かぐや姫の難題
月の姫は失意に沈む。
地球の生命体と違って月に住む彼らは肉体を持たない。
彼らは高密度のエネルギーによって構成されており、必要なエネルギーは太陽光線から得ている。当然、物質である肉体を持たないのでエネルギーを得るための食事も酸素を得るための呼吸も必要としない。
物質によって生まれた肉体に囚われる生物からすれば月の民はまさしく理想郷だろう。
限られたリソースを奪い合う必要はない。
太陽の光という無限に等しいエネルギーは誰にでも平等に与えられるのだから。
欲に苦しむ必要はない。
物質ではなく純然たるエネルギーで構成された彼らは肉体から生じるあらゆる欲望から解放されているのだから。
死や病を恐れる必要はない。
エネルギーそのものである月の民に死や病は存在しないのだから。
とはいえ、月の民にも欲求が全く存在していないという訳でもない。
彼らには知識欲があった。
久遠の時を費やし、地上の人間たちのそれよりも千年ほど先取りした文明を築き上げた。
分業によって新しく生まれた職業という概念。それに伴って身分のようなものも発生した。
身分や用途に合わせて使い分ける建築や服飾。
宇宙から飛来する隕石をも月に落下する前に観測して粉砕することすら可能にする科学力。
だが、それすらもこの数百年で発展は停止した。
彼らの知識欲は自分たちが住む惑星の中だけで完結したのだった。
娯楽も変化もない、全てが停滞した世界。
だが、月の民は誰一人としてこの拷問のような時間の牢獄に疑問を抱かない。
彼らには現状に不満を覚えるという機能はついていない。
月の民は物質によって形成された肉体を持っていない。だからこそ、肉体から生じるあらゆる欲から解放されている。
しかしそれは肉体を持つ生物であれば絶対に存在している本能が欠落しているということであり、自己を保存しようとする自我が生まれつき希薄であるということでもある。
月の民は欲望を持たない。すなわち、欲望から生じる感情もまた持っていないのだ。
だが、月の姫は違った。
彼女は月の民がとうの昔に切り捨てた知識欲から地上を観察していた。
最初は彼女にとって日常の中でありふれた習慣の一つでしかなかった。
だが、地球に住む生物を見ていて疑問を持った。
彼らと自分たちの違いとは。
彼らにあって自分たちにはないものとは。
彼らにはなくて自分たちにはあるものとは。
なぜ彼らには欲望があるのか。
なぜ自分たちには欲望はないのか。
その疑問の積み重ねが感情や欲望の発露となった。そして観察によって知ったそれらが彼女に自我のようなものを与えたのだ。
自我を獲得した瞬間、彼女の世界は一変した。
彼女にとって月の世界は牢獄のようだった。
自我がないゆえに個性がない。
感情がないゆえに愛がない。
悲しみがなければ喜びもない。
彼女はそれらに耐えられなくなった。
たった一人自我を獲得したことによって得た孤独と自分以外の月の民への失望。
そして絶望が深まれば深まるほどに地上への希望は募るばかりであった。
その絶望が彼女の限界を超えたとき、彼女は月から逃亡した。
地上へと降りた彼女はまず近くにあった竹の中で自らの肉体を高密度のエネルギーから物体へと作り変えて、その過程で不要となった余剰エネルギーは無害な光や金へと変えた。
それから親切な老夫婦が彼女を拾った。翁が竹を取れば彼女の持っていた余剰エネルギーから生まれた黄金の入った竹を見つけたのでこの竹から得た財宝で次第に老夫婦は裕福になり、彼女もまた通常の人間よりもずっとはやく育っていった。そして三か月後には大人と変わらないほど大きくなり、より美しくなっていく。
あるとき、竹から取れる金によって有名になった老夫婦は人を呼んで彼女に名前をつけさせた。
彼女の名前は『なよ竹のかぐや姫』となった。
地上の生物とは違った方法で肉体を得た彼女はその美貌もまた他の人々とは一線を画したものであった。
白磁のような傷一つない肌。
宝石のような曇り一つない眼。
