寝坊したの!
お風呂から上がると就寝、というわけにはいかないのが女の子の辛いところ。
女の子の髪は基本的に長く、繊細である。
男の子ならば、バスタオルで頭を拭いてそのまま眠ることもできるが、女の子にそれはできない。
もっともフィルが山にいたころはバスタオルさえ使わず、自然乾燥に頼っていたが。
しかしそれでは美しい髪の状態を保てぬと、セリカと出会って以来、フィルは髪を乾かす癖を付けていた。
フィルたちはバスタオル一枚で全面鏡の前に立つと、風魔法を唱える。
そよ風が両者を包む。
濡れたままだと髪が傷むらしいので、徹底的に乾かせたあとにブラッシング。
フィルはセリカに背中を見せると、髪をすいてもらう。
ブラッシングが終わると、次はセリカがフィルに背中を見せてブラッシング。
互いに長く美しい髪をしているから、手入れが終わると両者の髪はまるで宝石のように輝き出す。
セリカが太陽の宝玉ならば、フィルは月の雫だろうか。
甲乙付けがたい美しさであるが、ふたりの小さな女神を鑑賞できる観客はいない。
もしも宮廷吟遊詩人がこの場にいれば、彼女たちを題材に美しい歌を作るだろうが、今宵はこれ以上、なにも起こらず夜が更けていく。
ふたりはそのままそうっとフィルの部屋に戻ると、そのまま眠りについた。
フィルの体力は無尽蔵と言ったが、疲れを知らないわけではない。
竜の山までの里帰り、そこでの仲間との再会、橋掛作業、巨大植物との戦闘、そのすべてで魔力をしこたま使った。
常人ならばすでに床に就き伏して寝ているところである。
だからだろうか、フィルはベッドに入るとすぐに寝息を立てた。
「……フィル様は本当に疲れているようだ」
とセリカは彼女の労をねぎらう。
いつもならばベッドに入れば、数分はどうでもいい話をする。
カミラ夫人のタマネギヘアーの中には、飴玉が入っているんだよ、とか。
担任のフラウ・フォン・オクモニックが10回目のお見合いに失敗した、とか。
戦士科で、ドワーフが作ったハンドスピナーが流行った、とか。
今日はそのような無駄な話は一切なく、眠ってしまったので、残念であるが、それほどフィルも疲れたと言うことだろう。
それはセリカも同じ。
いつもは眠りが訪れるのが遅いセリカも今日ばかりはフィルばりに眠りにつけそうであった。
ベッドに入った瞬間、睡魔が襲ってくる。
セリカもすぐに寝息を立てると、ふたりの少女はまるで魔女に毒林檎を食べさせられたかのように眠った。
朝までぐっすり眠る。夜中、一回も目覚めることなく眠った。
いや、朝になっても眠り続け、起きたのは時計の針が8時を超えていた。
それを見たフィルは驚く。
「いつもならばセリカが起こしてくれるのに」
もしくは食堂に現れないフィルを心配し、寮生かシャロン辺りが起こしに来てくれるのが相場であった。
なのでフィルは思いっきりそれらに頼る気でいたのだが、まさかこんな時間まで寝ているなんて。
フィルは慌ててセリカを揺り起こす。
「ち、遅刻だよ、セリカ」
その言葉をきいたセリカは、眠い目をこすりながら時間を確認する。
最初は「まあ」と驚いたが、ここで慌てないのは貴きものの特徴かも知れない。
「もうすでに学校は始まっています。ここで慌てて準備をし、はしたなく登校するならば、じっくり準備をしたほうがいい」
と、のんきなことを言っている。
この辺は大貴族の令嬢であり、単位を落とす心配のない人間の発言であった。
フィルは珍しく自主的に急いで身支度を始める。
髪をとかし、制服に着替える。
通常、フィルのようなずぼらな女でも用意に10分は掛かるものだが、5分で支度を終えると、のんきに窓から小鳥を眺めているセリカの準備を手伝い、8時15分には家を出た。
お腹がぎゅるぎゅるなる。
学院の始業時間は午前八時、寮の朝食は7時半までに取らなければ間に合わないのですでに朝食は片づけられているはずだ。
このままではなにも食べずに授業となるかもしれない。
