カミラ夫人
はからずもテレジアとの決闘に圧勝してしまったフィル。
テレジアはしばらく入院することになった。それにだいぶ改心したとも伝え聞く。
もはやフィルに喧嘩を売るようなこともないだろう。
これで安心して学院生活を過ごせるかと思ったが、そうは問屋が卸さない。
一難去ってまた一難、トラブルが訪れる。
放課後、フィルは礼節科の責任者に呼び出される。
王立学院は学院長を頂点にいくつかの学科に別れている。その学科の長を学科長と呼ぶ。
当然、礼節科にも学科長はいるわけで、フィルの噂は耳に入っているようだ。
フィルの罪状を列挙する手紙が届く。
まずは入学初日にドアを壊してしまったこと。
それについては引き戸を押し戸と勘違いしてしまったのだから無実である。
放課後、廊下を走ったこと。
これも誤解である。フィルは歩くのが速く、小走りになると他者には走っているように見えるだけ。
放課後、噴水前の樹の上に魔法で飛び乗ったこと。
これは樹の上に猫さんが上り降りられなくなったのを救っただけ。
他にも授業中にテレジアをKOしたことが問題視されていたが、要約するとこうなる。
フィルは規律規範を重んじる礼節科に相応しくない生徒。
手紙を要約するとそんなことが書かれていた。
特に問題なのは、フィルの一人称だった。
フィルは自分のことを「ボク」と呼ぶ。
この世界ではボクは男の子の一人称で問題大ありとのことだった。
学科長みずからお説教をし、まずは一人称から淑女に相応しいものにする、ということで、フィルは放課後、学科長室へ行かなければならなった。
そのことを友人のシエラに伝える。新聞部の部員のシエラだ。
シエラは「ご愁傷さま」と両手を合わせた。
「学科長のあだ名を知っている?」
「知らない」
「彼女のあだ名は真銀の処女」
「ミスリルってあの魔法金属の?」
「そう、ミスリルのように堅い処女ってこと」
「処女ってなに?」
「相変わらず無知だねえ。かわいいから知らなくていいよ」
「分かった」
「ちなみに真銀の処女は鉄の処女を引っ掛けたもの。処刑道具の鉄の処女ね。いわゆるアイアン・メイデンってやつ。要はそれくらい融通が利かないオールド・ミスってわけ」
「オールド・ミスってなに?」
「いい歳こいて嫁にも行かず、年下のか弱き女性を虐める妖怪のことさね」
「なるほど」
「あ、本人に言っちゃ駄目だよ。怒り狂う。それに正確にはオールド・ミスではなく、未亡人だから」
「分かった」
「ともかく、真銀の処女、カミラ夫人は一筋縄でいかないから、覚悟しておくんだね」
「覚悟するって」
「たぶん、君はもう二度とボクと言えない身体になる」
「まじで!?」
「その言葉も封印されるからね。彼女が直接指導した生徒はどんなに素行不良だろうが、数週間後には『ですわ』とか『おほほほ』とか言い出す。大股広げて乗馬していた子も横乗りにお姫様乗りになるし、格闘術が趣味だった子も花を活け始めたり、刺繍を始めたりする。それがカミラ夫人の凄いところ」
「こ、こわい……」
「まあ、どのみち出頭するしかないんだから、がんばるしかないよ」
「わ、分かった」
と席を立ち上がるが、思わずシエラの制服の裾を掴んでしまう。
「テレジアを倒したときの勇敢さが微塵もないね。あたしもついていきたいところは山々なんだけど」
「じゃあ、ついてきて」
氷雨の中震える子犬のような目で見つめる。
「親友の頼みでもそれは無理。なぜならばあたしの発行する王立学院新聞はカミラ夫人に睨まれているから」
ジャーナリズムをまっとうするには、ときには権力者にも媚びないといけない、と涙ながらに力説する。これは助力を頼めそうにない。
こういうときはセリカがいれば心強いのだが、彼女は学科が違う。それに中等部なので時間が合わない。ここは大人しく出頭するしかない。
そう思ったフィルはとぼとぼと教員棟に向かった。
学科長室は教員棟にあるのだ。
校舎を出て歩くこと数分。
着きたくはないが、到着してしまった。一階の受付でカミラ夫人に取り次ぎを頼むと、受付嬢は快く通信機で知らせてくれた。
すぐにきてくれとのことだった。
心の準備もままならないが、怒られるのならば早いほうが心証はいいだろう、と、そのまま三階にある学科長室へ向かった。