磨かれた鏡のような輝く顔。
夜の静謐を閉じ込めたような髪。
わずかな歪みすら存在しない黄金律を体現した肉体美は妬みや嫉みが忍び込む隙すら与えないほど完璧なものであった。
その美貌は同性からの憧憬と異性からの恋情を生み出し、世の中の男は身分の上下を問わず姫との結婚を望んだ。
けれど、姫は決して婚儀を望む者を受け入れようとはしなかった。
彼女は地上に降りたことで、月にいたときよりもずっと大きな歓喜を得ていた。
しかし、同時にその歓喜に匹敵するほどの悲哀がこの地上には数多く存在することを知った。
特に彼女の興味を集めたのは『愛』だった。
肉体を必要としない月の民には肉体から生じる欲望はなく、その欲望から生じる感情もなく、その感情から生じる愛もない。
だが、この地上には肉体がある。
肉体が抱える欲望は必ずしもその全てが有益なものではなかったが、それでも肉体がもたらした欲望によって彼女は満たされていた。
欲があり、心があり、愛がある。
しかし、肉体が時間によって姿を変えるのと同様に、心もまた時間によって変わってしまう。
ならば、愛もまた時間という絶対者の支配から免れることはできないのだろうか。
たとえ愛によって結婚したところで年齢とともに愛は色褪せていく。肉体によって結ばれた愛は不幸しか生まない。
もし愛がずっと変わらなかったとしても死によってやがては引き裂かれる。それはわが身が引き裂かれるよりもずっと苦しいのだろう。
けれど愛がない結婚には苦痛と後悔しか待っていない。
では、唯一不変の愛というものは現実に存在するのだろうか。
それゆえに、彼女は結婚を拒み続けた。
ほとんどの人は諦めて姫のもとから去っていったが、その中でも特に身分が高く色を好む貴公子たちが五人ほど残った。
石作の皇子。
車持の皇子。
右大臣阿部御主人。
大納言大伴御行。
中納言石上麻呂足。
彼らは女を欲する気持ちが強く、世の中に多数いる女性でさえ少しでも美人であるという噂を聞けば自分の女にしたがった。ましてや、この世のものとは思えないほど美しいかぐや姫を欲さない訳がなかった。
しかし、彼女に話しかけようと姫の家の周りにずっといても効果がない。手紙を書いて送ってもせつない恋心を和歌にして詠んでも返事すらもらえない。
貴公子たちは翁に姫との結婚を決めてもらおうと翁に詰め寄るも、翁としても夫婦の間の子ではないので姫に強く言うことはできない。
しかし貴公子たちはそれでも姫との結婚をあきらめきれないので返事が来ないとわかっている手紙を何通も送り、姫の家の近くによく立ち寄る。
翁もまた姫が結婚しないことを気にかけていた。
「私の齢は七十歳を過ぎ去ってしまった。命はいつ消えてしまうかわからない。世の中の人は誰もが結婚するものなのだから、どうしていつまでも結婚しないでいられるだろうか。せっかく身分が高い方々が申し込んでいらっしゃっているのだからその中のどなたか一人と結婚してほしい」
するとかぐや姫はこう返した。
「全ては移ろいゆくもの。人は生まれ、育ち、老い、そして死ぬものです。ましてや私の美貌だけがいつまでもこのままでいられるはずもありません。私との結婚を望む方々はあくまでも私の美貌を求めていらっしゃるのですから、深い愛情もなしに結婚してもいずれ浮気心が出てきてしまうでしょう。ならば、結婚などとてもできません」
「ならばどのような愛情のある人ならば結婚しようと思いますか。あの方々も愛情深いでしょうに」
そこでかぐや姫は貴公子たちに条件を出した。
石作の皇子には、かつて御仏が托鉢に使っていた仏の御石の鉢を。
車持の皇子には、東の海の蓬莱山に生えている、根が銀、茎が金、実が白い珠になっている木の枝を。
阿部御主人には、唐土にある火鼠の皮衣を。
大伴御行には、龍の首にある五色に光る珠を。
石上麻呂足には、燕の持っている子安貝を。
かぐや姫はそれぞれの貴公子たちに到底叶えられそうもない難題を与えた。