それが恐ろしかったが、セリカが一応、食堂に向かおう、と提案する。
「もしかしたらあまりものがあるかもしれません」
「そだね、シャロン辺りがサンドウィッチを作ってくれているかもしれないの」
それならば起こしにきてくれればいいのに、とは思わなくもないが、シャロンのはシャロンのやるべきことがあるのだろう。そう思って食堂に行くと、そこには誰もいなかった。
「……おかしいな。この時間ならばシャロンがいるのに……」
と食堂の中を覗くと、いつものおばちゃんがいた。
彼女は深刻そうな顔をしていた。
なにかあったようだ。
尋ねてみる。
「おばちゃん、どうしたの?」
「あら、フィルちゃん、今朝は見かけないと思ったら」
「寝坊しちゃったの」
「相変わらずだねえ」
と、おばちゃんは微笑むはずであったが、今日の彼女は笑みを漏らさなかった。深刻な顔をしている。
「なにがあったの?」
「それがねえ。今日は人手不足で大変だったんだ。たったの4人で寮生の食事を用意してね。それがあと数日続くかと思うと、億劫でね」
「誰かが病気なの?」
「そうなんだ。シャロンが倒れたらしくてね」
「え! シャロンが!」
驚くふたり。
慌てて彼女の見舞いに行こうとするが、おばちゃんがそれを制する。
「大丈夫、ただの風邪だから。シャロンも迷惑になるからあんたたちに知らせないでくれって、言ってたんだ。ま、言っちゃったけど」
申し訳なさそうに言う食堂のおばちゃん。
フィルはそれでもシャロンを見舞おうとするが、それをとめる人物がいた。
それは意外な人物だった。
メイド服を身にまとった少女はたしかな足取りでやってくると、こう言い放った。
「あらあら、フィルさんにセリカさん、こんな時間に珍しい。学院はどうしたのですか」
「あ! シャロン!」
と驚くフィル。
「病気で寝ていたんじゃないの?」
「ええ、少しだけ。でも、大丈夫です。きっと疲れただけです。数日、休めば快復しますよ」
「ならば休んでいないと」
「そうですね。でも、なんか虫の知らせでフィルさんのお腹の虫の音が聞こえたもので」
とシャロンはそのまま厨房の奥に入り、あまりものの食材でサンドウィッチを作ってくれた。
「さあ、これを召し上がれ。ですが、二時限目には間に合うように登校してくださいね」
と笑顔のシャロン。
顔は赤みがかっていたが、それ以外は体調の悪さを感じさせなかった。
きっと彼女も疲れが出たのだろう。
そう思ったフィルは素直にサンドウィッチを受け取ると、むしゃむしゃ食べた。
セリカは、はむはむとお上品に食べる。
ふたりは同時に、
「ごちそうさまでした」
と平らげると、シャロンはお粗末様でした、とふたりを見送る。
フィルたちは小走りに寮を出ると、それぞれの教室へ向かった。
シャロンはその姿を寮の前まで見送る。
その光景はいつもの日常であった。
――ただし、それも永遠には続かない。
誰もいなくなると、シャロンは片膝をつく。
大事なメイド服のスカートを汚してしまう。
「……はあはあ、思ったよりも熱があるのかしら。今日は寝ていないと……」
そう漏らすシャロンであったが、先ほどまで赤かった顔が、真っ青になっていることに気が付く。
手鏡に映る自分は病人そのものであった。
昔、実家に住んでいたとき、隣人の老女が掛かった「黒死病」を想起させた。
一瞬、わたしも死ぬのか、と弱気になったのは、病人特有の気弱からきたものだろう。
風邪にかかったとき、誰しもが孤独を味わい、弱気になるのと似ている。
シャロンはそんな自嘲をしながら、自室に戻ると、ネグリジェに着替えた。
シャロンのネグリジェ姿はなかなかに可愛らしい。
私服もメイド服と豪語する彼女が、メイド服以外に袖を通すのは就寝のときだけだった。
しばらくメイド服を着られないかもしれない。
早く元気になってメイド服をまた着たい、そう思いながら、私室で眠りにつくシャロンであった。




