大賢者との面会
大賢者ザンドルフの館。
いや、工房といったほうが適切かもしれない。その見た目は小領主の館に似ていたが、中に入ると玄関から本棚がびっしりと並んでいた。
ザンドルフが伏せっているという場所におもむくまで、本棚と研究器具を入れる棚しかない。
床は節々が痛んでおり、ぎしぎしという音が聞こえた。
フィルがふいに言う。
「そこ腐ってるから、おじさんの体重だと抜けるよ」
叡智の騎士ローエンはぎょっとするとその場所を避ける。
セリカもそれにならうが、避けたほうも軋んでいた。
立派な館であるが、あまり手入れされていないようである。
(わたくしが住むわけではないからどうでもいいのだけど、問題はこの子……)
セリカたちを助けてくれた少女。
大賢者ザンドルフの孫娘フィル。
年若きこの子が、老人とふたり、このような廃屋まがいの家に住む、というのはどういう気持ちなのだろうか。
この山に入って分かったが、この山は自然豊かではあるが、厳しい環境にある。
ゴブリン、オークはもちろん、ワイバーンにスカイドラゴンまで住んでいる。
子供が住むには過酷な環境であるし、周囲には村ひとつない。
この子はこの歳まで、大賢者以外の人間とは会わずに暮らしてきたようだ。
セリカたちを初めて会った外部の人間と認識していた。
もしもこの子がセリカの探し求める人物ならば、都会に連れて行き教育せねばならない。このような野生児を教育できるのだろうか。
今から心配になってしまうが、落ち込んだり、考え込む時間はなかった。
さして広くもない館の奥に到着する。
そこは大賢者の寝室らしかった。
そこで大賢者は病に伏せているという。
その情報はすでに得ていたし、孫であるフィルからも聞かされていた。
ただ、どの程度の容態かは分からない。最後に話をできればいいのだけど。
そんなことを思いながら、セリカはノックする。
それを不思議そうに見つめるフィル。
どうやら彼女はノックを知らないようだ。教える。
「ノックというのはね、ドアを叩いて入っていいですか? と尋ねる行為なの」
「どうしてそんなことするの?」
「なにか取り込み中かもしれないし、プライバシーもあるから」
「プライバシー……?」
指をくわえ、それは美味しいのだろうか、的な顔をしている。
「まあ、淑女のたしなみです。フィルも真似をしてみて」
わかった! と元気に答えるフィル。
トントン!
と軽く二回、拳でドアを叩くと、ドアはボキッという音とともに破壊される。どうやらフィルの力があまりにもすさまじかったようだ。
「おお! ぶっ壊れた。これがノック」
「違います! ノックはもっと穏やかです! まったく、なんて馬鹿力なんですか!!」
見ればドアは凹み、ちょうつがいの部分も壊れていた。これは修理に時間が掛かる。
あとでローエンに直して貰うとして、まずは大賢者に挨拶をせねば、と思っていると、向こうから声を掛けてきた。
「……騒がしいな、まったく、フィルはいつもうるさい」
「あ、じいちゃんだ。起きてた。爺ちゃん、セリカにノックを教えてもらった」
「古今、ドアを破壊するのはノックとはいわない」
「そうか、ごめん。じゃあ、もう一回やり直す?」
「そんな暇はない。入ってこい」
と言われたフィルは遠慮なく部屋に入ると、「爺ちゃん!」と声を上げ、毛布に顔を埋めている。大賢者ザンドルフは僅かに口元を緩め、孫の頭を撫でていた。
フィルは喉を撫でられた猫のようにとろんとしていた。
麗しい祖父と孫の日常風景であったが、それも永遠には続かない。
ザンドルフは謹厳実直な表情を作ると、セリカたちを見つめた。
「……貴殿たちは?」
と窪んだ目で尋ねてくる。
セリカたちは並んで礼をすると、名乗りを上げた。
「わたくしはケインズ・フォン・セレスティア侯爵が一子、セリカと申します。このものは家来の叡智の騎士――」
「その男は知っている。侯爵の家で何度か会った」