それを翁から聞くと貴公子たちはそれならばいっそこのあたりをうろつかないでほしいと言ってほしいと口々に文句を言った。
しかしながら、貴公子たちもすぐに諦めることはしなかった。
石作の皇子は先を見通す能力を持っていたので、この世に二つとない鉢を千里万里探したところで手に入れられる訳がないと考えた。
そこで、姫に「天竺へ石の鉢を取りに出かけます」と伝えて旅に出た。三年ほど後に、山奥の寺にあった古ぼけた鉢を姫の家に持ってきて見せた。鉢の中にあった手紙には『海や山の道に心を尽くして泣き、鉢を手に入れるために血の涙が流れました』と書いてあったが姫は『これが本物であれば草の葉に置く露ほどの光だけでもあるでしょうに。ほの暗いだけのこんなもの、小倉山でなにをお求めになったのでしょう』と言って鉢を突き返した。
すると皇子はわざわざ探してきた鉢を姫の家の門の前に捨てて言った。
「白山のように美しく輝くあなたに出会って、この鉢の光も失せるのかと鉢を捨てました。しかし、恥を捨ててもあなたの御好意を期待しています」
しかし、姫は返事もしなかった。
結局、皇子は未練がましいことを言って帰った。
石作の皇子も御仏の鉢と同じ。
いくら甘い愛の言葉を重ねようとそこに本物の重みはない。
形にとらわれたただの偽物。
それでいて、未練がましく嘘の愛をうそぶく。
みじめで、みっともなくて、みすぼらしい。
老いに屈することなく輝き続けるものこそ本物の愛だというのに。
さて、車持の皇子は策謀に長けた人であった。
朝廷には九州へ湯治に出かけると休暇を申し出て、姫には珠の枝を探しに行くと言った。仕えていた人々はみな船出する皇子をお送りしたが、皇子は人目を避けると言ってお供も大勢は連れずに旅立った。
しかし、三日ほど経って船で戻ってきた。
前もって用意しておいた計画の通り、当時の日本の至宝であった六人の鍛冶職人を誰も入ってこられない家の中に呼び寄せ、皇子もまた同じところにこもった。そして所有していた荘園から得られる収益を散財し、珠の枝を作った。
計算高い皇子は船に乗って帰ってきたようにひどく疲れたふりをしていると、迎えに人々が大勢来た。珠の枝を箱の中にしまいこみ、覆いをかけて姫のもとに持参した。
皇子が帰ってきたということを知った姫は胸が潰れる思いであった。
そうこうしているうちに、車持の皇子が来た。
皇子はどうやってこの宝物を手に入れたのかを語り出す。
「三年前の二月十日頃に海へ出ましたが、どちらに行ったらよいかもわからない思いをしました。ただもう風に任せて日本から離れて航海しておりましたところ、ある時は波が荒れ続けて海底に沈みそうになり、ある時は上陸した知らない国で鬼のような怪物に殺されかけました。ある時には食料が尽きて適当な島に生えていた草の根や海の貝を取って命をつないだり、またある時は言いようもないほど気味の悪いものに食われそうになったりしました。孤独な海の中で助けてくれる人もなく、行く方向さえもわからない日が五百ほど続いた頃、水平線にかすかに山が見えました。その山は大きく、麗しかったのですが、やはり恐ろしくて山の周りを何回もこぎまわりました。すると、天女のように服装をした女が山の中から出てきて銀の器で水をくんでいたではありませんか。そこで私は船から降りてその女に質問したところ、確かにここが蓬莱山だったのです。喜んで上陸しましたがその山の周囲にはこの世のものとは思えない花の木々が経っていました。金や銀、瑠璃色の水が山から流れて色とりどりの宝石でできた橋が渡してあり、照り輝く木々が立っていました。こうして取ってきたのはそこに生えていた木々の中ではあまりよくないものでしたが、条件と違っていてはいけないのでこの枝を折ってきました」
持ってきた珠の枝があまりよくないものであるというところをやけに強調した。おそらく文句をつけられたときに、『それは姫の言葉に従ったものを取ってきたからである』と主張するためであろう。
小賢しい。
