなんあんた、とっくに売り切れですわ」とたぶん関西では言われるのに対し、ここ東京では「申し訳ありません。売り切れちゃって」「ちょっと再入荷については存じあげません」との繰り返しだ。丁寧だけあって余計に冷たさを感じる。

 へとへとになりつつも再起を賭け、こうなったら意地でもと、渋谷の裏街通りのチラチラする小店を漁ることにした。疲れていても胸はランランが半分、ショボショボが半分、互いにせめぎ合い、遠くでは「ジングルベル」の音楽がその最後の賭けを応援するかのように背中を押していた。

「トッポ・ジージョの人形、ありますか?」

 小奇麗な店だった。初老のおじさんが店番に立っていた。ニコニコしていた。

「一つだけありますよ」

「あっ、そう。よかった」

 汗がひときわ蒸気のように立ち昇った。

「どこもなかったでしょう」

「ええ。やっと手に入りました」

「よかったですね。最後の一つです」

 スキーを背負った可愛いネズミがニッコリと微笑んでいる。

「冬バージョンでね」

 おじさんは優しい目を注ぎながら、「贈り物にされますか?」と、健太郎に問うた。

「はい」

 健太郎は完全試合を終えたピッチャーのように満悦して答えた。

 

 帰路につく足取りは弾んでいた。暮れ行く大都会の人ごみのなかにその夢は満ち、お伽の世界は一層、煌めいていた。

 その夢はきっとこのネズミのキャラクターがいっぱい運んできてくれたのだと思った。

「今、とっても欲しいの」

 帰りの電車のなかで健太郎は喜ぶ蘭の姿を想像した。



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