工房の主
大賢者ザンドルフの工房にある書斎。
そこで物音を聞いたセリカはその部屋の中に入る。
最初はネズミでも潜んでいるのかと思ったが、そこにいたのは齧歯類の類いではなく、この館の主であった。
「ザンドルフ様!?」
思わず彼の名前を口にしてしまうが、ザンドルフは己の唇に指を添え「しいっ!」というジェスチャーをする。
彼は白髭と白髪を揺らしながら言う。
「侯爵家の娘よ、あまり驚かないでくれ」
驚かないでくれ、と、いわれても難しい。
まさかこのような場所で、すでに死んだと思っていた大賢者と出くわすとは夢にも思っていなかったのだ。
たしかに大賢者ザンドルフは、『霊体』となって孫娘であるフィルを見守るとは言っていたが、実際、彼が霊体となって孫娘を見守っているところを見たことはない。
なので身体がぼやけたお化けのような魔法使いが、いきなり現れると驚きを禁じ得ない。
それでもセリカは、大声を出すようなヘマはせず、大賢者の指示通り沈黙する。
たしかにこの場にフィルがやってきたらまずい。
彼女は目の前にいる賢者が大好きなのだ。
霊体となった姿を見たら、ショックを受けるだろうし、なによりもホームシックが重篤になるような気がした。
セリカは小声で尋ねる。
「……ザンドルフ様、まさか本当に霊体になっているとは」
「言っただろう。侯爵家の娘、ワシは霊体となって孫娘を見守ると」
「ええ、ですが、王都ではお見かけしなかったもので」
「王都でもしっかり見守っていたよ。ワシはあの子が王都でそれなりに上手くやっているのも知っているし、王都で嫉妬の悪魔を倒したことも知っている」
「まあ、そこまで」
セリカは口を押さえて驚く。
「侯爵家の娘がすべて上手くやってくれていることも。禽獣のように礼儀を知らなかった我が孫が、今では小さな淑女じゃ」
「それは言い過ぎでは」
「たしかに」
と微笑むザンドルフ。
彼は気難しい賢者として知られたが、ことが孫娘になると頬が緩む好々爺でしかない。
フィルという少女はどのような人物にも好感を抱かせるなにかを持っていた。
「ところでザンドルフ様、こんなところでなにをされているのですか?」
「こんなところとは失礼じゃな。ここは我が工房ぞ」
「そうでした。ここに住まわれているので?」
「フィルの影を常に見守っている」
とザンドルフは所在を明らかにしなかったが、それでもフィルの側に常にいるらしい。
「もっとも、霊体とて好き勝手に移動したり、なんでもできるわけではない。今のワシは無力。なにも手助けできないが」
ザンドルフは自嘲しながら言うが、こうも漏らす。
「もっともフィルは最強の孫娘。ワシの力が必要になる事態は少ないが」
「そんなことはありません。まだまだ、大賢者の導きは必要です」
「たしかに導きは必要かもな。『力』は不要であろうが」
「はい。その通りです。ですが、その『知恵』はまだまだ必要なはず。今回もなにか知恵を授けてくださるためにここにやってきたのでは?」
セリカの問いにザンドルフは驚く。
「勘の鋭い侯爵家の娘じゃ」
「大賢者様は今まで一切わたくしの前にも姿を現しませんでした。そのあなた様が現れたのです。なにか裏があるのではと思いまして」
「うむ、たしかに侯爵家の娘に用があってきた」
「どのようなご用件でしょうか?」
「それはな、この山に不穏な雰囲気が漂っていることを伝えにきた」
「この山にですか? たしかにフィル様もなにかを感じていたようですが」
「あの子は勘が鋭いからな。この山の異変に感づいておるのだろう」
「してどのような異変が?」
セリカが尋ねると、大賢者は答えてくれた。
「この山は竜の山と呼ばれているが、実は竜よりも恐ろしいものが潜んでいる」
「竜よりも恐ろしいもの?」
ごくり、と生唾を飲むセリカ。
「ああ、そうじゃ。太古の昔からこの世界に存在する悪魔。七つの大罪を背負いし魔物がここにはおる」
「それはかつて勇者様や大賢者であるあなたが封印したという?」
「そうじゃ」
「先日、フィル様に襲いかかってきた悪魔の一派でしょうか」
「うむ、あれも七つの大罪の悪魔の一匹。ただし、あの悪魔は仮の復活。その力を十全に発揮していなかった」
「今回の悪魔は完全復活したものでしょうか?」
「いや、幸いとまだ完全復活は遂げていない。しかし、それも時間の問題かもしれない」
「そもそも悪魔はなぜ、フィル様を狙うのでしょうか」
「悪魔が完全に復活するには、貴きものの血がいる。王家に連なりしものの血がな。王家のものの警備は厳重。一方、王家の血を色濃く受け継ぎながら無防備なものもいる」
「それがフィル様……」
「あるいはフィルがこの世界に救いをもたらす女王になる宿命に感づいているのかもしれん。フィルが王位を継ぐ前に始末しようとしているのかもな。その辺はワシも今、調査中じゃ」
なるほど、と相づちを打つと、セリカは口にした。
「そのような悪魔がいるのであれば、すぐにここを退去しなければ」
セリカは部屋を出て行こうとするが、それを制するザンドルフ。
「いや、その逆じゃ。ここに滞在して、悪魔を討ち果たしてくれ」
セリカはその言葉に耳を疑う。
この大賢者は孫娘が可愛くないのだろうか、そう尋ね返してしまいそうになるが、賢者にも言い分はあるようだ。
「悪魔の復活はもう阻止できない。ならば完全に復活する前に叩く。それが兵法」
「……たしかにそれはそうですが」
「それにおそらく、悪魔は学院にこもっていてもやってくる。ならばこちらから打って出たほうがいい。学院での戦闘になれば学院生に被害が出よう」
彼ら彼女らが傷つけば、孫娘は悲しもう。
ザンドルフは結ぶ。
たしかにその通りだった。もしも悪魔との戦いが避けられないのであれば、ここで勝負を付けたほうがいいのかもしれない。
少なくともこの山ならば周囲の被害は最小限に抑えられる。
そう思った瞬間、遠くから地響きが聞こえた。
ザンドルフの眉がつり上がり、セリカに緊張が走る。
「どうやら、どのみち、戦闘は避けられないようです。幸いとこちらには最強の騎士と、魔術師の見習いのわたくしもいる。それにフィル様の無双の力ならば負けはしません」
その言葉を聞いたザンドルフは、頼もしげに侯爵家の令嬢を見つめた。