姫はそう思ったが、皇子の語りはまだ続く。
「蓬莱山は限りなく興味深いもので、この世に例えられるものではありませんでした。しかし、この枝を折って改めて姫のことが気がかりになったので、四百余日で帰ってきました。昨日都に帰ってきましたので、潮に濡れた衣を脱ぐことさえせずにこちらに参上しました」
しかし皇子が嘘だらけの冒険譚を語っていると六人の男が現れた。そのうちの一人が文を挟んだ枝から紙を取り出して申し上げた。
「五穀を断って千余日にわたって珠の枝作りに尽力したことは並大抵のことではありません。それにもかかわらず、報酬を頂いておりません。できるだけはやくお払いください」
翁は彼らが言っていることがわからずに首をかしげているが、皇子は肝を潰して心ここにあらずという面持ちであった。
彼らから手紙を受け取って見ると、皇子はこの珠の枝をこの工匠やその弟子たちに作らせたという。かぐや姫の要望で作られたのだろうから姫から褒美をもらいたいと彼らが言うので、姫はよろこんで支払った。
翁は素直に皇子の話を信じ込んでしまったので気まずく思われて居眠りのふりをした。一方、皇子は逃げるように立ち去った。
だが、皇子は帰り道に工匠たちを血が出るまで強く殴り、姫が与えた褒章を彼らから奪っていった。そして皇子はこのことを一生の恥としてただ一人で深い山に入った。
それからというものの、役人や皇子に仕えていた人々が手分けして捜したが見つけられなかった。
皇子はとんでもない大嘘吐きだった。
求めているのは、愛。
金銀で作られた珠の枝であれ、やがてその輝きは失われてしまう。それと同じように、今どんなに栄華を誇っていようともいつかその財も尽きる。そして、肉体の美貌もまた永遠のものではない。
結果、皇子はこの世に二度と戻れないほどの恥を背負って姿を消した。
嘘の代償はそれを口から出した本人を破滅に追いやったのだった。
さて、阿部御主人は特に家門が栄えていたのでその財貨で火鼠の皮衣を買い求めた。
だが、いくら探しても日本にも中国にもなかった。しかし中国の商人から火鼠の皮衣の噂を聞いて大枚をはたいてそれを買い求めた。
そうして手に入れた火鼠の皮衣は、青い光に覆われて毛の先は金色であった。獣の皮とは思えないほど美しく、数多くの財宝を持っていた阿部御主人でさえかぐや姫に献上することを躊躇わせた。
しかしそれをかぐや姫は目の前で火の中に入れた。
すると火鼠の皮衣はあっけなく燃えてしまう。
「思った通り。これは他の獣の皮ですね」
阿部御主人は草の葉のように青くなって帰ってしまった。
本物の愛ならばたとえ地獄の業火でその身を焼かれようとも火鼠の皮衣のように燃え尽きることはないだろうに。
また金の力で愛を手に入れようというその考え方がまず間違っている。
この難題において相手に求めているのは財宝を持ち帰ったという結果ではない。その過程にあった財貨でも勇気でも知恵でもない。権力や財力を用いて宝を手にする必要などないのだ。
この難題の前提の本質を誰も理解していないようだった。
さて、大伴御行は自宅にいる従者たちを全て集めて龍の首にある五色の光を放つ宝玉を手に入れてくるように命じた。
当然、そんなことはできるはずもない。従者たちは口々に文句を言ったが、大伴御行はこう言った。
「高貴な方の臣下であれば命を捨ててでも自分の主君の命令を叶えようと思うはずだ。龍の首の珠はこの国にはない。天竺、唐土にもない宝物だ。龍はこの国の海や山を上り下りするものである。それならば龍の宝玉を手に入れることはどうして難しいことであろうか。ましてや、お前たちは私の従者として名を世間に知られている。主君の命令にどうして背くことができようか」
そう言って大伴御行は龍の首の珠を探そうと道中の保存食のために邸内の絹、綿、銭などを使って買い込んだ。そして従者たちが龍の首の珠を探し求めている間、かぐや姫を迎えるために美しい家を作らせた。
「あんな命令に従える訳がないだろう」
