怠惰の悪魔
侯爵令嬢が走らせる馬は華麗であり、健脚でもあった。
まるで鳥獣のような速度で街道をひた走ると、目当ての迷宮にたどり着く。
その迷宮は「銀等級の試練場」と呼ばれる古代遺跡を利用したダンジョンであった。
浅い階層は比較的冒険者に探索し尽くされており、地図も流通しているので、初心者パーティーが練習用に使うことが多かった。
このダンジョンの最下層に目当ての解毒剤があるはずである。
とセリカが伝えると、フィルは尋ねた。
「このダンジョンは一層潜るのにどれくらい時間が掛かるの?」
「平均半日」
と叡智の騎士から答えが返ってくる。
「何階まであるの?」
「確認されているだけで10。解毒剤があるのが10」
「…………」
即座に計算すると絶望する。強行軍で突破しても5日は掛かる計算である。それまでシャロンの命が持つとは思えなかった。彼女の心臓の直近まで毒は浸食しているのだ。
絶望に満ちた表情のフィルを救ってくれたのはセリカだった。
「大丈夫です。このダンジョンにはショートカットがあります。地下一階の端に地下十階に続く道があります。そこを通れば一瞬です」
ほっとするフィル。
フィルは珍しく抗議する。
「叡智の騎士は意地悪なの。どきどきしたの」
ローエンは弁明する。
「なにもお嬢ちゃんをやきもきさせる気はない。そのショートカットは選ばれしものしか使えないんだ。最悪、使えないことを前提にしておかないと」
「どういう意味?」
「そのショートカットを使えるのは怪力無双の聖者のみ、という伝承がある。最後に使用したものは、数百年前に遡る。お嬢ちゃんは怪力無双だが、その扉を開け放てるかは賭けだ」
「大丈夫なの。ぜったい、開けるの!」
と言い放つ、フィル。
その自信をみなぎらせたまま、件の大扉の前までくるが、フィルはそのまま扉に手を添える。
「ふぬぬー!」
と扉を押し開く。
フィルが押した扉は、まるで巨人の出入り口のような大扉。
今にもサイクロプスが出てきそうな雰囲気を持っていた。
だが、フィルの力は無双にして最強。
どのような扉も苦ではない。
そう思ったが、それは過大評価だったのだろうか。
フィルは手加減なし、垣根なしのフルパワーで挑んだが、大扉はぴくりともしなかった。
「……な、なんで」
絶望するフィル。
ローエンやセリカもその表情が曇る。
無為無策ではいられないセリカは扉を調べる。
そこには古代魔法言語でこう書かれていた。
「紅に染まる聖者、
彼はその身命を賭して扉を開ける。
その命と引き換えに友を救う」
その不吉な言葉をセリカはフィルに伝えられなかった。
もしも伝えれば、死ぬまで、全身の血管が切れるまで扉を押し続けるだろう。
フィルはそういう女の子なのだ。
そう思ったセリカは、ここは正攻法で行きましょう、と地下二階へ続く道を指さすが、それはできなかった。
なぜならば大扉の間に、邪悪な気配が満ちていたのである。
見ればいつの間にか叡智の騎士は剣を抜いていた。
フィルも振り返ると、その邪悪を睨み付けていた。
そこにいたのは真っ赤なカーバンクルであった。
彼は齧歯類特有の歯を見せ、にやりと笑っていた。
それを見てセリカは悟る。
「どうやらこのカーバンクルには知性があるようです。もしかしたら、先日の植物はただの化身で、本体はこいつかもしれません」
その推測が正解であると教えてくれたのは、悪魔そのものだった。
赤いカーバンクルは人語を発する。
「そこのお嬢ちゃんはなかなかに賢いようだ」
「お褒め頂きありがとうございます。怠惰の悪魔さん」
「オレのことも十分調べているようだな」
「大賢者ふたりからうかがっていますわ。悪魔がフィル様の命を付け狙っていると」
「ならば話は早い。お前たちは見逃してやるから、そこの娘を置いていけ」
「それは無理な相談ですね」
「ならばお前たちもろとも血祭りに上げるだけだ」
赤いカーバンクルが結ぶと、セリカの《氷槍》の魔法が放たれる。
セリカが密かに詠唱していた魔法によって、空気中の水分が氷結すると、氷の槍となり、相手を突き刺す――、はずであったが、氷の槍はカーバンクルの目の前で砕け散る。
魔法の障壁が現れたのだ。
やはり見た目でははかれない強大な魔力を持っているようだが、それは想定済みだった。
アイスランスが砕け、あたりに散った瞬間、すでに叡智の騎士は行動に移っていた。
彼は剣を抜き放つと、カーバンクルに斬撃を加える。
赤いカーバンクルは強大な魔力を持っているが、魔法攻撃と物理攻撃を同時に防げるほど器用ではなかったようだ。
叡智の騎士ローエンの剣は深々と突き刺さる。
致命傷である。
小柄な獣であるカーバンクルに剣が突き刺されば、即死するに決まっていた。
――だが、目の前の悪魔は普通の獣ではなかった。
巨大な植物は彼の化身であったが、小柄なカーバンクルも彼の化身のひとつに過ぎなかった。
血みどろになったカーバンクルの身体から、もくもくと煙が上がると、それが凝固し、実体となる。
カーバンクルだった生き物は、やっと悪魔らしい体つきになる。
ぶよぶよの身体に、蛇が巻き付いている。牙もあれば角もある。
魔法辞典に載っている悪魔そのものの姿をしていた。
「これが怠惰の悪魔……」
セリカがそうつぶやくと、フィルは一歩前に出る。
彼女は神妙な面持ちで言った。
「これからが本番だよ」
と。
たしかに目の前にいる悪魔は強そうであった。
しかし、負けるつもりはない。この悪魔を打ち倒し、第十階層にある解毒薬を手に入れ、シャロンを救う。
それがこの場にいるものすべての宿願であった。




