大賢者と学院長
フィルの悪魔討伐。
テレジアとの和解を陰から見守る人物がいる。
彼の名は、大賢者ザンドルフ。
かつてこの世界を窮地から救った英雄。
フィルという天真爛漫な少女を拾い、育て上げた心優しい男。
すでに天命を使い果たし、この世界から旅立った老人。
彼は数週間前に死んでしまったが、愛する孫娘を見守るため、霊体となり、彼女の成長を陰日向なく見守っていた。
フィルは気がついていないようだが、旅立ちのときも、ロック鳥を倒したときも、入学試験のときも、エルフの森に行ったときも、ザンドルフは常に彼女のことを見守っていた。
孫の成長を片時も見逃さなかった。
それは祖父の使命であると同時に、祖父の特権でもあるのだ。
可愛い孫の成長を見守ることは、ザンドルフにとってこの世界の行く末を見守ることよりも大切なことであった。
しかし、常に孫娘の傍らで控えていたが、彼女のなんと常識知らずのことよ。
我が孫ながら驚いてしまう。
「ちと教育が偏りすぎていたか」
ザンドルフは孫娘の身を守るために武術と魔術を教え込んだ。
武術の腕前は素手でドラゴンを倒せるほど。
魔術の腕前はこの国でも屈指と呼ばれるほどの実力になったが、人間社会で暮らす知識のほうは与えることができなかった。
まったく、男所帯、それも賢者の家はこれだからいけない、と軽く自己嫌悪を覚える。
しかし、落胆している大賢者に声をかける人物がいた。
友人の賢者である。
彼はザンドルフの古き友人。かつて一緒に戦ったこともある仲間だ。
ザンドルフのように白髪を伸ばしているが、綺麗に整えられていた。
また気難しい顔をしている。
実際、彼の反骨精神、へそ曲がり具合はザンドルフとどっこいというところだった。
魔術師としての実力もほぼ拮抗している。
彼の名はアーリマン。
この学院の長。
王立学院の学院長を務める男だった。
彼は立派な白髭と顎髭の間から言葉を発する。
「たしかにお前の孫娘は常識がなさ過ぎるな。ただ、それは彼女のせいではない。彼女を育てた祖父のせいだ」
「……分かっている。だから後悔している」
「後悔? なにを言っている。彼女は常識がないだけで、その心根は誰よりも美しい。むしろ、誇るべきだ」
「…………」
ザンドルフはくぼんだ瞳を彼に向ける。
「彼女は今、命がけで級友を守った。あれほど彼女のことを憎んでいた級友と和解までした。ザンドルフよ、最強の魔術とはなにか知っているか?」
「隕石落としかね」
「違う。最高の魔術とは自分を殺しにきた相手と友達になることだ」
「……なるほど、たしかに最強の魔術だな」
「それだけではない。あの子は気難しいカミラ夫人さえも手なずけてしまう。エルフの森に行ったとき、彼女はせっかく手に入れた秘薬を見ず知らずの子に与えてしまった。誰でもできることではない」
本当に心の優しい娘だけができる所業だ、と続ける。
「そういった意味ではあの子はすでに常識がある。人を幸せにする常識だ。人を愛することができる常識。人に愛される常識。それらは山で育ち、大賢者に育てられたからこそ得ることができたのかもしれない」
「だといいのだが」
「もしも彼女が王宮で育っていたら、テレジアのような娘になっていた可能性もある」
その言葉を聞いたザンドルフはアーリマンを見つめる。
「おぬし、あの子の出生の秘密を知っているのか」
「大賢者は世界にお前だけではない」
間接的に自分の情報網を誇示するアーリマン。
「安心せい。我はあの子を政争に巻き込んだりはしない。利用しようとも思わない。ただ、一介の生徒として扱う」
ザンドルフは沈黙によって答える。
大賢者アーリマンの言葉に二言がないことを知っていたからだ。
「それでは孫娘のことをよろしく頼む」
「よろしく頼まれよう。世間一般の常識、それに礼節も教え込む」
ただ、とアーリマンは続ける。
「特別扱いはしないが、彼女のことを親友の孫娘だとは思っている。だから気がかりがある。お前は孫娘に声を掛けないのか? 霊体の身体は安定してきたのだろう?」
「すでにこの身体は完全に定着し、ワシはレイスとなった。だが、レイスとて永遠には生きられない。それに身体を持たぬものが生きたものに近づきすぎるのは、古今、あまりよいことではない」
「たしかにそうだが、一度くらい会ってやったらどうだ」
「いいや、やめよう」
ザンドルフはゆっくりとかぶりを振る。
「あの子はこの学院にやってきて日も浅い。今、ワシの顔を見れば急に里心がわくだろう。山に帰りたいと泣くかもしれない。それはできない」
「世界最高の賢者も孫娘が泣くところだけは見たくない、というわけか」
「その通りだ」
「そう言われるとあまのじゃくの我は是非とも再会させたいが、それを止める手立てがひとつだけある」
「なんじゃ」
「おぬし、工房に234年ものの貴腐ワインを隠し持っているだろう。あれが飲みたい」
「よかろう。今、使い魔に持ってこさせる」
「ほお、あれを容易に渡すとは、本当に孫の泣き顔を見たくないのだな」
アーリマンは茶化すが、ザンドルフは知るか、と、うそぶく。
「霊体になった今、ワインなどどうでもいいだけじゃ」
「何を言っている。霊体になっても飲んでもらうぞ。今、ちょうど、フェニックスの砂肝が手に入ったところじゃ。秘書官に焼かせている。一緒にそれを肴に飲もう」
アーリマンは気軽に誘う。
ふたりは旧知の仲、かつて一緒に迷宮に潜り、悪魔と対峙したこともある。
そのとき、野営地で一緒に酒を酌み交わしたことも。
以来、ふたりはなにかにつけて一緒に酒を交わすが、死んだあとも一緒に飲むことになるとは、出会ったときは想像もしなかったものだ。
ましてやこうして一緒にひとりの少女の未来を心配し、その将来について考えるだなんて夢にも思っていなかった。
ザンドルフは霊体となったが、霊体となったがゆえにこの世に干渉できない。
今後もアーリマンに頼ることが多くなるだろう。
昔、とある本で読んだことがある。
自分の死後、子供たちを安心して託すことができる友人を作れ。
さすればお前の人生は幸せになる。
そんなことを説いた賢者が古代魔法文明時代にいた。
その話を聞いたときは鼻で笑ったものであるが、今、こうして年を重ねるとそのような友人の大切さが身にしみた。
そのような友人を持つことができた自分が幸運であったことに気がつく。
願わくは、その友人と酒を酌み交わしながら、孫娘について話をしたかった。
ザンドルフは使い魔にワインの運搬を急がせると、アーリマンとふたり、学院長室へ向かった。