「そのようなことをするなんて物好きか酔狂がすることだよ」
従者たちは与えられた食料を分け合って、ある者は自分の家に籠り、またある者は自分の行きたいところへ行った。
一方、大伴御行はかぐや姫を必ず妻にする準備として愛妾たちを全て離縁し、一人で生活するようになった。
だが、従者たちからの音沙汰は全くない。
怪しく思った大伴御行は粗末な身なりで従者たちが出発したという港に行き、そこの船乗りにいくつか質問をした。
「大伴の大納言の家来が船に乗って龍を殺し、その首の珠を取ったと聞いているが」
しかし船乗りは嘲笑う。
「訳の分からないことを言うな。そんな仕事をする船はない」
船乗りが無知だと思った大伴御行はこう言い返す。
「私の弓の力であれば龍を簡単に射殺して首の珠を取ることも簡単なことだろう。家来たちをわざわざ待つまでもない」
そう言って船に乗って遠くへ漕ぎ出してしまった。
しかしいざ海へと出ると急に海が荒れだし、船を海底に沈めようと波が船に打ち当たる。方角もわからない嵐の中で雷が鳴った。
「どうなっているのだ」
恐怖で悲鳴をあげる幼子のように怯えている大伴御行に船頭は泣きながら答える。
「長い間船に乗ってきましたがこんなことはありませんでした。このままでは船が沈むか、雷に当たりそうです。どうしようもない方に従って思いがけない死に方をしそうですね」
船に乗る前の威勢の良さも消し飛び、大伴御行は神に祈り出す。
「神よ、どうかお聞きください。つい龍を殺そうと思いました。今後、毛の一本でもそのようなことは思いません」
それを千度ほど繰り返したからだろうか、次第に雷が鳴りやんで代わりに風が速く吹いた。これは龍の仕業であり、この風はよい方角に向かっているのだと船頭は言うものの、大伴御行はこれを聞き入れようとはしなかった。
やっとの思いで陸地にたどりついたが大伴御行は起き上がることすらできずに船底に伏せていた。なんとか起き上がっても腹が非常に膨れ、両目にはすももを二つくっつけているかのようだった。その様子は、それを見た役人がつい忍び笑いをするほど滑稽だったのだ。
さて、京の都に帰ってきた大伴御行は自分の命令に従わなかった家来たちを怒るどころかこう言った。
「お前たちはよくぞ珠を持ってこなかった。龍は雷の仲間であったのだ。その珠を取ろうとして大勢の人が殺されかけたのである。ましてや、龍を捕らえていたならば私は龍によって殺されてしまっていただろう。かぐや姫という盗人が人を殺そうとしたのだ。家の周りでさえ今となってはもう通るまい。お前たちも近づくな」
家に残ったいくつかのものを家来たちに分け与えると大伴御行は世間から姿を消した。
これを聞いて、離縁された大伴御行の正室は腹がよじれるほど笑った。また、かぐや姫のためにわざわざ作らせた家も長年誰も使わなかったので屋根は巣を作るために鳥たちによって全て剥ぎ取られ、屋敷には乞食たちが住みついた。
世間の人々はこう言ったという。
「大伴の大納言様は龍の首の珠を取っておいでになったのか」
「いや、そうではない。両目にすもものような珠をつけていらっしゃった」
結局、大伴御行もまた失格であった。
だいたい、どの貴公子も金や権力を使って宝を手に入れようとする。
だが、それは彼ら自身の力ではない。
財力は生まれてきた家がもともと豊かだったからに過ぎない。
権力は生まれてきた家の地位がもともと高かったからに過ぎない。
貴公子たちは誰も自分自身の力で成し遂げようとはしていない。
そして、そんな彼らがもしかぐや姫と結婚しても姫はありあまる財力や権力と同じように彼らが持つ無数の財宝の一つとして扱われてしまうだろう。
確かに食事も住居も保障された裕福な生活を送ることはできるだろう。だが飽きたら忘れられ、老いれば捨てられる。そこに唯一絶対の価値はないのだ。
そんなものなど本物の愛ではない。
さて、最後の石上麻呂足に課せられた宝物は燕の子安貝であった。
