懐かしの我が家
フィルは自宅に帰るとまず家中の窓を開けた。
かび臭かったからである。
ここは変わりものの賢者の工房、元からかび臭いことこの上なかったが、人が住まなくなり、家を閉め切ると、それに拍車が掛かる。
窓を開け放つと、フィルは目一杯、窓の外から深呼吸しながら、外気を取り込む。
次に自分の部屋、それに客間に行くと、そこに閉まってある布団とシーツを窓辺にやる。
こうすれば多少はほこりっぽさがとれるかと思ったのだ。
幸いとまだ夕日が残っており、古くさい布団はそれを吸収する。
布団干しはメイドのシャロンも手伝ってくれた。
あとでベッドメイクもしてくれるらしいが、この工房にあるベッドは三個だけ。
フィルの部屋と客間と、爺ちゃんの寝室。
必然的に誰かが一緒に寝ることになるが、セリカとフィルが同じベッドで眠ることになった。
「わたしでもいいのですが」
とシャロンは言うが、セリカは微笑みながら、
「フィルさんの寝相の悪さに耐えられますか?」
と冗談を言った。
耐えられそうにない、と、シャロンは冗談を返すと、そのまま家の掃除を始める。
なんでも汚れている家を見ると掃除をしたくなるのがメイドの習性らしい。
難儀であるが、この際、プロのメイドさんが手入れしてくれるのはありがたいことであった。
「爺ちゃんが帰ってきたら怒るから、書斎だけは掃除しないで」
と付け加える。
シャロンはメイド服をまくし上げると、「うけたまわり♪」と掃除を始める。
セリカも手伝おうとしたが、侯爵令嬢の出る幕ではない、と押しとどめられる。
侯爵令嬢だからと掃除が下手だと決めつけられるのは納得いかなかったが、たしかにセリカは掃除をしたことがない。
こういうのは専門家に任せるべき、というローエンの言葉もあり、素直に居間でお茶をすする。
フィルも一通り家を見回ると戻ってきた。
彼女もお茶をすする。
「ふい~、久々の我が家は落ち着くの」
「お帰り、と山の動物も家も迎え入れてくれましたね」
「うん、あとは爺ちゃんだけだけど、爺ちゃんはあと数ヶ月は帰ってこないだろうし、我慢するの」
「偉いですね、フィル様は。もうお姉さんですね」
「うん、ボクはお姉さん」
と小さな胸を突き出し、えっへん。
その姿は可愛らしい。
「ところでフィルさん、山のお友達はお元気でしたが、この山に入った瞬間、違和感を覚えた、と言っていませんでしたか?」
「セリカは記憶がいいの。言った」
「なにか変わったところがあったのでしょうか?」
「うーん、なんかね、この山、静かすぎると思って」
「静かすぎる?」
「うん、いつもはワイバーンや竜がギャーギャーうるさいの。麓はもちろん、この周辺にもいないし」
「なるほど、たしかに一度も襲撃を受けませんでした」
セリカは叡智の騎士ローエンを見る。
「この山の異名は『竜の山』です。戦闘にならないのはともかく、一匹も見ないのはたしかに奇妙です」
ローエンが思いのほか神妙な表情をしたので、セリカは気になった。
セリカはさりげなく立ち上がると、お茶をおかわりする振りをして、ローエンに尋ねる。
「……ローエン、申し訳ないですが、この周辺を散策してきてくれませんか」
ローエンは即答する。
「……御意」
ローエンの行動は早い。どうやら彼も不穏な空気を感じているようだ。
フィルには野生の勘があるが、ローエンには長年培った戦場での経験があるようだ。
この山になにか異変があると確信しているようだ。
「セリカ様、フィル嬢は無敵のお姫様ですが、それでも万が一はある。この工房周辺から動かないようにお願いします」
「分かりました。この工房は大賢者の結界で守られている。ここならば安心でしょう」
セリカはそう言い切ると、シャロンの元へ向かった。
彼女にもこの工房を動かないように伝えた。
彼女は厨房でジャガイモの皮を剥きながら、「かしこまり♪」と微笑んだ。
あとはフィルにも伝えるべきだが、それはあとでいいか。
いつものフィルならばすぐに首に縄を繋げなければいけないが、今は故郷に帰ってきたばかり、早々飛び出したりはしないだろう。
それに万が一、飛び出したとしてもフィルの場合は、できあがった食事に風魔法でも掛ければすぐに帰ってくる。
山を登り疲労した彼女の食欲は無限大である。
わずかでも匂いを感じ取れば、すぐに戻ってくること請け合いだった。
そんなことを考えながら、廊下に出て、居間に戻ろうとするが、フィルが掃除をしないで、と懇願していた書斎から物音がした。
ネズミかしら?
あり得る話である。この工房は長期間、無人だった。ネズミが巣を作っていてもおかしくない。
そう思ったセリカは山猫でも使い魔にして一掃しようかしら、と書斎の扉を開ける。
扉が開け放たれると、そこにいたのは意外な人物だった。