「お久しぶりでございます。ザンドルフ様。息災なようでなによりです……、と言えないのが口惜しいです」
「ふむ、そうか、ワシの病はすでに王国中に知れ渡っているか」
「いえ、それはまだです。知っているのは我ら侯爵家のものだけ。それもごく一部です」
「なるほどな。ケインズめ。耳ざとい男じゃ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「解釈は好きにせい。我が病を知ってなお尋ねてくるということは、お前たちの目的はフィルじゃな?」
「左様でございます」
と答えたのはセリカだった。以後、ケインズの名代としてセリカが話す。
「わたくしたちは、王統を受け継ぐ血族を探し、この山深い地までやって参りました」
「我が孫を政争に巻き込むつもりか?」
ぎろり、と睨む老人。枯れ木のような老人であったが、その胆力の底は知れない。石化効果がありそうな鋭い睨みだった。しかし、セリカは動じない。
「……そのような意図は私どもにはありませんが、結果、フィル様を巻き込んでしまう可能性はあります」
「正直な娘じゃな」
「大賢者相手に虚言や駆け引きは無用かと」
「ならばこっちも単刀直入に真実だけを語ろうか。ワシはもうじき死ぬ」
「爺ちゃん!」
と叫ぶフィル。
ザンドルフは諭すように孫に語りかける。
「フィルよ、このことは何度も伝えているだろう。ワシに残された時間は少ないと」
「でも、爺ちゃんは大賢者。きっと永遠に生きる」
「この世界に永遠などありはせん。誰しにも最後はある」
「……でも、じいちゃんが死んだら悲しい」
「ワシは悲しくないぞ。この糞みたいな世の中とようやくおさらばできる」
大賢者は努めて笑顔を作ろうとしたが、失敗したようだ。大賢者は魔法が得意でも笑顔は苦手なようだった。
「しかし、この世界にひとり、お前を残して逝くのが気がかりである。せめてお前が大人になるまでは踏ん張っていたかったのだが、どうやらそれもここまでのようだ」
「死んじゃいやだ」
「死にはせん。少しの間、消えるだけじゃ。魂は永遠に不滅だからな」
「爺ちゃん……」
「そんな顔をするな。お前には笑顔しか似合わない」
大賢者はそう言い切ると、セリカに向かって語りかけてくる。
「というわけだ。魔術を極めたつもりだが、ワシは人としては未熟。お前さんもみてきただろう。この子の破天荒ぶりを」
はい、と言えばいいのだろうか。迷っていると、大賢者は苦笑した。
「その様子じゃ、とんでもない非常識ぶりを見たようじゃな。ならば分かるだろう。この子はワシがいなくなったらとても困る。滅茶苦茶困るはずじゃ」
「……そうでしょうね」
「なにしろ常識というものがない。ドラゴンを素手で殺すが、フォークとナイフの使い方も知らない。男と女の違いもよく分かっていない」
「それは知ってるよ! パンパンすると顔を赤らめるのがオンナ!」
そんな違いで雌雄を判別していたのか、と思わなくもないが、突っ込みは入れない。大賢者の言葉を待つ。
「……と、このような娘じゃ。ワシが消え去る前にこの子に常識というやつを教えてほしい。それにはこの子を王立学院に入れてやるのが一番だと思う。そのための紹介状を書いてくれないか?」
大賢者は黙々と頭を下げる。その姿に威厳はなく、ただ可愛い孫娘を心配するひとりの老人がそこにいた。
彼の人としての温かさに心打たれた、わけでない。いや、もちろん、心は動かされたが、セリカは元々、大賢者の孫を王立学院に入れるため、この地にやってきたのだ。
深々と頭を下げながら、こう言った。
「フィル様の未来と教育について、委細すべてお任せください。わたくしは彼女を最高の淑女に育て上げ、自身も、そしてこの国も幸せにする女性に育ててみせます」
その言葉を聞いた老人は破顔すると、
「孫娘のこと、どうかお頼みしましたぞ」
と言った。
こうして、ドラゴンを素手で倒す常識しらずの娘が、お嬢様を目指すための教育を受けることになる。