山の異変
フィルの住んでいた山は地元の人たちから竜の山と呼ばれていたようだ。
『いたようだ』ということからも分かるとおり、本人たちはそんな呼称で呼んでいない。
「それではなんと呼んでいたのですか?」
とセリカが尋ねてくる。
「単純に『山』って呼んでた」
「そのまんまですね。ザンドルフの山と呼んでいるかと思いました」
「ううん、山は誰のものでもないの」
「でも、フィル様のお爺さまはあの山の支配者。山の頂に工房を建て、住んでいたではありませんか」
「爺ちゃんはよく言っていた。フィル、この山はこの世界が誕生したときから存在した。それを誰かのものだと言い張るのは愚かなことだ、と」
祖父の口調をまねるフィル。
まったくもって正論なのでぐうの音も出ない。
「それにね、山は借りものなの」
「借りもの? 贈りものではないのですか? 自然や先祖からの」
「ううん、違うよ。借りもの。贈りものだとぞんざいに扱っちゃうでしょう。だから借りものなの。ボクたちはあの山を先祖から借りてるの。だから大切に、綺麗に使うの。だって借りてるものだから。返すときは綺麗にね。ボクたちの子孫にちゃんと返すの。だから山の恵みを取り過ぎない。山の食べものを狩りすぎない。それが山の掟なの」
「なるほど、ためになります」
セリカは素直に感服する。
貴族として領地を所有し、ときには強欲に富を得る血筋に生まれたものとしては耳の痛い言葉だが、フィルの言葉には一利も二利もあった。
「たしかにこの山は豊かです。フィルさんが食欲を十二分に発揮しても、満たせるくらい」
それでもフィルたちは絶対、必要以上に狩りをしなかったらしい。
必要以上に木の実もキノコも採らなかったようである。
道中、たわわに実る木々、丸々と肥えたシカやイノシシをたくさん見かけた。
あるいはこの森を守ってきたのは、大賢者ザンドルフとその孫娘その人なのかもしれない。
この竜の山は、名目上、セレスティア王国のものになってはいるが、誰の領地でもない。王の直轄地ということになっているが、代官も徴税官もいない。
王国の治外法権であった。
この山は貴族のポケットにはでかすぎるのかもしれない。
そんな感想を抱きながら、セリカは山を登った。
竜の山は案の定、険しかった。
元々、竜が住み着くくらいの秘境ということもあるが、人が住んでいないので道が整備されていない。
日頃から足腰を鍛えているセリカやローエンはともかく、メイドのシャロンはさっそく音を上げた。
「これ以上歩けない」
道中、声高に叫び、その場に座り込む。
この場においていけば竜の餌食になるのは目に見えていた。
なのでセリカは軽くフィルに目配せする。
そのメイドを運んでください、とお願いする。
フィルは仕方ないなあ、と言いつつ、シャロンのことを背負う。
シャロンは申し訳なさそうに言う。
「……うう、すみません。わたしがひ弱なばかりに」
「いつもお茶を入れてくれたり、お菓子をくれるからね。気にしないの」
とフィルは返すが、実際、シャロン程度なら十人くらい抱っこしても平気だ。
この山道は歩きなれていたし、故郷の匂いに包まれると嬉しさ二倍で力も二倍だ。
持て余し気味の力を発散するにはちょうど良い重しかもしれない。
そう言うと、メイドのシャロンは、
「わたしはそんなに重くないですよ!」
と抗議する。
その言葉でシャロン以外の全員が笑う。
フィルも笑おうと口を開いたが、できなかった。
うなじがぞわっとしたからだ。
なにか、違和感を感じた。
シャロンの重さにではなく、この山自体に違和感を感じたのだ。
なにか違う。
なにかいつもとは違う。
そんな気がした。
「…………」
神妙な顔をしていたからだろうか、シャロンが申し訳なさそうに尋ねてくる。
「……あ、あの、重かったら、本当にいいですよ。自分で歩きますから」
あまりに真剣な問いだったので、フィルは逆に現実に戻される。
慌てて首を振る。
「ううん、そうじゃないの。ただ、いつもと山の雰囲気が違うような気がしたから……」
言葉を返したのはセリカだった。
「山がいつもと違う? 私は一度しか訪れたことがありませんが、前回から違和感を覚えません」
ローエンはどうですか? とセリカは続ける。
初老の騎士も首を横に振る。
「俺は三度目だが、特に違和感はない」
「ですよね」
「だが、フィルのお嬢ちゃんはこの山で何年も暮らした。何年も暮らしたものにしか分からないなにかがあるのかもしれない」
「そうですね。ですが、心配のしすぎかと。フィル様は都会暮らしに慣れたのでしょう。だから懐かしの故郷に必要以上に戸惑っているのかと」
「だといいのだが……」
老騎士はそうまとめたが、一行は一応、注意しながら山に登った。
セリカはフィルを心配げに見るが、たしかにフィルは少し怯えていた。
それにたしかに言われてみれば変なところもある。
前回、訪問したときはこれでもか、というくらい竜に襲われた。
ワイバーンにスカイドラゴン、帰り道は竜ではないが、ロック鳥にも出くわした。
だが、今回は今のところ竜らしい竜に出くわしていない。
竜の山の異名にふさわしいモンスターと遭遇していないのだ。
叡智の騎士ローエンを連れてきたのに、とんだ肩すかしであるが、もしかしてこれはなにかの予兆なのだろうか。
セリカは考えを巡らせたが、首を横に振る。
不吉な考えを抱くのは良くない、と思ったからだ。
今回の旅の目的はフィルの心の癒やし。
ホームシックを癒やす旅なのだ。
あまり深刻な表情をするのはよくないだろう。
そう思ったセリカは「ぱんぱん」と手を叩くと、休憩にすることにした。
「皆さん、この辺で休憩にしましょうか。たしか、前回きたとき、綺麗な沢がありました。そこで水をくみ、シャロンさんに紅茶をいれていただきましょう」
その言葉を聞いたフィルは表情をぱあっと輝かせる。
「お菓子もあるの!?」
その問いに満面の笑みで答える。
「もちろん、ありますよ。わたくしはマドレーヌを焼いてきました。シャロンさんはクッキーを焼いてきましたよ」
「どおりでどっちからもいい匂いがすると思ったの!」
フィルは破顔すると、うきうきを全身で表現しながら、木の切り株に腰を掛けた。
ちょこんと座り、お行儀良く待っている。
セリカたちはフィルのお行儀の良さに答えるため、切り株のひとつにテーブルクロスを掛け、その上にお菓子を広げる。
セリカのマドレーヌにはたっぷりの蜂蜜が、シャロンのクッキーにはレーズンとチョコチップが入っていた。
フィルの大好物であるが、それら高カロリーのお菓子は、長旅を続けてきたフィル以外の人物にもご馳走に見えた。
セリカも珍しく、「ぎゅるる」と小さくだが、おなかを鳴らしてしまった。
それを聞いたフィルは、にこりと微笑み、クッキーを半分に割り、セリカに「はい!」と渡してくれた。
セリカはそれを遠慮なくいただく。
シャロンの焼いたクッキーはとても旨かった。
今度焼き方を聞こう。そんな感想を浮かべながら、彼女が紅茶を入れるのを待った。
彼女が注いでくれた紅茶は、クッキーにもマドレーヌにも合う最高の紅茶だった。