燕の子安貝を見た者はいないが、ある者曰く燕を殺しても腹から見つけることはできないけれどなぜか子を産むときに腹から出てくるという。しかしながら誰か一人でも見るとなくなってしまうらしい。またある者は飯を炊く建物の屋根についている穴ごとに燕は巣を作っているので足場を高く積み上げて燕が子を産む瞬間を見張ればいいと言った。
喜んだ石上麻呂足はさっそく家来たちに燕の巣を見張らせるが待ちきれずに何度も使いをやって子安貝を取ったかと質問する。
しかし大勢の人に怯える燕はなかなか子を産もうとはしなかった。
困り果てた石上麻呂足の家来の一人が作戦を立てたが、それは燕が人に怯えて子を産もうとしないので家来の中で最も忠実な一人に取らせようというものであった。
そこで、石上麻呂足自身が取ることにした。
手を出して燕の巣を探すと手に平たいものを触った感触があったので人々が石上麻呂足をはやく下ろそうとしたが、綱を引き過ぎて綱が切れる瞬間に仰向けに落ちてしまった。だが、そうして子安貝を手に入れたと思った石上麻呂足であったが灯で照らしてみると子安貝と思っていたそれは燕の古い糞だった。
子安貝ではないと知った石上麻呂足は心労ですっかり衰弱して、普通に病死するよりも外聞が悪いと思ってしまった。これを聞いて姫もさすがに哀れに思ったか見舞いの歌を詠んだが、弱りきった石上麻呂足はその返事を書き終えると息絶えてしまった。
こうして、五人の貴公子は誰も姫の出した難題を解くことはできなかった。
実現などできない難題を出した本人である姫でもこの結果には失望と後悔があった。
肉の体を持って生きてきたこの数年で、この世のことはだいたい理解できた。
真実の愛はない。
わかりきった結論だ。
けれど、それでもその常識にも例外が存在するのだという証が欲しかった。
だからこそ、貴公子たちに難題を与えたのだ。
願わくは誰か難題の裏に隠された本物の愛に気付くように、と。
珍しい宝が欲しかった訳ではない。
生きるだけならば十分な地位や金を持っているのだから、いまさら生きていくのに必要ではないものがあってもしかたない。
財力を示してほしかった訳でもない。
そんなものはわざわざ見せつけるまでもないことであり、愛を証明するためのものではない。
欲しかったのは、愛。
もとから難題を解くことは不可能なのだ。ならばむしろ、難題を解けないことを恥じることなく素直に真実を伝えるという誠意を示すことこそが姫との婚儀の条件だった。
だが貴公子たちが去っていっても愚かな男たちの欲望はとまらず、それでも多くの求婚を断り続けたが、時の天皇の権力だけには逆らえなかった。
けれども、この世で最も高貴な天皇といえども真の愛はなかった。
もちろん、邪険に扱われることはなかった。だが、大事にされるほど余計に浮き彫りになる空虚な愛情が真綿で首をゆっくり絞めるように姫を苦しめた。
愛などこの世のどこにもありはしない。
それこそが姫がこの地上で導き出した残酷な結論であった。
全ては移ろいゆく。
三界の狂人は狂せることを知らず。
四生の盲者は盲なることを識らず。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し。
この世の狂人は、誰も自分が狂っていることを知らない。
目の見えない生き物は、目が見えないことを認識していない。
人は何度も生を繰り返しているが、生まれる前の事は永劫の暗闇の中にあり、理解せぬまま輪廻転生を繰り返している。
人は何度も死を繰り返しているが、死んだ後は永劫の暗闇の中に帰り、再び転生する。
すなわち、この世は無常である。
そう悟ったかぐや姫は月へと帰っていった。
二度と愛を求めるという苦しみを感じないように全ての感情を捨て去って。
自分以外誰もいない大海原で助けを求めるように、親を失った迷い子がすすり泣くように、その日の月は夜空に輝いていた。
その日の月の輝きはまるで結局真実の愛を見つけられなかったかぐや姫の涙のようであった。