山の仲間との別れ
見た目だけは淑女になったフィルを見ると、叡智の騎士ローエンは驚く。
馬子にも衣装、という失礼な言葉を発したが、フィルは気にした様子もない。その言葉の意味はおろか、馬さえみたことがないと推察できる。
ただ、ローエンはフィルの美しさに感嘆したようで、しばらく見惚れるとセリカにささやく。
「今まで半信半疑でしたが、これはたしかに王の御落胤かもしれませんな。気品が滲み出るような容姿だ」
セリカにも同意を求めるが、それには同意だった。
もっとも見た目だけであるが。
彼女はばたばだと大賢者の寝室を動き回る。
「爺ちゃんどこー?」
ゴミ箱の中を覗く。
「おーい、爺ちゃん?」
ベッドの下を覗く。頬を床につけ。
「どこだってばー!?」
部屋中を探しまくる。
最終的にはまた魔法で本の挿絵になっているな、と部屋の中の本を捲り始める。
普段、どのような隠れんぼをしていたのか、さすがは大賢者とその孫というところだが、残念ながらこの部屋に大賢者はいない。
たぶん、もうこの世界にはいない。
叡智の騎士ローエンの表情でそれを察したセリカは、彼女を悲しませないため、笑顔を浮かべながら言う。
「フィル様、大賢者ザンドルフ様は遠くに旅立ちました」
「え? もう行っちゃったの? さっきまで家にいたのに」
「ええ、急ぎの旅だったようです」
「そんな、せっかく、ワイバーンを捕まえて肝を抜いてきたのに」
と、小袋を差し出す。小袋はうねっていた。まだ肝は動いているようである。
ひい、っと思ってしまうが、焦ることなく、用意していた言葉を話す。
「……大賢者ザンドルフ様は数ヶ月、旅に出ると申していたではないですか」
「たしかに言ってたけどさあ。でも、病気なのに大丈夫かな」
「大丈夫ですよ。旅に出られるくらいなのですから」
「そうだよね。まあ、肝は無駄になっちゃったけど」
食べる? とセリカに差し出すが、セリカは丁重に断る。
仕方ないのでフィルは小袋を冷蔵庫に入れてくる。セリカは黙って見守ると、帰ってきた彼女に伝える。
「これからフィル様もこの館を旅立ち、王都に向かって貰いますが、用意はよろしいでしょうか?」
「王都? 用意?」
「王都とはこの国の都。そこで王立学院という学校に入ってもらいフィル様には淑女になる修業をしてもらいます」
「おうりつがくいん? がっこう? しゅくじょ?」
すべて聞き慣れない言葉だったのだろう。彼女は混乱の極地にいた。
分かりやすく説明する。
「大賢者様のご命令により、王都という場所で勉強してもらいます」
「勉強は知ってる。爺ちゃんといつもしてた」
「では一緒にきて頂けますか?」
「もちろん、爺ちゃんが行けっていうなら、どこまでも! それにボク、外の世界に行きたかったんだ」
「今までこの山を下りたことがないんでしたっけ?」
「うん、そだよ。人間も見たことがない」
「ならば街へ行けば人間をたくさん見られますわ。良い人間も悪い人間も」
「爺ちゃんも言ってた。でも、悪い人間のほうが多いんだよね?」
「その通りです。でも、その代わり良い人間に出会えたときの喜びはひとしおです」
「うひひ、早く色んな人に会いたいな。ところでセリカはいい人?」
「フィル様の善き友人でありたいと常に思っていますわ」
「じゃあ、いい人だ。じゃあ、ローエンは?」
と騎士ローエンを指さす。
「彼はこの国の英雄です。騎士の指標となる人物」
「よくわからないけど、いい人ってこと?」
「そうですね」
叡智の騎士はわずかに口元を緩める。
「良かった。じゃあ、もっといい人に会うため、そのオウトってとこに行こう!」
「分かりましたわ。それでは旅立ちますが、なにか持って行くものはありますか?」
「なにが必要?」
「取りあえず下着でしょうか。いえ、旅の途中で買い求めればいいかも。……それではなにか身の回りの大切なものを……」
と言いかけて止める。
フィルがこの部屋にある本棚を持ち上げたからだ。怪力である。
本棚は無理なので、もっと小さいもの、必須品、あるいは大切なものをと指定する。
「大切なものねえ」
うーん、と悩む少女。
そう言えばフィルには大切なものがない。
大切な者ならば爺ちゃんと真っ先に答えるが、物には執着がないフィルだった。
一応、身の回りのものと言われたので、歯ブラシと爺ちゃんから貰った護符を持ってくる。あとは読みかけの魔法書とかくらいかな。
それらを持ってくると、セリカは、
「エクセレント」
と言った。
「旅なのですから、それくらいにとどめるべきです。もしも必要なものができたら、あとから人を使い、持ってこさせましょう」
と言った。
よく分からないが、爺ちゃんはセリカを姉のように信頼しろ、と言っていた。細々としたことは彼女に任せるべきだろう。
そう思ったフィルは旅に出ることにした。
セリカとローエンが館を出るとその後ろについて行く。
スカートという履き物は動きにくくて仕方ない。
セリカに裾を破っていい? と尋ねるが、彼女は駄目です、という。
「ただでさえフィル様の足は速いのです。スカートになれるためにもゆっくり歩いてください」
というが歩きにくくて仕方ない。
しょうがないのでジャンプで移動するが、セリカは、
「アウトー!」
と胸から笛を取り出すと、ピッピーと鳴らす。
「いいですか、フィル様。これからフィル様は淑女として生まれ変わるのです。スカートが見えるように飛び上がっては駄目です」
すると逆立ちするフィル。
「逆立ちも駄目です」
すると兎跳びをするフィル。
「兎跳びも駄目です」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「普通に歩いてください。大股はだめです」
「ええ、面倒くさいよお」
「歩くのは面倒なのです。大丈夫、王都へ着けば、馬車でドア・トゥ・ドアの生活ですから」
「馬車? どあとぅどあ?」
まずは馬車の説明からか。溜息を漏らすが、それよりも先に馬から説明が必要かもしれない。
そう思ったセリカはこの世界には馬という生き物がいて、人間がその背にまたがったり、馬車を引かせて移動していることを説明する。
山にいる生き物なら鹿に似ている、と伝えると、姿は想像できたようだ。
背に乗るとこは熊のハチに似てるね、と笑顔を漏らす。
この娘は普段、熊にまたがり遊んでいるらしい。
なんでも体長3メートルの大熊を相撲で倒して子分にしたらしい。
まさか冗談だろう、と思ったが、山を降りる途中、その大熊がやってきてセリカは腰を抜かした。
騎士ローエンが剣を抜こうとするが、フィルは気にした様子もなく、前に出た。
熊はフィルとの別れを惜しむかのように手を振っていた。
フィルは大声をあげ、手を振りながら、それに応える。
「ハチーー!! 元気でねー! ハチミツ食べ過ぎたら駄目だよー!」
フィルは熊が見えなくなるまで、手を振っていた。
まったく、とんでもない野生児であったが、山の動物たちには好かれているようだ。
フィルがいると熊に襲われる心配はなさそうであった。