腕相撲は引き分け! でも――
白百合館。
セレスティア侯爵家の舞踏会会場は緊張に包まれる。
侯爵家の誇りと、ボールドウィン伯ランスロートとの面子を賭けた試合が行われているからだ。
ランスロートとフィルの腕相撲。
老人であるランスロート、少女であるフィル。
どちらも荒事には向いておらず、腕相撲などできそうにないかと思われたが、ランスロートの身体は無骨な武人そのもの。相手の腕をへし折りそうであった。
一方、フィルにも不思議な貫禄があり、一方的に負けそうにはない。
海上に居並ぶ観客たちは、双方、固唾を飲んで見守る。
両者、想像以上にやるぞ。そう思っているようだ。
そのようなものたちの勝負は、セリカの合図とともに始まった。
「……レディ、ゴー!!」
そのかけ声とともに両者、腕に力がみなぎる。
分かりやすいのはやはりランスロートか。
もともと筋肉の鎧のような身体がさらに膨れ上がる。
まるで凶戦士のような体つきになっていた。
これではひとたまりもない。
会場の人間は皆、そう思ったが、フィルもなかなかのものだった。
筋肉こそないが、その身体にオーラがまとう。
魔力が放出されている。
「……ほう、天然魔力強化体質か」
「なにそれ?」
とはフィル。
「自分の身体のことも知らないのか。筋繊維に魔力回路がある身体だ。デフォルトで強化魔法を使用しているようなものだ」
「へえ、そうなんだ。あ、もしかしてこれってずる?」
「まさか。魔力も己の力。ましてや天然体質のものにいちゃもんなど付けん」
「良かった。色々と」
「どういう意味だ?」
「だってこれで負けたときの言い訳ができるでしょ。おじいさん」
と、おじいさんと言うと同時に力を込めるフィル。
ランスロートの腕は大きく傾く。
「――なるほど、大言壮語を吐くだけはある。しかし、ワシとて武人、負けるわけにはいかない」
と押し戻すランスロート。
それは予期していなかったので、フィルは驚く。
熊にも負けたことがないフィル。まさか押し戻してくるとは思わなかったのだ。
試合はそのまま長時間に及ぶ。
実力が拮抗しすぎて勝負が付かないのだ。
それに互いに負けず嫌い。
双方、押し込められそうになると、血管を浮き上がらせて押し戻す。
それらの繰り返しだった。
このままでは一晩掛かってしまうかもしれない。
いや、一晩で終るのか?
試合はチェスの千日手のような様相になってきた。
――ただ、フィルはここで終らせることもできる、と思っていた。
真のフルパワーを発揮すれば、このまま相手を負かせる自信があった。
しかし、それができないのだ。
この老人を見たとき、感じの悪いおじいさんだと思った。
令嬢たちに酷いことを言い、テレジアを傷つけた悪人だと思った。
だが、この老人の手を握った瞬間、そのような先入観は消し飛んだ。第一印象が霧散した。
(なんなんだろう。このおじいさんから伝わってくる温かい気持ち。……ううん、熱い気持ち)
フィルは常識のない無知な少女。
しかし、だからこそ他人の感情には敏感なところがあった。
邪知暴虐な人間を見破る特技があるのだ。
(でもこのおじいさんからはそんな感じは一切ない)
この腕相撲に勝つことはできる。しかし、真のフルパワーを使ってまで勝っていいのだろうか。迷う。もしもフルパワーを使えばこのおじいさんを傷つけてしまうかもと思うと逡巡してしまうのだ。
「…………」
フィルは瞑想するかのように思索にふけったが、答えは出た。
腕に力を込めると勝負に出たのだ。
ランスロートもその瞬間、勝負に出た。
互いの力が最高まで高まると同時に、
バキバキッ!
という音が鳴った。
老人の腕の骨が折れた――、音ではない。折れたのは腕相撲に使っていたテーブルだった。
大理石が張られたテーブルであったが、足の部分は木だった。
まず足が折れ、その後、大理石が真っ二つになった。
つまり、腕相撲の決着はつかなかったのである。
周囲の人間は驚嘆の声を上げたが、ランスロートはつまらなそうに言った。
「……引き分けか。まったく、酔いが覚めたわ」
そう言うとランスロートは椅子から立ち上がる。
その後、会場の人間を見回すと言った。
「この勝負は引き分けた。結局、ワシの眼鏡にかなうおなごはいなかったが、それでもこのフィルという少女に免じて、今日の非礼は詫びよう。楽しい宴を邪魔して申し訳なかった」
会場の人々は驚く。
かつて10万の大軍を前にしても臆することがなかった将軍が頭を下げたのである。
ランスロートは芸を披露した令嬢にも謝る。
「厳しいことを言ったが、皆、なかなかのものであった。精進すればさらにその道を究められるだろう。偏屈な老人の言葉など気にせず、長所を伸ばしてくれ」
その言葉に令嬢たちが救われたかは知らないが、テレジアなどは溜飲を下げたようだ。
その後、ランスロートは主催者のセリカに退出を告げると、威風堂々としたていで会場を去った。
老人がいなくなった会場は、ぽっかりと大穴が開いたかのように空虚になっていた。
時間も時間である。
セリカは舞踏会の終了を宣言すると、参加者たちに今日の騒動を詫びて回った。
一方、フィルは令嬢たちに囲まれ、賛美の声をたまわる。
「フィル様、すごいです!」
「あのボールドウィン伯に謝らせるなんて有史以来初めてかも」
「フィル様の力はまるで戦女神のよう」
令嬢だけでなく、貴族たちにも一目置かれたようだ。
「我が息子の嫁に。凜々しく腕相撲をする様が気に入った」
「いや、それ以前にダンスも素晴らしかった」
「あなたは月の女神のような美しさと気高さを持っている。ワシがもっと若ければ……」
など、モテ期を発動していた。
人に好かれるのは悪い気はしないが、フィルは賞賛を受け取るよりもやるべきことがあった。
ぺこりと頭を下げると、その場を辞する。
控え室に戻ると、動きやすい服に着替える。
やるべきとは老人のあとを追うことであった。
腕相撲は中途になってしまったが、フィルは「芸」によって老人に認められたいのだ。
フィルはまだ、芸を披露し終えていない。
再戦を挑むつもりはないが、せめてないかしらの芸を彼に見せ、それを評価して貰いたかった。
そう思ったフィルは白百合館を出るとランスロートのあとを追った。