大賢者の遺言
フィルを王立学院に入学させることになったセリカと大賢者ザンドルフ。
ふたりはまず、フィルに重大なことを伝えねばならない。
最初にやっておかねばならないことがあるとセリカが気がついたのだ。セリカは大賢者に相談すると、それはそうじゃな、と納得の言葉をもらった。
なのでさっそく、彼から話してもらう。
ザンドルフは孫を呼びつけるとこう言った。
「……フィルよ、実はお前は女なんじゃ」
その言葉を聞いたフィルは、最初、「まじですか!」という顔をしたが、三秒ほどで納得すると、
「そっか、ボクは女だったのか。ところで女ってなに?」
と笑顔で言った。
まずは性差から説明すべきであったが、ザンドルフは難儀していたので、彼には彼にしかできないことを託す。
それは孫娘との別れだった。
ザンドルフはもうじき死ぬ、と自分で言っていたが、それは真実であろう。
大賢者に残っている魔力の残滓はとても弱々しく、今にも消え去りそうだった。
今でもなお生きているのは、孫娘の将来を気にしているからだった。早く楽になってもらいたいと思った。
それはザンドルフも承知しているのだろう。
孫娘に今生の別れを告げる。
「フィルよ、ワシは今からちょっとあの世というところに逝ってくる」
「あの世? そこは遠いの?」
「まあまあ、じゃな。数ヶ月は帰ってこられない」
「まじか! でも、数ヶ月なら我慢できる。数ヶ月ってお月様が何回か欠ければいいんだよね?」
「そうじゃな。何回かでいい。その間、お前も暇だろうし、下界に行って勉強をしてこい」
「下界って山の麓? 人間の村のこと?」
「これからお前が行くところは街じゃな。村よりも大きい」
「分かった。そこで勉強しながら、爺ちゃんの帰りを待つ」
とフィルは素直に祖父の言葉に従う。
「いい子じゃ。さて、ワシは出掛ける支度をするから、お前も準備をなさい。そうだな。あの娘、セリカを姉のように慕い、いうことを聞くのじゃ」
「分かった。姉って同じ親から生まれた分身のことだよね?」
「そうだ」
「じゃあ、今日からセリカねえちゃんだね」
と微笑むフィル。あまりにあどけない笑顔だったのでセリカは胸が痛む。
しかし、このままこの場所にいたのでは、フィルも悲しむことになるかもしれない。そう思ったセリカはフィルに自室を案内してもらうことにした。
快く引き受けてくれるフィルであったが、賢者は最後にフィルを呼ぶと、頭を撫でながら言った。
「お前はワシの可愛い孫娘。大賢者ザンドルフの最高傑作じゃ。きっとお前のその芯の強さが。自分を、周囲の人間を、最後にはこの世界を救うことじゃろう」
その言葉を聞いたフィルは理解できなかったようだが、「うん!」と元気に微笑むとセリカと部屋を出た。
その姿を目を細め、見守る賢者。なにも遣り残したことはない。
そんな表情だった。
ふたりの少女がいなくなると、ザンドルフは残った騎士に声を掛ける。
「というわけじゃ。孫娘に死ぬところは見られたくないからこんな手段に出た。孫も学院で常識を学べば、いつかワシが帰らぬことに気がつこう」
「そのときはきっと滝のような涙を流しますな」
「今知ればそれは海のようになる。泣くな、とは言わないが、ワシは湿っぽいのが苦手でな」
「分かります。可愛い孫が泣くところは誰も見たくない」
「ぬしにもおるのか」
「先日、娘が産みました。初孫です」
「それは可愛かろう。無論、ワシの孫には及ばないが」
「でしょうな」
と相づちするローエン。孫は人それぞれに可愛いのだ。この老人にとってフィルが最高の孫であるのと同時に、ローエンにとっては自分の孫が一番可愛い。そこに上下はないし、甲乙も存在しない。それが愛情というものだろう。
「しかし、ワシはこれから死ぬが、こう見えてもワシは魔術師、肉体は消え去っても魂までは滅びない。霊体となって孫娘を見守ろう」
「レイスというやつですな」
「その通り、リッチとどちらになろうか迷ったが、こう見えてもワシは正義の魔術師、リッチになるには悪行が足りなかった」
「かつて世界を救った大賢者ですからね。相当の悪事を働かないとリッチにはなれないでしょう」
かつてこの老人は勇者と共に地下迷宮にもぐり、復活した魔王を討伐した実績がある。そのとき大賢者の称号を得、世界中から宮廷魔術師長として仕官を求められたそうだが、それを断り、山で隠遁していた。
最初の数十年はひとり、研究に明け暮れていたそうだが、十数年前にひとりの赤子を拾い、それを育て始めた。
その赤子が実は王家の人間で、今、彼女の血統が必要になっている、というのは運命の面白さであった。
この老人はきっと世界を何度も救う宿命のもとに生まれたのだろう。
今後、霊体になっても孫娘を、世界を見守って欲しかった。
「というわけで、ワシはこれから消えるが、死体が消えても気にするな。レイスとなって孫を見守るだけ。それと叡智の騎士ローエンよ。どうか孫娘を頼む。あの子に常識を教えてほしい。人が幸せになる常識をじゃ。あの子は偏屈で孤独なワシを幸せにしてくれた。きっと、世界中の人間を幸せにできる才能があるのじゃろう。どうか導いてやってくれ」
叡智の騎士ローエンは、心の中で剣を握りしめると、一言だけ言った。
「この命に代えましても」
その言葉を聞いて満足したのだろうか、大賢者ザンドルフは目をつむると、その数分後に息をするのをやめた。生命活動を停止した。
その後、大賢者の言った通り、死体は薄くなり、消え去る。
霊体になる準備を始めたのだろう。
これは別れではなく、新たな旅立ちなのかもしれない。
ローエンはかつて世界を救った英雄に深く敬意を捧げると、その孫娘を幸せにする決意を新たに固めた。