礼節科の学科長室は教員室の上にある。
各学科の長がそれぞれ個室を与えられているが、どれも大きさは同じだった。
中に入ると花のいい香りが鼻腔をくすぐる。
花が活けられているようだ。
壁にはこんな標語もあった。
「乙女は一輪の花が如く」
意味は分からないが、たぶん、花のように生きなさいということなのだろう。
さて問題なのはこの標語を書いた人物であるが。
フィルは遠慮がちに部屋の中央に置かれた立派な机と椅子の主を見る。
彼女はノックし、入室を許可したにもかかわらず、フィルのことを見るでもなく、机の上の書類にペンを走らせていた。
しばしその姿を見るが、彼女はこちらを見ずに、
「今、この書類を決裁しています。そこにある椅子に座ってお待ちなさい」
と言った。
指示に従う。
その間、カミラ夫人を観察する。
彼女は機械仕掛けの人形のように黙々と書類に目を通し、サインをしていた。
学科長の仕事なのだろう。
まるで機械で書いたかのような綺麗な字を延々と書いていた。
表情は無表情だ。
たぶん、美人に分類されるのだろうが、愛嬌というものが欠如しているので、人間味がない。タマネギのような髪型、無機質な片眼鏡は個性的なのだが、その表情はどこまでも冷たかった。
シエラが言った通り、とても怖そうな女性だった。
初めてパフパフもパンパンもしたくないと思った。
フィルは緊張の極地で待っていると、ちょうど、五分後、彼女の筆は止まる。
机の端に置いていたベルを鳴らすと、隣室に控えていた秘書がやってきて、書類を持ってどこかに行った。
すると彼女は初めて顔を上げ、フィルを観察する。
爪先から頭頂まで、なめ回すように見られる。
表情に変化はないので、好意を抱いてくれているのか、軽蔑されているのかも分からない。
ただ、感情の乏しい、冷徹な声でこう言われた。
「あなたが問題の野生児。フィルね」
「はい、そうです」
素直に返答する。
「一連の騒ぎは聞き及んでいます。どれも学則には抵触しませんが、それでも淑女にあるまじき行為です」
「ごめんなさい、カミラ夫人。ボクは山で爺ちゃんに育てられたので常識がありません」
「それは聞き及んでいます。だからこの礼節科に入ったのですよね」
「はい」
「ならばあなたを立派な淑女に育てるのは、学院の責務。いえ、わたくしの義務となります」
なにとぞ、お導きください、とでも言えばいいのだろうか、迷っていると彼女は言った。
「明日、いきなり淑女になれとはいいません。徐々に、徐々に街に慣れ、常識を学び、卒院する頃には立派な淑女になっていればいいのです」
カミラ夫人は置かれていたカップに口を付けると、紅茶で喉を潤し、続ける。
「まずは手始めに、その一人称から変えましょうか。手紙にも書きましたが」
「い、一人称ですか……」
思わずのけぞる。
一人称とは自分のことを呼ぶ言葉。
男の子なら僕、俺、など。
女の子ならば私、あたし、など。
だが、フィルは女の子なのにボクという一人称を使うのが問題らしい。
「学院では目立ちません。礼節科以外ではボクという女子もいますから。しかし、学院を卒業し、社交界に足を踏み入れたら目立つでしょう。あの子はいったい、どんな教育を受けてきたのだ、と一晩で噂の的になってしまいます。それはあなたのためになりませんし、学院の沽券にも関わる。ともかく、直してください」
ともかく、と言われれば直すしかなかった。
それにこの場を逃れるにはイエスと答えるしかない。
フィルは子供の頃からボク一筋で通してきたが、ここが年貢の納めどきのようだ。
「明日から淑女に相応しい一人称の練習をします」
と言うと、カミラ夫人は、
「エクセレント」
と微笑んでくれた。
冷たい女性の印象を受けたが、話してみれば穏やかで話しやすい人だった。
フィルが了承するとあっさり解放してくれる。
「それでは数週間後、淑女の卵になっている姿を楽しみにしていますね」
彼女はそう言うと、飴をくれた。
鼈甲色の飴で「あとでこの飴ちゃんを舐めなさい」と小さな包みにくるんでくれた。
帰り道、フィルは寮に戻りながら、自分の一人称をなににするべきか悩んだ。




