アーリマンにデメキンをもらう
フィルが学院に行くと、学院は静かだった。
当然である。
すでに一時限目の授業が始まっており、皆、勉強に勤しんでいる。
フィルは実は今まで遅刻をしたことがない。
遅刻間際までご飯を食べていたことはあるが、その場合は《跳躍》の魔法を使って、校舎の窓に直接ジャンプしていた。
初めてそれをやったときは、窓を破壊し、怒られたので、二回目以降は学友が窓を開けてくれるようになった。
「あら、今日もフィルさんが遅刻ギリギリですね」
「ならば窓を開けておきましょう」
そんな具合である。
今日も窓から飛び込んでも良かったのだが、どうせすでに遅刻だし、さすがに授業中に飛び込めば担任のミス・オクモニックも怒るだろう。
なので二時限目が始まるまで、ゆっくりと学院を散策する。
セリカはすでに自分の教室に向かってしまったので、ひとりで散策だ。
フィルの通っている王立学院の敷地は広い。
貴族の屋敷が10個は建つであろうか。
馬場もあるし、闘技場もあるし、その規模はちょっとした街ほどある。
山育ちのフィルとしてはなにからなにまで珍しかった。
「山には馬場も闘技場もないしなあ」
そもそも建物は爺ちゃんの工房しかなかった。
この学院はなにもかも珍しく、いつまで見ていても飽きない。
ただ、今日、フィルが見たかったのは、学院の敷地にある池だった。
前々から目を付けていたのだ。
その池は蓮などが浮かんでいる小粋な池で、ここには金魚や鯉がいると学友から聞いていた。
金魚と言えば最近、フィルが飼いだしたペットが金魚である。
真っ赤なリュウキンで、なかなかに可愛らしいが、金魚鉢に一匹だとさすがに可哀想だな、と最近、思うようになっていた。
なのでできれば彼、あるいは彼女に友達を見繕ってあげよう、というのがフィルの趣旨であった。
二時限目までの短い時間にその友達候補を見繕ってあげよう、というのがフィルの意図するところである。
「本当に金魚さん、いるかなあ~」
と池にやってきたフィルは覗き込む。
池の水の透明度はそれなりにあり、中の生物が見える。
「おお、いるいる。白いのに赤いの、黒いのもいる」
目が飛び出たやつもいる。いわゆるデメキンというやつである。
本来、この国には金魚なる生き物はいない。
金魚は東方の生き物で、外来種なのだ。
その外来種がなぜ、この池にいるかというと、それは学院長の趣味であった。
彼は東方から輸入した金魚をこの池で繁殖させているのだ。
「……ということは勝手に取ったらアリマーンに怒られるのかな?」
と首をひねるフィル。
アリマーンとは、この学院の長で、爺ちゃんの友達。
大賢者の称号を持つ老人である。
フィルが頭を悩ませていると、そのアリマーンが話しかけてきた。
彼の第一声は、
「アリマーンではない。アーリマンじゃ」
だった。
「お、アーリマンだ。いいところにきた。ねえねえ、ここの金魚を一匹もらってもいい?」
「いいぞい。ただし、いい子にしていればな」
「おお、アーリマンは話が分かる」
と、さっそく池に飛び込もうとするが、それはとめられる。
「……だからいい子にしていれば、といったじゃろ。淑女は池に飛び込まないし、授業をサボったりしないぞ」
「そうだった。んとね、ちゃんと二時限目からは出るよ。今日はたまたま遅刻したから、二時限目まで暇を潰しているの」
「なるほどの。ま、お前さんは毎日、ちゃんと授業に出ているという報告がある。たまには遅刻も善かろう」
とアーリマンは、善きかな、善きかな、と白髭を撫でる。
「うん、ボクは淑女になるの。だから授業はサボらないの」
「それも良い心がけだ。じゃあ、あとで金魚を届けさせよう。何色がいい?」
「黒くて目がでかいのがいい!」
「デメキンじゃな、分かった」
とアーリマンはまとめたが、彼は唐突に話を変える。
「ところでフィルよ、お前さん、最近、悪魔に付きまとわれているようじゃが、大丈夫かの?」
「おお、なんでアリマーンはそのことを知っているの?」
「アーリマンじゃ。まあ、お前さんのことは目に掛けている。親友の孫娘じゃからな。要は心配なのじゃ」
「大丈夫、テレジアに取り憑いたのは倒したし、大きな木みたいなのも倒した」
「大きな木? それは初耳じゃ」
「爺ちゃんの工房に行ったら、襲いかかってきたの。すぐ倒したけど」
「大きな植物というと『怠惰の悪魔』の化身かの」
「そんなこと言ってた」
「当たりか。しかし、怠惰の悪魔とは厄介なのに目を付けられたの。やる気はないやつだが、その分、しぶとい悪魔じゃ」
「でも、もう倒したよ」
「それは化身だけじゃろ。やつの本体はまだ生きている。また、襲いかかってくるぞ」
「むう、それは困るの。面倒なの」
「まあ、そうじゃろうて。だが、安心するがよい。悪魔は国の大事、この国の悪魔討伐専門騎士団に相談しよう。護衛を呼んでもらう」
「それは助かるの」
「まあ、親友の孫娘だからな。最大限の便宜は図る」
とアーリマンは断言すると、続ける。
「――それで、戦った巨大植物を倒したそうだが、そのとき、誰か傷を――」
と言いかけた言葉が止まる。
なぜならば一時限目の授業が終る鐘が鳴り響いたからだ。
ここでフィルを呼びとめれば二時限目も遅刻するだろう。
それは教育者として、学院長としてはできない行為であった。
なのでアーリマンはそのままフィルを解放すると、手を振った。
「約束のデメキンは、放課後、秘書に届けさせる」
と結んだ。
フィルは満面の笑みで、
「アーリマンありがとー!」
と手を振って校舎に向かった。
すると木陰に隠れていたアーリマンの秘書がやってくる。
魔女のようなとんがり帽子をかぶった秘書は、アーリマンに尋ねる。
「アーリマン様、なにか大事なことを言いかけたようですが」
「いや、たいしたことではない。怠惰の悪魔は『猛毒』を使う悪魔だ、と言いたかっただけだ。幸いなことにあの子には手傷はない。侯爵家のお嬢ちゃんにもな。どちらも元気そうだ」
アーリマンはすでにセリカの身体にも傷がないことを確認済みだった。
しかし、アーリマンは忘れていた。
先日の冒険にメイド服姿の少女が参加していたことを。
アーリマンは知らない。
彼女が『赤いカーバンクル』の牙に傷つけられてしまったことを。
そのことがもうじき、大問題となるのだが、このときはまだ、嵐の前の静けさを保っていた。




